幻想郷山月記
初夏、草は茂り、高い草は人の背丈を超える高さで乱立している。そんな雑草たちは博霊神社の周りに特に多い。歩く者の少ない博霊神社への小道は雑草に侵食されようとしている。
その博霊神社を訪れている人間が一人。博霊の巫女に妖怪退治の依頼をしにきた村の人間だ。
「で、その退治してほしい妖怪ってどんなのよ?」
霊夢は依頼してきた男が酒をひと瓶持ってきたので上機嫌で、依頼を受けることに乗り気だ。受けることを前提に話している。
「いや、妖怪では無いんだが……」
「妖怪じゃないの? じゃあなんでうちにきたのよ」
「実は、最近村の周辺で虎が出没していて、そいつを退治してもらいたいんだ」
「虎ぁ?」
霊夢はいぶかしむ。虎は妖怪ではないのでお門違いだ。この依頼は断るべきなのかもしれない、という考えが霊夢の頭をかすめる。しかし一旦貰った酒を返す気はさらさらない。
「ああ、虎だ。それも人喰いの。村人の前に姿を現したことがあるし、既に食われた奴もいる」
「食べられた人はかわいそうだけど……うちは妖怪退治はするけど害獣駆除はやらないわよ」
「では害獣駆除をしてくれる人を紹介してもらえないだろうか。ここに来る前に漁師に頼みにいったのだが断られた。それどころかここいらで虎が出るのならこのあたりは近づかないようにしようと言っていた。私は他に頼める人を知らない。どうか、受けてくれないだろうか」
「う~ん」
霊夢は渋る。霊夢は害獣駆除をしてくれるような人物に心当たりがない。かといって自分で受けるのはお門違い。(できないことはないと思うが)でも面倒くさそうなので迷っているのだ。
「この依頼は村の総意だ。依頼料は保障するし、受けてくれればうちの村の者が今後この神社に詣るだろう」
「受けるわ」
霊夢は賽銭のためにうなずいた。
◇◆◇◆◇◆◇
霊夢は虎について聞くためにその男について村へ向かった。普段は空を飛ぶが男は飛べないので歩きだ。草が茂る道を不快に思った霊夢は今度草刈りをすることを決意した。道中、男は名を遠山三治という、と名乗った。霊夢は彼を遠さんと呼ぶことにした。普段そう呼ばれていると彼が言った。
「で、遠さん、その虎の話を詳しく聞かせてもらえないかしら?」
「ああ。少し関係のない話も混ざるが、一連の出来事を説明すると外せないことなので我慢して聞いてほしい。
私たちの村の、外れの方に長次という男が母親と住んでいた。そいつは真面目な性格で、融通の利かないところもあって、でも家族をとても大事にする奴だった。私の親友だった。そいつが、ひと月ほど前にある女性と結婚した。長次は家族を大事にする奴だし、その娘も気立てのいい人で、村人全員で祝ったものだ。いい夫婦が出来たもんだ、とてもめでたいことだ、と。しかし、息子にいい伴侶ができて安心しすぎたのか、ついこないだ、母親が逝ってしまったんだ。式のすぐあとにあんなことになってしまってかわいそうにと、村の人で葬式をしてやった。もともと母と二人暮らしだった長次は三日三晩泣き通して、とても葬式の音頭をとることができる様子じゃなかったんだ。そして四日目、長次が行方不明になった。情緒不安定になっていたから何をするものか知れない、外へ飛び出したのかも知れぬとまた村人が総出で、手分けして探しまわった。すると虎に襲われた、という者があるんだ。幸いそいつは傷を負わなかったのだが、虎が現れたことで長次は虎に食われたのかもしれないということになった。……わかっている、食われたものは生き返らない、腹を裂き胃腸を割っても長次は戻ってこない……そんなことは承知している、だが親友を食った虎を野放しになどできるものか! しかし、これは私の考えだ、村の者は人食い虎がいては野山に分け入ることもできないから退治せねばならぬとの思いで依頼を決めた。その考えは正しい。理由は何であれ私たちは虎の退治を依頼する。できれば、できるだけ無惨に虎を葬って頂きたい。これは親友を食われた男の個人的な恨みだ」
