たんぽぽ
今や日本人の2人に1人はガンにかかり、その3分の1の人は5年以内に亡くなるという。その日は予告無に突然やってくるのだ。地域や会社の健康診断で再検査の通知が来てから始まるまさかの告知。迫り来る死への恐怖。あなたの魂を救ってくれるものは何処にもない。そんな藁をもすがる思いを少しでも克服するために、自身の体験を元に書いた、人としての生き方の提案である。
爽やかな初夏の陽だまりの中を私は歩いていた。ここ前橋市のバラ園は開花の全盛期で大勢のバラ愛好家でにぎわっていた。広い敷地の中に、いろいろなバラが咲き誇っている。黄色にむらさき、オレンジ色に赤など。隣を歩く私の妻は大輪のむらさきのバラが好みらしく、角度を変えて見たり、香りを楽しんだりしている。私もなんとか癒された気分になり、それなりに楽しんでいた。バラの木々は良く手入れがされていて、周囲の雑草も片付いていた。よくもまあ、こんなにも花を咲かせたものだと感心しながら、さりげなく目線をフェンスの外にやると、ふとタンポポの種が視界に飛び込んだ。アスファルトの駐車場とフェンスの基礎コンクリートとの隙間に生えたものである。その耳かきの反対側のような綿のかたまりは昔、子供達と落下傘とか言いながら遊んだものである。白いふわふわの種がそよ風に舞う姿は、平和の象徴のようであるが、そのときの私には、そら恐ろしい悪魔に見え、恐怖に立ちすくんでしまったのであった。
この話は今や日本人の2分の1の人がかかり、そのうちの3分の1の人が亡くなるといわれている悪性腫瘍という病気を突然宣告された私の記録である。当時の私は気持ちのよりどころを求めていた。恐ろしいものから逃れるために、魔法の言葉を求めて次から次へと本屋の棚を渡り歩いた。ある宗教の布教者が我が家に来たことがあったが数時間もの間、食い入るように話を聞いたこともあった。しかし、残念ながら魂の救済に役に立つものは存在しなかった。暗闇の中に放り投げられたようであった。私は、この文章を書くことで私に似たような状況に陥ってしまった人の心のよりどころに少しでもなれることを祈っているものである。それは、地獄の門を叩いて戻ってきた私に課せられた使命なのかもしれない。
なかなか相手の気持ちになるというのは、簡単そうで難しい。楽しい話は、もともと楽しい気分でないとすんなり入り込めないし、悲しい小説を読んだり映画を観たりすると、次第にその中に没頭していき、主人公の立場で大泣きしたりすることはあるが、悲惨な新聞の記事やニュース番組などで多少見たり聞いたりしたことくらいでは極端な感情の高ぶりは少ないものである。以前、宮崎勉の連続幼女殺害事件で、被害者である幼女を焼いた骨が、その親の住む玄関に置かれてあったというニュースを聞いた時は、さすがに私は涙で前が見えなくなってしまった。ちょうど車の運転中だったので、通りかかりの店の駐車場に車を停めて、あまりに無残な話で大泣きしたのを覚えている。近しい人や可愛がっていたペットなどが亡くなって、涙が止まらないほど悲しい気持ちになる。それは、もう会えないから?もうあの顔を見ることができない。なんて私はかわいそうなのか?という悲しみだろうか?それとも、こんな死に方をして、さぞかし悔しい気持ちで逝ったことだろうという相手方の悲しみか?それとも、これからどうやって生きていくのか?という遺族や関係者の行く末を心配しての涙なのだろうか?理由はともあれ、とにかく悲しい気持ちには変わらないというのが、本来の姿なのだろう。
ところで人はなぜ葬儀に参列するのだろうか?以前、ある葬儀に参列したときの話だが、焼香を終えて外のホールにいた人達が、ざわざわとおしゃべりを始めた。その声はだんだんエスカレートしていって大声になり、奇声を発して大笑いを交える状況となっていった。その笑い声は焼香の順番を待つ私達にも十二分に届き、さしずめ同窓会か結婚式さながらであり、葬儀会場にもざわめきが起きてしまっていた。とうとう坊さんはお経をやめてしまい、葬儀場の人と遺族の人が行って、その陽気な団体に帰るよう促したことがあった。彼らはなぜ葬儀に参列したのか?少なくとも亡くなった人やその遺族のことを気に掛けて来たことではないのは理解できる。それは世間体を気にしたからである。自分の家族のときに来てもらったとか、みんなが行くからとか、周りの人から悪く言われるとか、他人の目を気に掛けた行動であると推測できる。では、悲しい顔をして参列している人は何が悲しいのか?といえば先に申し上げた如くである。最近はやりの家族葬というものは、自分の葬儀には本当に悲しいと思う人だけに来てもらいたいものだと願う、そんな気持ちが理由のひとつなのかもしれない。
「どうしたの?その目。」と同級生の女子に言われたのは、去年の8月のことだった。その息子が家を建てるというので設計を頼まれ、その上棟の祝い事の席で酒を注ぎながら彼女は私の右目の目頭を支配している黒いものを捉えたのである。私は黒いものについて聞かれるたびに「なにかホクロのようなもので、気にしなくて大丈夫なんだってさ。」と決まり文句を言っていた。実際そうだった。この黒い出来物を発見したのは10年以上も前のことであった。
群馬済生会病院というのは我々が現場監督して造った建物である。評判はとても良く、特に外科に技術は定評があった。事実、屋上にヘリポートがあって県外から切断してしまった体の一部を持って空輸されてくる緊急患者もいた。事実、知り合いの大工なども入院患者の中にいて、工事しているところに来て指をつなげてもらったなどと有頂天な姿をみせてくれたこともあった。これはすごいということで、私は済生会病院の信者となっていったのである。
実際、工事現場では他人に言えないような小さな怪我に時々見舞われた。怪我をしないように安全管理をするのは監督業の4大柱の一つでもあるのに、当の本人が怪我をしていては格好がつかないので、その多くはそのままで治してしまったが、さすがに目の怪我は心配で病院のお世話になった。現場の記録で鉄を切断しているところの写真を撮っている最中に切り粉が目に入り、次の日もゴロゴロしていて痛くてしかたないなどのことが何度かあったが、その都度済生会病院で簡単に治療していただいた。そのとき「お宅はどうしたのですか?」と初老の紳士に話しかけられたことがある。午後の診察待合室で幾人も患者はおらず、私は長椅子にその紳士と2人きりでいた。「ああ、目に鉄の切りくずが入ってしまって、もう2日もゴロゴロと痛くて・・・。」とここに座っている理由を手短かに説明した。その紳士はサングラスを掛けていたが、私は誰かの付き添いかと思っていた。しかし、私の勘違いで、この人は患者さんであった。紳士はゆっくりと前の遠いところを見ながら「そうですか、その程度なら良かったですね。私などはエンジンの草刈機で除草していたんですよ。すると、バチッと何かが目に当たりましてねぇ。ええ、フッと手で押えましたらね、指の間を暖かいものが流れ落ちるのがわかったんですよ。」思い出したことに少し興奮したのか紳士は左の膝をさすり始めた。「片目で歩いて家に行きましてね、せがれに大量に流れ出た血のことを言うと、血なんか出てないというんですよ。そんな馬鹿なと目を触ってみると、べっこりと窪んでいましてねえ、ええ・・」そのことを再現するように右の手で卵でも持つような丸い形を作り、サングラスの右側に持っていった。「医者が言うには、目の中の水が抜けてしまったので失明だというんですよね、ええ・・」と左手で膝をさすって言った。なんと恐ろしい話なのだろうか。そんなことを思い出していた。
