珈琲は辛いから苦い
君は私の淹れた珈琲を一口飲んで苦いと言った。
「苦い? いつもと同じなのに」
「あ、ああー、なんか苦いんだ」
私は駅前の珈琲ショップで働いていた。珈琲豆の挽き売りも店先で行っていたのだが、私が担当の時に限って、君は度々買いに来てくれた。そこで言葉を交わすようになった。すごく気さくな人で、いつの間にか私もタメ口で話すようになっていた。
「そっかぁ」
私はカップの三分の一の量の珈琲を捨ててお湯で薄めた。これはアメリカンではない、お湯割りだ。アメリカンは珈琲豆自体が浅煎りなのだ。因みにアイス珈琲用の豆は深入りなので真っ黒だ。
「だったら紅茶にすれば良かったね」
「そうだね」
君は笑ってそう言ったけど、それが君を見た最後だった。
そういえば君はいつも辛そうだった。私に話しかける時は笑っていたけど、無理してるなってわかった。いったい君はなにが辛かったんだろう。
「俺、難病にかかってるんだ」
君はある日ふと、そう言った。
「え!? 嘘……」
「マジだよ。治療法はないんだ。でもまだ発病はしてないらしい」
「何の病気なの?」
「ルミちゃんは知らなくていい。俺、山奥の隔離病棟に行くから」
「な、なんで。普通の病院じゃダメなの?」
「睡眠薬で眠らされて連れて行かれるらしい。場所も何も俺自身分からないように」
「やだ! そんなのやだよー、ねえ! 嘘でしょ、ねえ!」
君は、いつもそんな感じだった。しばらく姿を見せないと思っていたら、ヤクザに拉致られていたが、死んだおじいちゃんが急に現れて助けてくれたとか、突然記憶がなくなって森の中を彷徨っていたら狸のコウイチくんが帰り道を教えてくれたとか、そんなことばっかり言っていた。私はそれを半信半疑で、でも結局いつも君の言うことを信じてしまった。
君は今、何をしているのだろう? スマホもPCもテレビもラジオも新聞も、情報源が何もない僻地でゆっくり読書をしたり将棋をさしたり、トランプをやって過ごす。50歳までに発病しなかったら出られる。それまでに発病したら1年未満で死ぬ。君の話は、君の話は埒が明かない。真実なのだろうか。いや、全てが嘘だったのかもしれない。君はどこかで誰かと……誰かと、楽しく笑いながら暮らしているのかもしれない。君は辛いふりをしていただけなのかもしれない。そう思ってみたりもしたけど、なにも私には分からなかった。
温めたカップに一人分の珈琲を注いだ。香りが良くコクのある苦みの強いマンデリン。一口すする。空腹の胃に向かって燃えるような刺激が突き刺した。
「痛っ!」
喉の奥に残ったのは孤独な苦味。辛いと苦いは似ていると思う。