本当に関係ない話が多いわね、と霊夢は口に出さず思った。
「まあ、無惨に、ってのはできるかわからないけど、依頼は受けてあげるわよ。
ところで、いくつか聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「私に答えられることならいくらでも」
「ありがと。じゃあまず、泣き通してた、ってことは家にいたのかしら? そうすると虎はわざわざ家に入り込んでその人をおそった? 奥さんは気がつかなかった?」
「嫁さんは気持ちを察してそっとしておいたそうだ。だから一緒の部屋にはいなかったし、家の外に出ることもあった。それに、長次は母親の墓に参ったときに襲われたのかもしれない。墓に参るところを見たというのはいないが、自分の親の墓に参るってもおかしくないだろう」
霊夢は少しの間考え込んで、
「……どこで襲われたのかわからないの?」
「そうだ」
「血の痕とかなかった?」
「それらしいものがあったという人はいない」
「ということは、虎は最初に襲った場所で喰らわなかった……?」
しかしどうして虎がそんなことをしたのか、霊夢にはわからない。
「もうひとつ。なんで虎に襲われた人は無傷だったの? 人食い虎なら食べちゃいそうだけど」
「それなんだが、草むらから虎が躍りかかってきて死ぬかと思ったら、襲う寸前で虎はひるがえって逃げて行ったのだそうだ」
「はあ?」
どうしてこの虎は不可解な行動をするのだろうか。
霊夢にはわけがわからない。
「まあ、退治すれば済む話よね」
そう結論付け、難しく考えるのをやめた。
それから二人はすぐに村に着いた。
◇◆◇◆◇◆◇
霊夢はその人の奥さんや村人に話を聞いたが、遠さんから聞いた以上の情報は得られなかった。何人かの村人にはどうか虎を退治してくれと念を押されたので、退治が成功した時には厚く信仰するようにと約束させた。
母親の墓まで行ったが何も見つけられなかった。もちろん血痕もどこにもなかった。
「まったく、どうやって退治しようかしら」
ため息をつく霊夢。妖怪相手ならお札などが効くが妖怪でない虎には空を飛び虎の牙の届かないところから夢符パスウェイジョンニードルでちまちま攻撃するぐらいしか思いつかない。多量に消費するのは嫌だし、致命傷を与えられないと逃げられる可能性もある。深い草むらに入られると見失うし、もしどこかの洞窟を巣にしていたら高所というアドバンテージを生かせなくなる。
策に困った霊夢はとりあえず虎の退治法を尋ねに稗田の屋敷に向かった。
◇◆◇◆◇◆◇
稗田の屋敷の使用人に阿求の書斎まで案内された霊夢。
「すぐにお茶をお持ちします」
「煎餅とかもあると嬉しいわね」
客の立場でありながら使用人にずうずうしくも注文をつける霊夢。阿求は苦笑して、持っていた筆を置き、霊夢に向き直る。
「ほどほどにしないと嫌われますよ」
「妖怪に散々嫌われて慣れてるわ」
阿求、ため息をひとつ。
「今日は何の用件でいらしたんですか? 見せられない書以外なら使用人に持ってこさせることができますが」
「たくさんの本の中から目当てのを探すのは苦手よ。今日は、虎の退治法を知ってやしないかと思って」
「虎の退治法?」
阿求は首をかしげる。
「どうしてそんなことを?」
「虎がね、出たのよ。妖怪相手なら慣れてるけどなんか普通の動物の方の虎みたいでさ。どうにも攻めあぐねているのよ」
「はあ、虎が……。
それは本当に虎だったんですか? 虎の姿の妖怪を見間違えたとかではなく?」