冒頭にお話した通り、私の右目には目頭のところに黒い出来物があった。それは、十数年前の朝、顔を洗った私は鏡を見て発見したものである。痛くも痒くもなく、しかし気になるのですぐさま済生会前橋病院へ行った。一握の不安をよそに、結果はびっくりするくらい簡単であった。「よかったですね~悪いものではありませんよ。ま、あまり気になさらないでください。一種のホクロのようなものですから。誰にでも大なり小なり目にもホクロがあるものなんですよ。」と医者は微笑んだ。
以来まったく目頭の黒いものについてはノーマークであったが、それは長い年月を掛けて少しずつ確実に大きくなっていったのである。
病院に行くきっかけとなったのは中学の同級生や母親などが心配してくれたからである。「気持ち悪いから取ってもらいなよ。」自分自身も何か気味の悪いものを感じていたのは確かであった。仕事が忙しくて行くのが遅れてしまったが、やっと都合をつけて前橋の宮久保眼科というところが評判なので、そこへ行った。「なにか、掃除機の小さいので吸い取るか、チャチャッと切り取っていただきたいのですが・・。」と先生に進言したが、女医先生は返事もせずに無表情で顕微鏡のような機械を覗き込んで言った「いつごろからですか?」となにやら写真を撮ってコンピューターに取り込んでいるようであった。「15年くらい前からです。」私は暗い影が差し込んでくるような気配を感じていた。「そんな簡単なものではありませんよ。」と白衣の先生はカルテに目の絵を書き始めた。目頭の部分を黒く塗りつぶしながら「うちでは手に負えません。悪性の可能性があるので群大に紹介状を書きます。早めに行ってください。」と言われた。私はそのことがまだ、一応安全を見て群大で検査をしてからということと解釈していた。そして仕事が忙しかったので、群大には2週間後に行った。初日は受付にいた看護士に「診察は夕方まで掛かると思いますけど大丈夫ですか?」と言われたので、「冗談じゃない。午後から仕事があるので行かなければならない。」私はいそいそと退散した。数日後、読みたくても読めなかった本を数冊持参して待合室に座った。2時間ほどで私の名前が放送された。暗幕を左右に分けて入ると大広間の暗がりに幾つものブースがあってコンピューターの画面で青白く人の顔が浮かんでいた。さらに目が慣れてくればブースは10くらいあって、白衣の医者がそれぞれ机に向かって座り、それぞれに患者らしき人が機械にあごを乗せたりしていた。「11番にどうぞ。」と看護士にうながされて私は静かに椅子に座った。若くていかにも優秀そうでイケメンの医者がゆっくりと、しかし鋭い視線を私に向けた。「右目の出来物ですね?」と紹介状を読みながら対面した。若い先生は機械をレールに乗せて引きずり出し「ここにあごを乗せてください。」と診察が始まった。暗い双眼鏡の中に強い光が右から左から正面から迫り、静寂の中で不気味な時間が過ぎた。何かをコンピューターに打ち込んでいたイケメンの医者は、何かの紙を持って3つほど離れた診察ブースに行き、40歳くらいの医者と話を始めた。時々こちらを見ては難しそうに首を振り、あるいはうなづいてまたこちらを見たりするのが不安をかきたてられた。「少し外で待っててください。」と大勢の人がいる待合室に戻って椅子の隙間を見つけて座った。そのときはまだ、私の目の出来物は簡単に治るものであると確信していたのである。持ってきた単行本を読みながら1時間ほど過ぎてから、名前を呼ばれ診察室に入った。今度は7番のブースに入るよう言われた。今度は女医である。かなりベテランらしい雰囲気があった。「いつ頃からなんですか?」と先の若い先生に聞かれたのと同じ質問に戸惑いながらも、少しムスッとしながら同じように答えた。「ええ、15年くらい前に朝、顔を洗っていたら、ふと気が付きまして、右目の目頭に黒いものがあったので、すぐに済生会病院に行って診てもらったんです。そしたらなんでもないので気にしないようにっていうので、そのまま過ごしてきたのですが、ここ3年くらい前から大きくなってきて、なんとなく気にかかるので・・・」女医さんはおなじように双眼鏡の付いている機械を滑らして目の診察を続けた。少しあきれたような態度でゆっくりと息を吐いてから言った「悪性腫瘍の可能性が高いです。その周辺も切除しなければならないと思います。また、待合室でお待ちください。」とぶっきらぼうに言った。何か大変なことになってきたと認識しはじめたのはこのあたりからである。何かの勘違いでしたって、あの難しそうな顔が謝罪の笑顔に変わるのを願った。元来私は神仏に頼らず、霊的なものは信用しない主義であったが、このときは自然と何かに願いを込めている自分がいた。また、呼ばれてイケメン先生のブースに静に座った。「悪性腫瘍であることはほぼまちがいないので、切除手術をすることになると思います。」突然の告知に、何とも答えようがなかった。「あ、それから来週の月曜日に来てください。教授に診てもらいます。また、その日に腫瘍の一部を切除して調べます。マブタや眼球を取り出してから良性だったなんてことになったら大変ですからね。」ということで帰された。えらいことになった。高鳴る鼓動を抑えながら、帰路に向かった。
そして数日後の指定された日に大学病院に行った。薄暗い診察室で、その教授という人はコンピューターの青白い画面を食い入るように見ていた。私が前の椅子に座っても画面の写真から目をそらさなかった。次々と私の目の写真を見てからゆっくりとこちらに視線を移した。まるでホラー映画のシーンであった。かわいそうに、なんでこんなになるまで放っておいたのかとでも言うようにしばらく私を見つめてから「ホクロが肥大化して先端が悪性化している。切除するしかないね・・・担当医に指示しておくので、その通りにしてください。・・・・ああ、それからね、あなたは重症患者扱いです。」といって看護婦に目くばせして私を外に連れ出すよううながした。しばらくしてまた、イケメン医者の前に呼ばれた。「教授にも確認してもらいましたが、手遅れにならないところ切除したほうが良いということになりました。でね、我々がなにを悩んでいるかといえば、眼球を残すかどうかということなんですよ。眼球摘出となると、今までの生活が大きく変わってしまいます。しかし、不用意に腫瘍を残すと再発して命にかかわることになります。」ふと、姉のことが思いだされた。姉は7年前に、この病院で死んだ。肺ガンの脳転移であった。しかし入院時はすでに脳にスモールと呼ばれる小細胞ガンができていて、医者の言うステージ3ということだったが、初めからダメということは言われなかった。ある時期までは治るという希望は持って入院していた。「先日言ったように、今日はこれから腫瘍の一部を取って調べます。マブタやなんかを切除したあとに調べたら悪性でなかったなんてことになったら大変ですからね。ではまた、待合室で少し待っててください。」待合室は多くの診察を待つ人でいっぱいだった。大きなテレビがあって、隣には熱帯魚のたくさん泳いでいる水槽があり、その向うは子供の遊ぶスペースになっていた。私が現れても何ごともなかったかのように、そこにいつもの待合室があった。テレビを観てる人や隣の人と大きなアクションで話をしている人もいる。よく見れば、塞ぎこんでいるような人もいれば、腕組をして目をつむっている人もいる。ここには私の知らないことを抱えて沢山の人が集まっていたのだ。私は意外とスタスタと歩き、中廊下の通路の一角にある自動販売機コーナーに向かい、コーヒーを購入した。人通りの多い廊下の少し膨れているところに椅子と小さなテーブルがあって、その向うには中庭があった。私は外が見たかった。なぜかこの4人掛けの椅子はほとんど座る人がいなかった。ここは私のスペースにしようと決めた。なにか長丁場になりそうな気概がして、ここを私の居場所にしようと思った。
4時頃になってようやく名前が呼ばれた。処置室に行くよういわれたが、場所がわからない。中の看護師に聞くと検査室の奥に3帖くらいの部屋があり、床屋のリクライニングシートのようなものが2台置かれていた。先に2人の60代くらいの御婦人がいて、一人はすでにシートに寝ていた。そこにいそいそと女医さんと助手のような人が入ってきて「じゃあ、○○さん、始めますね。」と子供をあやすように、テキパキと目に何かを施し、「はい、これで終わりですよー。」と薬を付けていた。「あー良かった。もっとすごいことされるのかと思った。」とか言いながら椅子から降りた。2人目も女医さんが同じようなことをして、患者さんも同じような感想を残して退室していった。だれもいない狭い部屋にしばらく一人でいたが、「お待たせしましたねー、じゃあこちらに寝てもらいましょうか?」と聞き慣れた声がして私はリクライニングシートに仰向けに寝ることとなった。イケメン先生は私の頭のほうから顔を覗き込むように椅子に座り、右側に立つ助手は30歳くらいの女性看護師であった。慣れた手つきで目の周りを消毒し45センチ角くらいの緑色のシートを顔にかぶせた。「5パーセント麻酔、2シーシー。」と先生の声。「はい、じゃあ始めますねー」と右目だけが天井が見えた。なにかガムテープのようなものでマブタが上に下に貼り付けられ、完全にマバタキができなくなってしまった。「基本、右上を見ていてくださいねー」という指示であったが、なんともマバタキができずに苦しんでいると「ああ、忘れてた。失礼。」とでも言うようにクリームのようなものを目に塗られ、マバタキしなくても苦しいことはなくなった。しかし、うっすらと画像は映っていた。なんと注射の先が近づいてくるのが見えた。チクッとした痛みが目の玉に・・。「ええい、どうにでもなれぃ!」私はこの時間が早く過ぎるのを念じて、必死で右を見続けた。ステンレスの皿のものを取ろうとして失敗したというような、ガシャっと金属のぶつかり合う音がした。その音からしてその物体は重い金属のようであった。何を手にしたのだろうか?そんな重い金属の道具で目になにをしようというのか。目頭に痛みが走った。やがてジョリジョリと肉を切る音がし始めた。ぐーっと痛さが増した。気を付けの姿勢をしながらも、手と足が何かを掴もうとして、痙攣したようにぎゅっとしたままとなった。「痛いですかぁ~?」とゆっくりとした口調で言われたが、返事のしようもなかった。早くこの時間が過ぎてくれ~!必死も思いの中終わった。「これ、3分割で病理に出して。」と声がして顔にかぶせてあった緑色のシートが剥がされ、私は自由を取り戻した。しかしすぐにガーゼで目隠しされて、そこにテープを無造作に貼られて開放された。「はい、終わりましたよ~、気をつけて帰ってくださいね~。」と先生が退室していった。それでもまだ、手足が何かを掴もうとして異様な力を入れて私はリクライニングシートで全身が硬直していた。「大丈夫ですかぁ~」と看護士に促されてゆっくりと起上り、左目だけで歩くこととなった。距離感がなく、視界も狭い。片目で歩くというのは、こんなに変な感じなのか・・と改めて思い知らされた。待合室に戻ると女房が来ていた。「どうしたん?」と尋ねると「心配で病院に電話したら、車の運転が危険だからできれば家の人に来てもらったほうが・・っていうもんだから。」と私の腕を抱えた。バスで来たという彼女の運転で病院の駐車場を出る。もし片目となってしまったら、車の運転はできるのだろうか?目に映る景色を見ながらそんなことを考えていたが、それも命があってのことと最悪のことが頭から離れなくなっていた。
その日の夜、言われたとおりに目のガーゼを外し、目薬を垂らした。恐る恐る鏡を覗くと目頭の黒い物体は切除され、その繁栄は惨めな姿と化していた。その反面、目頭を中心に白目が赤くなっていた。目尻の方が、辛うじて充血という表現で納まるようであった。悪い部分を切り取って、そのまま治ってしまうような淡い期待をしつつも、何だかとてもくたびれて早くに就寝した。私は1階の和室で布団を広げ、いつものように毛布をかけて寝入った。私は悪い夢を見た。四角く白い天井が見えた。照明が眩しく、逆光の中を息子が何かを言いながら近づき、私の頬のところになにかを置いた。次は娘、それから母に女房が私の顔のところに何かを置く。花ではないか!しかもよく見れば皆泣いている。鼻をすすりながら、時々抱き合ったりしてなにかを言っているが、よく聞き取れない。「なんだここは!」と叫んでも私の周りは花だらけになってゆく。私の葬式か!そしたらなんと私の入っている箱は燃え盛る火の中に放り投げられたのだ。「やめてくれ~!」自分の異様な声が聞こえたまま私は跳ね起きた。私の横で寝ていた猫が迷惑そうに起き上がった。肩で息をしていて心臓が踊っていた。そして目を動かしてみると右の目頭に鈍い痛さがあるのが確かめられた。目の病気自体が夢であってほしかったのだ。淡い期待に裏切られながら台所に向かって冷蔵庫で冷えた水を飲んだ。汗で全身があまりに酷く濡れていたので脱衣場で着替えをした。体が小刻みに震えているのがわかった。恐ろしくて恐ろしくて2階の女房の寝るベッドに向かった。普通のシングルベッドに寝返りをして右下になり、壁にくっついて寝ている彼女を薄暗がりの中に見つけた。そっと後ろの隙間に入り、その手を求めた。いつもなら「暑苦しいから向うで寝てよ。」と嫌がるのに、そのときは手を握り返してきた。「助けてくれ。助けてくれ・・・」と何度も祈るようにささやきつつ、いつしか私は寝入った。そしてすぐに次の夢を見た。私の手術は始まっていた。執刀医が何かをつぶやいている。「ああ、やはりダメだな。取りましょう。」と言いながら私の目に紫色のゴム手袋をした手が近づいてきた。その人差し指と中指を揃えて目に突き刺した。キュニュっと音がした。引きずり出した目には何本かの赤い線が下がっていた。はさみでそれを切り離すと、四角いステンレスの皿の上に目玉が置かれた。台の水平が悪いのか目玉はツルーっと半回転しながら皿の上を滑って端まで行って止まった。「やめろー!」という声が自分でも聞こえながら飛び起きた。隣で女房が一緒に起きた。「大丈夫?」私はひどい寝汗をかいていた。心臓が大きく波打っていた。呼吸も荒く、体が震えていた。また水を飲んで着替えた。そんな夢を毎日何度も見て、何度も目が覚めた。そんな日が続いた。
一週間ほど経った。無常にもその日はやってきた。今度の診察には女房もついてきたいという。そこで、どのような種類の出来物なのかがわかるのだ。大方の病院の先生方の意見は悪性腫瘍のようだが、私はまだ、ただのホクロのでかいやつで悪性ではないと信じていた。「やだなー、あの先生の顔、見たくねー。」とつぶやく。「だってさ、遠慮なく何でも平気な顔で言うんだぜ。犬や猫にだって、もっと遠回しな言い方するんじゃねえのかよ。」と女房に言いつけた。もしかすると、このまま緊急手術とか言われて、そのまま・・・とか考えながら、女房の運転する車の助手席でふてくされていた。「あんなとこ、行きたくねえな・・。」というと「行きたくないよね・・。」と女房が答えてくれた。そんな単純な気持がわかってくれる人が近くにいるだけで、何だか少し気が紛れた。また、私はふと淡い期待をしていた。それは、このまま交通事故に遭って、私だけ大怪我で意識がなくなり、妻が気を利かせて「このまま右目の摘出をしてください。」とか頼んでくれて、気が付いたらすべての悪いことが終わっていたというシナリオを描いていたのだ。しかし、車は事故にも遭わず順調に病院に近づいていた。それが、また口を尖らせることとなった。