「虎としか言わなかったからねえ。目撃者が虎って言ったんだから虎でしょ。村人でも虎型妖怪と虎の区別はつくと思うんだけど」
「姿が同じなら間違うこともあるのでは?」
「あんた妖怪に会ったことないの? 獣型の妖怪って、近くに寄ったときの気配でわかるのよ。誰でもわかるわ」
「私だって会ったことぐらいありますよ、命蓮寺の門番とか唐傘、あとは紅魔館の門番……」
「全部人型でしょ。人型になれるってのはそれだけ気配を抑えたりするのに長けてるのよ。弱い奴ほどよく吠えるって言うじゃない。あれと同じよ」
「そうですか……」
さっきの使用人がお茶と煎餅を持ってきた。それぞれの前に湯呑を置いている間、二人は一言も発しなかった。
給仕を終え、すぐに使用人が出て行った。
「で、虎の退治法を知らないかって話よ。できるだけ手っ取り早いのがいいわね」
「もう少し質問させてください。虎を見て、誰も傷を負ったりしなかったんですか? 虎に襲われた、傷を負った、人死にが出たという話は寡聞にして知らないのですが」
「襲っては来たらしいわ。というか虎の方から襲ってきた。でもそいつ自分から逃げて行ったって」
「自分から襲っておいて、何もせず、逃げて行ったと?」
「そう聞いたわ。まあホントに襲われて死んじゃったりしてもかわいそうだし、あぶなかったわね」
霊夢は煎餅を一枚取り、かじる。パキッ、といい音がした。
「襲いかかったのに逃げる、あぶなかった……」
「なに、心当たりでもあんの?」
「いえ……なにかあるような気がするのですが、思い出せません」
「あんたが思い出せないってどういうことよ」
「見たものは全て思い出すことができるのが私の能力ですが、話していたことや聞いていたことは全ては覚えられません。なので、それかもしれないです」
「なんだ、何でもかんでも覚えられる程度の能力かと思ってたけど、完璧じゃないのね」
霊夢は驚いた顔をし、阿求は苦笑する。
「もし人が全てを覚えていられたら、私なら発狂すると思います。私が覚えるのは見たことだけ、なのでまだ普通でいられますが、もし全て覚えているのなら、産まれた時の苦しみ、傷つけられた言葉、親近者の死の悲しみ、もちろん身体的な怪我の痛み、そんなものは捨て去りたい記憶になるでしょう。忘れることで人は生きていられるのです」
「だれもあんたが普通だなんて言ってないけどね。……この言葉もしばらくで忘れる?」
「私は見ること以外に関する自分の記憶力は平凡だと信じていますよ?」
阿求は笑みで返す。
少しだけ目をそらす霊夢。
「で、退治法」
「ざっと思い出してみましたがやっぱり物理的なものしかないですね。トラバサミ、弓矢、刀剣といったものが定石です」
「扱えそうにないわねえ。なんにしろ道具が要りそう……霖之介さんとこいかないと」
「お役に立てず残念です」
「別にいいわよ。いざとなったら魔理沙でも頼るわ」
「引っかかっていることをがんばって思い出しておくのでまた来てください」
「そうね、また来るわ」
そう言って、ぬるくなった茶を飲み干してから阿求の部屋を出て行った。
◇◆◇◆◇◆◇
香霖堂の入口についてみると魔理沙と妖夢が言い争いをしていた。
「そんなこと許可できるわけないじゃないですか!」
「いいじゃないか、大したことじゃない」
「他人事だと思って! 絶対駄目です!」
「少しくらいいいだろ!?」
「駄目です!!」
「何をやってんのよあんたたちは」
無視して中に入りたかったのだが戸の真ん前にいるのでそうもいかず、面倒だと思いつつも霊夢は声をかけた。
「あっ霊夢さん! 助けてください!」
「なんだよ助けるなんて大げさな」
「何よ」
「私は新しい弾幕をそいつの半霊に一発撃ち込ませてほしいって言ってるだけだぜ」