「あーあ、いやだな・・・。」と愚痴ると、一呼吸置いて「・・・いやだよね。」と返す。「なんでこんなことになっちゃんたんかなー。」と言えば「ほんとにね・・。」と女房が付き合ってくれた。駐車場は無常にも空きがあった。満車で待っているうちに診察時間が過ぎてしまい、今日は帰ってくださいと言われるシナリオをも描いていたが、それも軽く蹴散らされた。駐車場を降りて玄関に入る、廊下を歩くと幾つかの角を曲がり、広いホールになるとその正面に受付がある。そこに診察券を入れて本人が来たことを眼科外来に知らせる機械が4台置いてあるのだが、その機械は無常にも、どんどん近づいてくる。そして私の正面に止まり、圧倒的な力を見せ付けて「さあ、判決の時だぞ。覚悟せよ!」と言わんばかりに立ちはだかった。「ふん、なんともないわい。」と口を尖らせて、診察券を入れた。もうヤケクソだった。すぐに整理券が出てきて、眼科の窓口に出した。10時40分だった。女房は隣りで「大丈夫だよ。」と声を掛けた。私は長いこと待たされるのは承知の上だったので、退屈しのぎに本を持ってきた。松本清張の単行本と先輩から読むよう薦められていた「弁証法とはどういう科学か」という本である。私は元来自分に甘く、苦しいことを好まないので読みやすい推理小説を選んで購入してきたのであった。私が高校生の頃、砂の器に出会って以来多くの清張作品に触れてきた。対外は読み始めからガッシリと組み付かれて身動きがとれず、母親が大声を出して夕食を済ませるよう何度も催促されないと、本から離れられないものばかりであった。が、その作品は嘘のように私の中に入ってこなかった。10ページくらいめくったろうか、とうとうそれ以上読む気力を失って、本を閉じてしまった。今思えば作品が駄作だったのではなく、私がただその中に魂の救済を求めていただけのことだった。事件が起こり犯人が誰かなど、そのときの私にはどうでも良いことだった。「助けてくれ!だれか助けてくれ!」と頭の中でしきりと繰り返していた。少し離れたところに大型のテレビがあった。NHKで「梅ちゃん先生」という番組をやっていた。若い女医とイケメンの医者との恋物語をやっていた。堅物の若い医者とおっとり型の女医とのすれ違いやお互いの思いやりなどのやりとりが、なんとも滑稽で歯がゆくて面白かったのに、今では呪わしい不快なことに映った。理論ばかりで人間的な感情に欠けて、能天気に何でも言ってしまうあの若い医者が、この壁の向こう側の暗闇から、まさに今私に死刑判決を突きつけようとしている医者という名の不幸をもたらす悪魔と重なっていたからであった。トイレに行った私は、手を洗う時ふと鏡を見て驚いた。そこにはいつもの自分とはかけ離れた姿があった。眉間に深いしわを寄せ、口を尖らせて「ちくしょうめ!なんでオレが!なんでオレなんだよ!」とぶつぶつ言っているのであった。歩きながらも「ばかやろう!ちくしょう!」とぶつぶつ言ってるのがわかった。
時刻は2時になった。女房殿もさすがに腹が減ったらしい。しかし、いつ呼ばれるかわからないので席を離れることはできなかった。コーヒーの一杯も飲みたいところだが、それも不可能だった。私は仕方なく「弁証法とはどういう科学か」という本を取り出した。いかにも難しそうなタイトルであったが、真ん中辺を開き一行を読んでみた。そこには人も何も、世の間のものはみな永遠の過去から永遠の未来までずっと「ただの物質」からできているのだと書かれていた。なぜか、その言葉が不安要素のある部分を拭ってくれたような気がして気持ちは幾分か楽になった。
3時を過ぎても名前は呼ばれなかった。もしかして予約は今日ではないのかもしれない。あるいは何かの都合で今日は診察ができないというのかもしれないという現実逃避の考えがアタマを持ち上げ「今日は帰ろうか?」と女房に同意をもとめた。しかし、現実は厳しいものであった。「ちょっと聞いてくるよ。」とあらぬ気を利かせて暗い診察室に彼女は入っていってしまった。戻ってきた彼女が「今日は手術が長引いていて診察は後日に延期だって。」とか言って死刑判決が伸びるのかと期待していたのだが「あと2人目だから診察室の中で待ってくださいだって。」と言う。「ふーん。」と本を閉じて立ち上がった。暗い中に青白く光っているコンピューターの画面が3mくらいの間隔にきちんと並んでいた。そこに座っているのが医者と患者である。「何番?」と女房に聞くと「11番だって。」と先日とおなじブースであった。4人掛けのベンチに座り、その方を見た。これだ、何度も夢にまで出てきた、この医者という名の悪魔。どれだけ私に不幸を持ってくれば気が納まるのだろうか。40代半ば位の女性患者に何かを言っている。何をうなづいているのか、どんな酷なことを言われているのだろうか。立ち上がってお辞儀をして出ていった。私は爪をパチパチ鳴らしていた。親指の爪に人指し指と中指の爪を引っ掛けて往復でパチパチ鳴らしていたのである。こんな癖があったのを自分でも知らない。しかも止めることもできない。女房が「大丈夫だよ。」とささやいて、寝ているときのように手を握ってくれた。しかし、空いている方の右手は相変わらずパチパチと音を立てていた。いよいよ自分の番だと医者がマイクを手にし「○○さん、11番にお越しください。」と私ではない名を呼んだ。なんだ、その次か。と、パチパチ音を立てていると、30代くらいの女性患者が現れて診察の椅子に座った。しかし何かを言われてすぐに立ち上がった。「看護婦さ~ん。入院の手続きお願いします。」とイケメン悪魔が叫ぶと、その女性は看護婦に連れていかれた。ああやって死刑は執行されるのか・・・。しかし、「お見事!」であった。その女性は、なにも取り乱すこともなく、自分から火の中に入っていく。その凛とした姿は素晴らしかった。まるで本能寺に火を掛けて、その中に入っていく信長であった。しかし感心している場合ではなかった。次のファイルを手にして広げ、なにやらコンピューターとにためっこした裁判長はマイクを手にし、私の名を呼んだ。とうとう判決の時がきたのだ。「はい。」と言って私は席についた。
「どうですかぁ~」と例の上目使いで薄笑いを浮かべたように私の目を覗き込んだ。私の目は一週間経っても腫瘍を切り取られたリバウンドが抜けず、白目は完全に赤い色をしていた。「ええ、この前悪いところを切り取ってもらったので、とても爽快でもう何ともないです。」と笑顔で答えた。医者はフフっと笑ってからコンピューターに目をやり「残念ながら悪いものが見つかってしまいました。やはり手術して、それを切り取らなければなりません。放っておくと全身に転移して命に係わるものです。」私は医者の見ているモニターに目をやると、日本語の文章が書かれていた。「サンプルを3分割して検査の結果、3例とも陽性反応が・・・」と読めた。「ちょっと先にいってしまいますけど7月20日、手術します。いいですか?」と同意を求められたので、私はうなづいた。そしてイケメン医者がどこかに電話をかけた。「ああ、予約お願いします。7月20日です。ええ眼球の全摘で・・ええ全身麻酔で・・・はい宜しくお願いします。」と言ってなにやらコンピューターに打ち込んだ。「あ、それから全身に転移がないか調べます。来週の13日の金曜日でいいですかね?」もういいなりであった。「はっきり言って転移があると、目の手術どころじゃなくなってしまうんです。そこを切り取っても次から次へと転移するので、もうお手上げなんですよ。」と私は黙って聞いていたが、可愛い自分の体が壊れてしまうような話に何か応援できないかと「あのー、放射線とかー」と応戦したが「放射線治療はある種のものにはとても良く効くのですが、転移性のガンは小さくすることはできても潰すことはできないんですよ。」サラサラと言いながら何かコンピューターに打ち込んでいた。「・・転移があったら~お手上げなんですか?」と重い言葉を吐き出すと、白目を下にためたままこちらを向き「そうですねー、はっきり言って終わりですね。じゃ、今日の診察はこれまでです。」と言われ、私はふらふらしながらも立ち上がろうとした、そのときに「あ、それからですね、この手の腫瘍は5年生存率は80パーセントです。」とイケメンの声。「・・・・はい?」とぼんやりと医者を見下ろすと「つまりですね、5年後には10人のうち2人はいなくなるということです。」と言う。相次ぐミサイルのような攻撃に耐えかねて「はー・・・」と力を抜かせて診察室を後にした。これが先日テレビで観た「私は貝になりたい」ならB,C級戦犯で死刑を求刑された主人公のように「待ってくれ!オレは何もしてない。話を聞いてくれ!」と叫びながらMPという警護員に両手を持たれて裁判所を連れ出されるシーンにそっくりだと寒心していた。
相変わらず私は口を尖らせてぶつぶつ文句を言っている自分を制御不能でいた。爪をパチパチさせる癖にも驚いた。今まで生きてきた中で、相当緊張する場面があったが爪パチはなかった。嫌な顔をしてぶつぶつ何かを言うのも今まではなかったことである。帰り道に前橋のバラ園でフェスティバルと看板があり、女房が寄っていこうという。広い庭園に様々な色の花がいっぱいであった。初夏の爽やかな風にシャンプーのようないい香りが漂っていた。たくさんの人々が幸せそうな顔をしていた。こんなにもたくさんの花に囲まれていれば喧嘩もなく、人は幸せな気分になれるのかもしれないと新しい発見であった。女房はデジカメでしきりと私の写真を撮っていた。これはいつもと違うことに「なにそんなに写真撮るんだよ。」と聞くとしばらくこちらにカメラを向けないようになった。メインステージに入るとそれはそれは見事な花がものすごい数咲いていて、夕刻間近かのやわらかい光に映えた。「天国にでもいるみたい。」と女房が両手を広げて背伸びをした。「ホントだな。天国ってこんな感じなのかな~。」といってサングラスを外して見た。私は目が異常に赤いのでサングラスをしていたが、本当の色が見たかった。「この紫色の花、いいニオイだよ。」と女房のほうを見ると、しゃがみこんで顔を両手が覆っていた。「バカだな、なにこんなところで泣いてるんだよ。」私は一緒にしゃがんで彼女の肩に手をやった。
私は魂の救済が欲しかった。片目が無くなる。そのようなことがあったら会社にはいられなくなるだろう。アルバイトも限られてしまい、収入はごく限られた範囲となる。子供達は下の子が保母になると東京の短大に入ったばかりで、これもどうになるかわからない。車の運転もできなくなるかもしれない。家や土地を売ってアパート暮らしをし、道行く人に迷惑のかからないようにひっそりと生きていかなくてはならない。大変なことになりそうだ。
次の日の朝、小刻みに両手が震えているのに気付いた。気候はどちらかといえば暑い季節である。いつものようにラジオ体操をして、3Kmくらいの散歩をしてから朝食を摂る。食欲は旺盛であったが、何をしていても手の震えは治まらなかった。私が死に絡むような病気を患っているという話は、お茶飲みの場などで茶菓子代わりに出ることもあるらしく、ときに突然とこんな話をしてくれる人もいた。「この世は地獄なんだよ。人を騙して金をふんだくる。人を引きずり降ろして自分が昇る。こんなところは地獄以外のなにものでもないんだよ。死ねば天国にみんな行くんだ。そこは何でも願い事が叶うところなんだよ。死ぬことなんか、これっぽっちも怖いことはないんだよ。どうだ?気持ちが楽になっただろう?」と嬉しそうに話をしてくれた。「ああ、とっても楽になりましたよ。どうも有難うございます。」とその場を離れ、仕事に向かった。しかし、手の振るえは直らなかった。時間が気にかかった。朝の9時17分。あと少しで18分になる。などと考えながら仕事をしているものだから、当然として失敗をすることになる。先輩に見積り書の内容がでたらめであると何度も注意された。今日は何日だろうか?もうお昼になる。もう一日の半分が終わってしまった。そんなふうに時間が過ぎることが恐ろしくて時計の秒針ばかり気に掛かっていた。新しい朝が来るのがとても恐ろしかった。
その日の帰りに本屋に寄った。家庭の医学のコーナーで立ち止まり、私を助けてくれる本はないかと探した。東大や名古屋大学医学部教授などの肩書きのある先生が書いたいろいろなガンに関する本があったが、どれも私の求める内容ではなかった。ずっと端から本棚を注意深く探したが、それらしい書籍は見つからなかった。あきらめて帰ろうとしたそのときに、なんと目の前にたくさんの派手な表紙の本が並んでいるのに気づいた。タイトルはズバリ「これを食べればガンが治る!」である。これはすごい。パラパラと流し読みしたが、一日に食べなくてはならない食べ物やたべてはいけないものが事細かに書かれている。そして「この通りに食生活をすれば61パーセントの人に効果が見られる!」とのことだった。「こんなに近くにあったのに、なぜ気付かなかったのか。」と自分のおろかさを悔いた。値段にはこだわらずに、すぐに購入した。闇の中から救いの手が降りてきたように思えた。80ページくらいの内容であったがA3版のオールカラーで後半は抗ガン作用の高いレシピの写真が多かった。30分くらいで流し読みをした。その後、肝心な部分をまたじっくりと読んだ。まず、主食は玄米とし、野菜は250g、その他に野菜ジュースを2リットル飲む。塩はまったく摂らない。肉は鳥か魚なら少しは食べてもよい。ヨーグルトを500g、レモンを2個、はちみつを大さじ2杯、補助としてビール酵母(エビオス錠)を40粒、これが一日で食さなくてはならない量である。酒やタバコは厳禁、あらゆる化学的なものから離脱することが肝心であるという。関税通過に特別な薬品を使うのでレモンは日本産でなくてはならない。早速実行に入った。問題は塩分ゼロで他の病気にならないのか?と思うが、心配後無用。食材の何かには必ず塩が入っているので、まったく摂らなくても人間が生きていくのに最低必要な3gは喉を通過するのだそうだ。以外だったのはコーヒーである。カフェイン中毒症状が出るくらいコーヒー好きな私にはこれがガンを小さくする効果があるというのは有難かった。
この本、これぞまさしくガンと戦う武器であった。戦争は始まった。私は希望が湧いてきた。朝起きると市販の野菜ジュースをコップに1杯飲んだ。2リットル飲むといっても一日に16時間くらいは起きているのだから1時間半にコップに1杯飲めばよいのだ。玄米も意外と平気で食べられた。問題はレモンと切っただけの味のない生野菜であった。輪切りのレモンにはちみつを掛けて食べたが、何時間か漬けておくと立て続けに5枚くらい食べても平気になった。味の無いレタスや切っただけのキューリにニンジン、ピーマンもそのままボリボリ食べた。これは私にとって戦いであった。仕事に出かけるのに、たくさんの食材をバックに入れた。仕事中にバックから野菜ジュースを取り出して飲み、レモンのハチミツ漬けをかじった。昼食は煮たカボチャの味のないものに玄米のおにぎりと生野菜を食べた。夕食に焼き魚を妻が作ってくれたが塩気が多いことを注意した。