「ただの弾幕じゃないって言うから駄目って言ってるんです! 対幽霊弾幕なんて、なんでそんなもの考え付くんですか!?」
「本当に効果あるかわからないぜ? ちょっと閃いただけの小規模ビームさ、このミニ八卦炉以外には何も使わない。それを昨日思いついたら今日ここでおあつらえ向きのやつに会ったんだ、いいじゃないか少しぐらい」
「ダメよ、半人半霊がもし半霊を失ったらどうなるかわからないじゃない。思いつきの物の効果がどれだけか知らないけど、やめておきなさい」
「ちぇっ」
魔理沙は手に持っていたミニ八卦炉をしまう。
霊夢としては面倒を避けただけである。
「ありがとうございます霊夢さん。では私はおつかいの途中なのでこれで」
去る妖夢の背中を名残惜しそうに眼で追う魔理沙。霊夢が香霖堂に入り、魔理沙も入った。
「うるさかったよ、静かにしてくれないか」
「店の中じゃないんだから、外で何やっててもいいだろう」
「客が店の前で口論を見たら入らずに帰ってしまうかもしれないじゃないか」
「あまり客来ない癖に」
今度は霖之介と口論した魔理沙は店の奥に入り込む。
「口論を見ても帰らなかった客にサービスしてくれないのかしら」
「おっ霊夢、客として来てくれたのか。何がほしいんだい?」
霖之介はすぐに店主としての顔になる。
「虎を退治できそうな道具ってない?」
「虎?」
霊夢は阿求に説明したのと同じことを霖之介に話した。
霖之介はとても驚いた様子で、
「この幻想郷に虎が出るなんてなあ。いよいよ外の世界で虎がいなくなりつつあるということか」
「で、なんかないの?」
「ちょっと待っててくれ、奥の方に何かあったはずだ」
そう言って席を立つ。なかなか出てこないので霊夢は茶を入れ、魔理沙も湯呑みを出して飲んだ。
霊夢が一杯目を飲み干し、煎餅を出そうと腰を上げたところで霖之介が戻ってきた。
霖之介は迷惑げな顔をしてから、ため息をひとつつき、持ってきたものを霊夢に渡した。
「これは虎と相対するのに十分な武器だと思うよ」
「これは……弓? 変な形の弓ね」
霖之介が持ってきたのは弓だった。もちろん霊夢に弓の心得はない。幻想郷で弓を使う者といえば永遠亭の薬師だろうか。
「わたし弓なんて使えないんだけど」
「弓なんて弦を引くだけだろう? まるきり使えないなんてことはないさ。それに、その弓は少ない力で強く矢を射ることができる弓だと僕の能力が言っている。きみでも扱えるはずだよ」
その弓をコンパウンドボウというが、霖之介の能力では名を知ることはできない。
「うまく使う自信ないんだけど」
「悪いがほかに良さそうなものはなくてね。まあ試しうちをすればある程度慣れるだろう」
「仕方ないわね……これをもらうわ」
「代金は?」
「ツケで。今度払うかもしんないけど」
「またツケか。払うこと、忘れないでくれよ」
ため息交じりに言う。霊夢はツケでこの店のものをいくつも持っていっているので、店主としては頭が痛いのだ。魔理沙も同じぐらいツケをしているが。
霖之介は矢を渡す。霊夢は矢が鉄でできているのに気づいて驚いた。
試射をするために香霖堂の外に出る。妖夢の半霊が試射にちょうど良いかもしれないと思い、妖夢を行かせなければよかったかもしれないと少し後悔した。
◇◆◇◆◇◆◇
試射の途中で一本矢を失ってしまったが、霊夢はコンパウンドボウを扱うのに慣れた。もともと弾幕ごっこやその他に非凡な才を示す彼女のこと、短時間で素人とは見えないほどになった。とはいえ熟練者には遠く及ばない。
夢符や霊符などをしっかりふところに入れ、コンパウンドボウを持ち、お祓い棒を腰に差して、霊夢は遠さんを尋ねた。捜索中に虎が目撃されたところへ案内してもらうつもりだ。
「案内を終えたらすぐに戻っていいから」
「虎退治、もとい仇討ち、よろしくお願い申し上げる」
遠さんは仇討ちと思い熱くなっているが、霊夢はそこまでの熱意をもってはいないので少しうっとうしさを感じている。
草が高く育ち、左右を草に挟まれた道の途中で立ち止まる。
「襲われかけた奴によると、このあたりで襲われかけたようだ」
「案内ありがとう」
道の幅は2m弱、こんなところで虎に襲われたら逃げるのは難しいだろうと霊夢は判断した。草は虎が身を隠しやすいし、人は草むらの中に入れないので道を進むか戻るかの二方向しか無い。
「じゃあ……」
戻っていいわ、と言おうとしたとき、霊夢は殺気のようなものを感じた。
即座にスペルカードを二種類取りだす。こんなところでは弓を使うのに時間がかかると判断したためだ。
霊夢は遠さんを背にして近寄り、周りに目を配る。遠さんも戸惑いつつ、場の空気が変わったのを感じて左右をきょろきょろと見る。
「巫女さん、まさか……」
「そのまさかみたい」
霊夢は己の短慮を後悔した。案内とはいえ何の抵抗力もない村人を連れてくるべきではなかったと。
窮地を脱する方法を思案するがうまい方法は浮かばない。
冷や汗が一筋、霊夢の頬を流れ落ちる。
そのとき、
草むらが揺れ、
遠さんが身じろぎ、
何かが接近する気配がし、
草むらから虎が飛び出し襲ってきた!!
霊夢は持った符の片方、パスウェイジョンニードルを使おうとするが虎の速さを見誤り、虎に当たらない。
一時間にも長く感じる一瞬、目を閉じなかった霊夢は虎が自分たちを避けるのを見た。
心臓が早鐘を打っている。
助かった、という言葉が霊夢の脳に浮かぶが、まだ虎は去っていない。不可解な行動の後だが、コンパウンドボウを素早く構え矢を番える。弓は虎の去った方向へ向ける。
数秒。音は風に擦れる草の音、遠さんと霊夢の荒い呼吸。
また数秒、
「あぶなかった。あぶなかった」
呟く男の声が聞こえた。遠さんではない。霊夢の知らない声だった。
その声が聞こえてきた方向は驚くべきことに、虎の消えた方向。
これはいったいどういうことだろうか―――
「長次! その声は長次ではないか!!」
突然、遠さんが叫んだ。
「長次! どこにいるんだ!」
「…………その声は遠さんか。遠さん、私はここだ。この草むらの中に私はいる」
霊夢は混乱する。虎が去った方向からいきなり人の声? 死んだはずの男の?
霊夢は死体も血も見つかっていなかったことを思い出す。
「どういうこと?」
「長次、どういうことなんだ!? 姿を見せてくれ!」
「それはだめだ、遠さん。私はなぜだかわからないが虎になってしまった。私の体を一瞬みただろう。完全に虎と化した私の体を。体だけではない、精神も虎になりつつある。ウサギを見れば私の中の人間は姿を消し、次に気がついたときは私の口は血で濡れていた。次に人を見て踏みとどまる自身は私にはない。今草むらに身を隠すことができている。後生だ、今のうちに行ってくれ。妻には私の死体を草の中に見つけたとでも伝えてほしい。早く、早く行ってくれ」
遠さんは絶句している。霊夢は話を聞いて取り憑く系の妖怪かと予想する。
霊夢はおもむろに弓、お祓い棒、スペルカードを地に置き、祝詞を早口で唱え始める。
霊夢は誰かこの妖怪を祓える神を降ろして払ってもらおうと考えていた。
しかし、祝詞は長く、神を降ろすにはある程度の時間がかかる。
祝詞を唱えつつ、霊夢は唱え終わるよりも、この妖怪の虎の精神が人間の精神を侵してしまう方が早いかもしれない、と冷や汗を流した。
しかし、唐突に、空間が避け、その中から女性が姿を現す。
「霊夢、不手際が過ぎるわよ。仕方がないからこの妖怪は対処してあげるわ。しっかりなさい」
「紫、」
すぐにその開いた空間は閉じ、女性の険しい表情は見えなくなった。