おかげで気持ちはかなり重いものが取れたが、相変わらず「死」という字と「眼球摘出」の恐怖が何をしているときにも付いて廻った。何をしているときにでも、である。夜中に飛び起きる回数も減ることはなかった。一日がまた終わってしまう。刻一刻と確実に運命の日が迫っている。7年前に肝臓ガンで亡くなった父親や6年前に脳腫瘍で亡くなった姉の顔が四六時中思い浮かんだ。それからすい臓ガンで亡くなった知り合いのことも思い出された。すい臓ガンは3ヶ月と持たないという。父や姉は意識がなくなってしばらくしてから亡くなったが、すい臓ガンというのは、しっかりとした意識の中で迫り来る死の恐怖とやりあうらしい。
とうとう全身に転移があるかどうかの検査の日が来た。その検査はペットと呼ばれている。前の晩の8時以降何も食べず、午後2時に来るようにとのこと。午後1時に会社を出て、少し早めに病院に到着しようと思いきや、そんな時に限ってお得意さんから打合せに来てくれとの電話が入る。すぐに駆けつけるが、話を早々に切り上げ「申し訳ありませんが・・・」と適当なことを言って退散。病院に駆け込む。どんなことをさせられるのか。検査の後は妊婦さんの近くに行かないようにと注意書きがあった。なにやら地下の不思議な部屋に連れて行かれた。12帖ほどの部屋が3つくらいのブースに分かれていて、ゆったりとしたリクライニングシートに週刊誌や新聞などが置かれたラック、そしてそれぞれのブースにはテレビがあり、ヘッドホンが付いていた。まるで宿泊設備のある浴場のブースのようであった。「ここで30分ほど休んでいただきます。トイレに行っても良いです。放送で名前を呼ばれたら向うのドアから入ってください。」と言われ、注射をするからと別室に連れて行かれた。寝転がって自動の血圧計のようなものに腕を入れ、看護士が注射針を刺した。すぐに看護士は別室に行き、なんと自動で注射液が注入された。看護士が部屋に戻り、注射器に素早くカバーを掛けると私にテレビの部屋に行くよう指示をした。あの注射は相当危ないものらしいと悟った私は言われるがままにリクライニングシートに寝転がって週刊誌を開いた。30分何を読んでいたか忘れたが、週刊誌でも新聞でも、私が没頭できるような記事はなかった。ロンドンオリンピックが8月に開催。そんな先まで普通の状態でいられるのだろうか?その頃、私はどうなっているのだろう?すい臓ガンが見つかり、あと2ヶ月の余命と宣告されて半狂乱になっているだろうか?「助けてくれ!誰か!」と叫ぶ声がわたしの場合はハミングとなった。メロディは即興で、私自身も聞いたことの無い曲であった。フフフフッフフン~となんとも奇妙だったり、割とまともな曲だったりする。「何の曲ですかぁ~?」女性の看護士が愛想を言ってくれるが、そっけない返事しかできない自分が悲しかった。名前を呼ばれ、MRIの機械のような前のベッドに横たわり全身を固定された。なんだというくらい簡単に終わり、私は帰路についた。検査の結果は5日後に出るので、その日に来るように言われた。前日、妻が私を警戒したのを思い出した。検査の注意事項を読んで「妊婦さんに近づかないようにって、そんな危ない検査なんだね。私も怖い。」という。夕方が近づいていた。しかし19時を過ぎないと暗くならない時期であった。私は利根川の河原に行った。丸い大きな石がきれいに横を向いて並んでいる。死んだ父と子供の頃よく釣りをした場所だった。「トゥトゥトゥットゥトゥトゥットゥ・・・」とわけのわからない曲が自分の口から聞こえた。また、私が聞いたことの無い曲であった。時々爪がパチパチと音をたてた。自分の体が勝手に動くのが不思議だった。川の流れを見ながら昔、父親が石の間に足を挟んで怪我をしたことや大きな鯉が掛かったこと、友達と溺れかけたことなどを思い出していた。そのとき突然と鐘の音が鳴った。小学生の頃の高原学校でキャンプファイヤーを囲って歌った「遠き山に日は落ちて~」という曲で、確かチャイコフスキーの「禿山の一夜」のメロディだったろうか?それがゆっくりとした鐘の音で奏でられた。近くの工場が終業の時間を迎えたのかもしれない。私は急に胸に迫るものを感じ、涙を流した。乾いた石の上にポタポタと雫が落ちた。「泣いたってどうにもならないだろうがバカだな。」とつぶやいた。「ちくしょー!」と叫びながら川に石をぶつけた。橋の上にはラッシュアワーでひっきりなしに車が通り、また滝のような急流の川の音で私の声などは何処にも届きようがなかった。夕飯時に帰って、そのまま風呂にも入らずに、誰もいない下の和室で寝てしまおう。それにしても、まだしばらくここにいなくてはならない。水面を見ていると携帯電話にメールが入った。妻からだった。「もう検査は終わったんでしょう?早く帰っておいで。」とあった。「オレは夕飯が出来た頃に帰るよ。和室に置いといてくれ。」と返すと「考えてみたら危ない検査だったら、検査料の会計もできないし、特別なルートで帰らされるはずだよ。大丈夫だから帰っておいで。」それもそうだ。こちらが注意していても妊婦が後ろから近づいてくるかもしれないし、大体その人が妊娠しているかどうかなんて本人さえわからないのを私が判断できようもない。よって大した害はないが、一応はっきりとわかる妊婦には近づかないということを検査の説明書に書かないと、細かいことを言う偉い人が不用心だということとなったのかもしれない。家に帰ると妻が「つめたい事言ってごめんね。」と苦笑いをした。
検査の結果が出るまでの5日間というのは長い期間であった。毎日朝から手が震えていた。また朝が来てしまったという感じだった。時計はゆっくり廻った。会社では何もなかったかのように大型物件の見積りを私に与えてくれた。それはもう忙しく見積り書の作成をしないと期限に間に合わない。次から次へと下請け業者に単価記入の依頼をし、コンピューターに項目の打ち込みをした。しかし、時計が気に掛かって仕方ない。あと3日で「判決の日」が来るとか、ああもう半日が終わるとか、そんなことばかり気になった。人と話す時も顔が強張っていて、笑顔ができない自分がどうにもならなかった。私の病気のことを知っている人が増えた。お茶飲みの話のツマに出てくるのかもしれない。そこで改めて人の中身がわかった。いつも明るく人に接する私が硬い表情をしているのを見て、ああしたらどうか、こんな健康食品で治った例もあるなど、それこそ実の兄弟のように心配してくれる人がたくさんいた。有難いことだった。しかし、親身になっていろいろ聞いてくれているのかと思いきや、最期に「オレも気をつけなくちゃな。」と自分への教訓にする人もいた。また、私と話をしている最中に、いつもの笑顔ができないことに気付き、笑いをこらえられない人もいた。そんな人は必ず「人は一回死ねば済のだから、そんなにビビらなくても大丈夫だよ、ハッハッハ~!」などと豪言を吐く法則性があるようだ。
ロンドンオリンピック8月に開催で大賑わいであった。7月20日が手術なので、8月というのは、手術が終わって一応決着がついている時である。私にとって、そんな日が来るのだろうか。その頃は、もしかすると全身に転移が見つかって手術は中止となり、濃度の高い抗ガン剤で苦しんでいるかもしれない。まったく未知の世界であった。また、あるとき家にいると一年ものの定期預金の話を持ってくる銀行マンがいた。来年の話をすると鬼が笑うというが、私が今年の8月の姿も想像できないのに、来年の8月など、生きているかさえわからない。鬼が笑うという意味がはじめて解った。秒針の音が気に掛かった。カチッ・・カチッ・・カチッ・・とうとう壁に掛けてある時計まで取り外してしまった。これは自分でも正気の沙汰ではないと思った。
「だれか助けてくれ!」と心の中で、夢の中で叫んでいたある日、突然気が付いた。私が習い事をしている先生の知合いに、大きな大学病院の先生がいたのである。なぜもっと早くに思い出せなかったのかと後悔をしたが、とにかく早くに診てもらって放射線治療とか、薬で治るとかのアドバイスが欲しかった。目を摘出されるのも、命が無くなるのも嫌でありとにかく自分を助けたかった。私は藁をもすがる思いで頼みに行った。その習い事の先生のところに行く途中「これはそんなに悪いものではないので、放射線をゆるく当てれば治りますよ。大学の先生は、とかく大げさなことを言いたがるもので困りますよ。」という未だ見ぬ大先生の声が聞こえるようだった。「何とか診ていただきたい。私は目玉を抜かれてしまう。いつでも何処へでも行くので、何とか頼んでください。」祈るように頭を下げた。
帰りの車の中でラジオのスイッチを入れた。何でもよかった、音が欲しかった。静かになると、気が変になりそうだった。楽しそうな、若者向けの番組が聞こえてきた。DJは、若手の売れっ子漫才師らしく、ゲストの女性が何かにつけては大笑いをしていた。私は可もなく不可もなく、ただ何となく音が出ていれば少しは気が紛れたので聞いていた。その中で「・・・命を掛けて歌いますよ。」という会話が聞こえた。私は突然引っかかるものを感じた。命を掛けるなどという言葉を無闇に口にして欲しくなかった。軽いジョークであろうが、そのときの私には、その若者達との隔たりの大きさをぶつけられたようであった。
運命の日はとうとう来た。今回の診察も女房殿は一緒に話を聞きたいという。11時半に来るようにということで、会社は休みを取った。一週間程度の間は、朝から手が振るえていて変なハミングを口ずさみ、眉間に大きなシワを作っていた私だったが、「判決」を聞きに行く私はふてくされた表情になっていた。洗面所の鏡に眉毛を上に吊り上げて、半開きの目で見下した表情の私が現れた。どうせもうすぐ死ぬんだ。そんなあきらめの極致に到達していたのである。爪は音を立てず、体の振るえも消えていた。「転移が見つかったら目の手術どころじゃあないって医者が言ってたよね。」と女房にまた言ってしまった。何度同じことを言うのだろうか。「まったく別の話になるって、どうするのかな?」とつぶやくと「大丈夫だよ。転移なんかある訳ないよ。」と何度も明るく返事を返してくれた。11時半に眼科の受付に行くと事務員が「先生は手術が長引いているので、1時頃でないと来られませんから、お食事でも行ってきてください。」と言う。この一言は有難い。いつもは、いつ呼ばれるかわからないので、お茶ひとつ口にできないのである。女房と炎天下の外に出た。病院の中にもレストランが何軒もあって、それなりに美味しいのだが、もう二度と外で食事ができないという予感がしていたのである。少し歩いたがファミリーレストランに入った。私の注文したのは緑色をした冷たいツケ面だった。女房と初めて出会ったときに食べたのも緑色のスパゲティだった。そのことを懐かしそうに女房も言っていた。「まだ、1時までは時間があるけど、早めに行こうか?」と提案すると「ねえ、甘いもの食べると幸せな気分になるかもよ。」と女房が微笑んだ。なるほど。これから薬漬けにされて今後は美味しいと感じることもできなくなるかもしれない。二人で同じフルーツパフェを注文して食べた。少し楽しい気分になって、病院に向かった。深い緑の葉が生い茂る歩道を歩いている途中で「こんな目に遭うのがお前でなくて良かった。」と妻に言った。「え?何て言ったの?」と聞き返す妻に同じことを言おうとしたが、涙が喉に詰まってしまい声が出なくなってしまった。
暗い診察室では、いつもの若いイケメンの先生がコンピューターから目を離し、こちらを向きながら「よかったですね、転移は見つかりませんでした。で、これからのことですが、手術前の身体検査をしてもらいます。血液検査や尿検査で、手術ができるかどうか調べます。それから皮膚科の診察を受けてください。」と流れの良い口調で話した。私は胸に詰まっていたものが、スーっと抜けるのを感じた。「目の腫瘍といっても分別は皮膚ガンの一種なので皮膚科の先生にも診てもらってください。恐らく手術の後に抗ガン剤投与があると思いますが、それは皮膚科の先生の指示に従ってください。」とまたコンピューターに向かい何かを打ち込み始めた。「はあ・・。」と返事をして女房を見ると暗い診察室の中で軽い笑顔を私に向けた。私はとりあえず、すぐに死ぬことはなくなったのだ。判決は「死刑」ではなく「懲役5年」というところだろうか。軽い深呼吸をした。「それから麻酔医の先生の問診があります。これは・・・再来週の週で都合の良いところで受けてください。それでは次回は手術前一週間で検診をしますので7月13日の金曜日の9時に来てください。じゃあ、今日は身体検査が終わったらそのままお帰りください。」いちいち13日の金曜日とか9とかが気になった。私は元来唯物論を指示する者なので、霊的なものは信じなかった。小学生の頃から利根川に一人で夜釣りに出かけたり、夕方暗くなってしまうと友達の家からの帰りに、お墓の中を通る近道をしたりするのも平気だった。その私が13とか金曜日とか9とかを気にするのが自分でも不思議だった。しかし、目を抜かれる恐怖からは逃れられなかった。体の振るえはなくなったが、寝ている時に相変わらず目を抜かれる夢を見て、一晩に3回くらい飛び起きた。また、その夢のリアルな場面が白昼堂々と目の前に現れた。仕事に没頭している真っ最中にも、親しい人と何かの話に夢中になっている時も、突然とステンレスの四角い皿が目の前に現れるのだった。
数日後の夕方家に帰ると見慣れない車が泊まっていた。玄関には男性の皮靴がきっちり揃えられてこっちを向いていた。親戚の人がお見舞いでも来たか?とリビングに入ると、知らない男女が立ち上がってこっちを見てかしこまっていた。対面のソファーには女房が座っていて「こちらのご夫婦には、いつもとってもお世話になっているの。私が太鼓判押して信用できるご夫婦なの。」と紹介された。「はじめまして、いつも奥さんには良くしてもらってます。」いつもお世話になっているにしては、やけにかしこまっていた。まるで保険の勧誘か何かのようだった。「ま、お掛けになって、ゆっくりしてってください。」と私は別室へ行こうとすると「今日は、わざわざあなたの薬を持ってきてくれたの。なかなか手に入らない貴重な薬なのよ。これを飲めばガンが消えるんですって。」と女房殿にここで話を聞くよう促された。「これは天然素材でできているものです。一ヶ月、たったの一ヶ月飲み続けてください。100パーセントガンが消えます。」と奥さんの目が真剣そのものだった。「実績があります。」旦那もパンフレットや資料を見せてくれて、私のガンを消すという説明をした。「そういうのって高いんでしょう?」と聞くと「何をおっしゃいます、手術をして目を無くされると思えば値段などどうでもいいでしょう?」ま、それは金と比べられないことであった。「じゃあ、買うんでいいよね?」とあくまでも強引な女房。「最低でも手術は必要なくなります。手術の前日に風邪を引いたといって手術を断ってください。」と相手の女房殿。これには少し他人事過ぎるものを感じ「あのですねぇ、あなた方は医者でもないのに人ひとりの命がかかっているんですよ。手術しないで、それこそ全身に転移したら、どう責任取れるんですか?」と私は声が高まってしまった。「だから、だからこの健康食品をお持ちしたんです。もう転移どころか悪いものが消えてしまうからすごいんですよ。」もはや取り次ぐ言葉はなかった。「じゃあ買うんでいいよね。」と押しの一手の女房に任せた。女房は私のことを思っての決意であり、2人の子供を東京の専門学校に出して、お金などない状況の中での出資である。15本で18万円、二日で一本を飲めとのことである。