草むらの中から、人間の男が、自分の姿に驚いている様子で歩いて現れる。
「……遠さん、」
「長次!!」
遠さんはその男に駆け寄り、抱き寄せた。
長次と呼ばれた男は泣いていた。
霊夢は淡々と地面に置いた道具を拾っていた。
◇◆◇◆◇◆◇
それから、遠さんは彼を村に連れて帰った。村人はよかった、よかったと言い合った。
霊夢は報酬をたくさんもらった。村人から、長次の嫁から、遠さんから。
遠さんは霊夢の目を見てありがとうと言った。霊夢は目をそらしかけたが、頷いた。
あまりに多かったので、荷台を借りた。正直、飛んで帰りたかったので霊夢をいらだたせた。もちろん表情には出さなかった。
荷台が通るには狭いような道も通って、博霊神社に帰った。そのころには辺りは暗かった。
その夜はもらった野菜などを適当に食べて、翌日に阿求を訪ねることにした。
阿求は煎餅とお茶を用意して待っていた。
「退治終ったわよ」
「……退治してしまわれましたか?」
「人間が虎になってたって。中の人は無事よ」
「そうですか、安心しました」
霊夢の説明はとても短かったが、阿求は理解した。
「私の方も思い出しました。『山月記』というものでした」
「何それ」
「書物の名前です。こんな本です」
阿求は本を霊夢に手渡す。
「鈴奈庵から借りたものなので大事に扱ってくださいね」
霊夢はパラパラと目を通して、
「つまり、どういうこと?」
「まあつまり、人間を虎にする妖怪ですね。その妖怪の名前は知りませんが。この小説のことだったと思いだしてから、霊夢さんが中の人を傷つけずに退治できたか心配でした」
「正体にたどり着けたようね。まあ及第としておきましょうか」
いきなり紫が現れた。阿求はびっくりしてのけぞる。
「由来は中国、精神の弱った人に取り憑いて虎の姿に変える妖怪。中国の人にくっついて幻想郷に来たのかしら。……ともかく、霊夢」
「わかってるわよ。精進するわよ。これでいいんでしょ?」
「そのとおり。才能については不足していない。努力を怠ってはいけないわよ」
またいきなり消える。
「び……びっくりしました」
「神出鬼没だからね。心臓に悪い奴だわ、本当に。
じゃあ、帰るわね。お茶、おいしかったわ」
霊夢は腰を上げて阿求の部屋の戸に手をかける。
「あ、はい、お気をつけて」
阿求は客を送る言葉をかけるが、霊夢は首だけで振り返って、
「何に?」
と言った。
◇◆◇◆◇◆◇
霊夢はこの虎の妖怪の一件が終わってから、(少なくとも外見は)真面目に修行し始めた。魔理沙をして「誰だこいつ」と言わせるほどに。それでも修行以外は元の霊夢のままなので、別人のように変わったということは無かった。
後に、紫は、山月記の本を手土産に、霊夢に虎化の妖怪について詳しく教えにきた。目に見えないタイプの妖怪であること、人間としての意識を徐々に虎としてのものに変化させていくものであること、紅魔館の門番か青の邪仙にくっついて渡来してきたのだろうということ。
「私がしたのは追い払っただけで、根本的な解決には至っていないわ。そのうち根本的な解決をさせるから、修行に励んでおきなさい」
と言い残して消えた。言いたいことだけ言って消えるんだから、と霊夢は不平をもらした。
コンパウンドボウの香霖堂へのツケは、この事件の報酬の野菜などをそのまま霖之助に渡すことで支払いを済ませた。霖之助は大層驚き、雨が降るのではないかと心配した。その野菜を使った夕飯を霖之助と霊夢と魔理沙とで食べることになった。魔理沙は自然に湧いた。
夕飯に酒を出しながら、霖之助は最近の霊夢の様子を人が変わったようだと評した。魔理沙も同じように、誰かが乗り移ったのではないかと半分冗談、半分本気で言った。
霊夢は憮然として霖之助の注いだお猪口を呷った。