その日からガンを消す魔法の健康食品を飲むこととなった。最初は騙されているという気持ちが強かったが、幾日かで、それは希望の光を発することとなった。最低でも手術はしないという言葉を信用することにした。その液体は目に直接付けるともっと効くというので、少ししみるのを我慢して、それはそれはしょっちゅう点眼を続け、2時間ごとに小分けして飲むこともした。夜中も飲んだほうが良いと言われたので、目覚し時計を掛けて起きては飲んだ。
三度の食事は相変わらず玄米と野菜サラダを中心に無塩、肉なしを続けた。この食事療法は、ずっと以前に新聞か何かで読んだことがあった。菜食主義で化学的なものを体に取り入れなければ、悪い病気にはかからないといった理論には妙に説得力があったのを覚えている。絶対禁止なのは、タバコに酒。ただし梅には抗ガン作用があるので梅酒を少し飲むのはかえって良いという。注意すべき食べ物は練り物で、何かを細かくして混ぜたものは、何が入っているかわからないらしい。また、果物は良いのだが、外来のものは特別な薬を使わないと税関を通らないので食べないほうが良いとのこと。思い返せば良くないというものを食べ続けてきたなぁと後悔の念にかられる。しかし、振り返っていてはいけない。この体が滅ぶのを阻止しなければならないのだ。「たんぽぽの種がありますよね。あれと同じなんですよ。今あなたの体の中をガン細胞が飛び回っています。どこかに舞い降りて定着したら、そこがガンになるわけです。」と医者の声が四六時中聞こえた。「そしたら、お手上げってことですよね。」と私の声も聞こえた。「5年のうちに10人中2人が世の中からいなくなるってことなんですよ。」私は5年もの間、死の恐怖を背負って生きていかなければならないのだ。「くっそ~医者のやつ、その言葉を実の子供にも言えるか?」とアタマの中で叫ぶ。なぜそこまでハッキリとものを言うのか?というか、もし全身に転移が見つかってどうにもならなければ、そのときに言えばよいのではなかろうか?この一週間、私は生きた心地はしなかったのだ。転移はない、早々に死というものは巡ってこなそうだが、いつ転移が起こるかわからない。そのときは死ということになるという理論である。私は噛み切れない生肉を強引に飲み込むが如く、その言葉を取り入れようとしていた。
そんなある日、習い事の先生から電話があった。東京の偉い先生が、私を診てくださるという。溺れてつかむ藁であった。希望という物が胸を割って飛び出てくるようだった。これで助かるかもしれない。というより、もしもその先生が自分のところで手術して下さると言われるならば、金銭や交通など、どんなに不都合でもその医者にお願いしようと考えていた。あの群大の先生は、それほどに当時の私の感情を逆撫でしていたのである。
今度の土曜日と指定された日と時刻は意外と早くに訪れた。私は2人の医者と対面した。50代の女医の方と30代後半くらいの年頃の男性の医者である。今までのいきさつや診療の内容と医者に言われたことをできるだけ忠実に話した。ふんふんと聞いていた東京の偉い医者の先生の結論は早かった。右目の黒いできものを確認すると「そこの大学の先生の言われることで間違いないと思いますよ。残念ですが、その手の腫瘍は放射線照射では治らないと思います。また、確かに5年生存率も80%ですし、まあね、手術が終わったあとに免疫力をつけておけば、きっと良い結果になるのでね、玄米を主食に野菜や豆類などを食べるようにしてください。」と言われた。その声がだんだん遠くに離れながら、あのイケメン先生の顔がクローズアップされてきた。私は、もはや逃げ場所を失った。親身になるという言葉があるが、親の身になって考えればという意味かと思う。もう一度考えてみてもらいたい。仮に自分が医者だったとして、実の自分の子供に対して「偉い先生がそう言うのだから、間違いないでしょう。」と言うだろうか?さもなければ私の目に出来た黒いものは、それほどまでに悪いものと簡単に判別できるようなものだったのだろうか?古代ギリシャのスタジアムに一人で立ち、半狂乱の人食いライオンと戦わされるが如く、私はついにあの若いイケメンと真正面から向き合わなければならなくなった。
私は毎日あの健康食品と野菜療法で病魔と闘った。それは苦しいものではなく、むしろ健康食品を飲んだり、目に垂らしたり、野菜などバリバリと食べることで少しずつ気分は楽になっていった。「これで悪いものを潰せる。」と信じ込む努力をした。さらに女房の「最低でも手術はしないようになるって、健康食品の先生が言ってたよ。」という言葉は目玉を取り出されるという夢を見る回数を劇的に減らす効果があった。私は、ガンを壊すという闘争に酔いしれ希望に輝いていた。もし、手術が終わって「これがあなたに悪さをしていた連中です。」と病巣を渡されたなら、それを地面に叩きつけて、さらに大声を発しながら踏みつけるであろうと、有り得もしないことを想像して闘争心をかきたてていた。
大学病院の皮膚科に行くよう言われた。待合室は眼科の10分の1くらいであろうか、しかも患者らしき人は数人しかいなかった。町医者の皮膚科の待合室は見たことがないが、さすがに大学病院らしく、普通の患者は来ないようである。なぜなら待合室には、カツラの話やアタマにかぶる専用のバンダナのカタログや皮膚ガンの写真、抗ガン剤の話などが実例を上げて至る所に掲げられていた。待合室には数人の患者らしき人がいたが、みな私を見てからゆっくりと視線を下に降ろした。ここは重症患者の集まりであった。一通りの問診のあと手術後の抗ガン剤投与の計画を言われた。抗ガン剤は調子が良くなったら始めること。また、薬にはガンの程度によって種類と投与の方法があるという。最悪なのが、1週間程度入院して点滴をするやりかたらしい。酷い吐き気を催し、げっそり痩せるようである。全身の毛が抜け、その回復を見計らって3回連続で行うという。あとは一日一回の飲み薬というものもあるという。私の場合は、主治医と経過を見て決定するということだ。また不安要素を抱えてしまった。
その夜、風呂から上がって足の裏を見た。皮膚科の先生が言うには、足の裏のホクロは皮膚ガンの中でも起ちの悪いものだという。それに何とも言えないような痒みがあったのだ。左足は何とも無かったが、右足に無数の水泡ができていた。それは指の間のところが破れて皮が剥けていて、オブラートの出来損ないのようになっていた。まぎれも無く水虫というやつだった。どこで頂いてきたかは、すぐ見当がついたが、その方も長年苦しんでおられるとのことなので、とにかくこいつをやっつけなくてはならない。すぐに水虫撃退の薬を購入し、たっぷりと塗り付けた。次の日から二次感染を避けるために風呂はシャワーに切り替え、私は湯船に入らないようにした。タオルも専用にし、菌を床に落さないようにした。洗い場で水虫の巣を専用の薬用石鹸で洗い、撃退薬を満遍なく塗り込んでやった。これで私の体に巣を作っているものが消える。何とも言えない満足感に苦笑いをしている自分が情けなかった。しかし、何日経っても病巣は小さくなるどころか、どんどん広がっていったのである。
次の日は日曜日だった。カンカン照りの暑い日となった。私の体を占領しようとしているものが許せない。夕べから、ほとんど寝ずに目の腫瘍と足の病原菌について考えていた。6月の後半といえども真夏の陽気であった。「よーし・・・」私は立ち上がった。自転車で利根川まで行くと、ちょうど良さそうな砂浜を発見した。ジリジリと焼け付くような川辺には、静かな休日にもかかわらず人影は無く、シナリオ通りのセッティングに私は薄笑いを浮かべた。ゆっくりと自転車から降りて靴を脱ぎ、焼けたアスファルトに一歩を踏み出した。二歩三歩までは何ともなかったが、四五六と行くと悲鳴を上げるような熱さである。私は右手の人差し指を曲げて咬み付き、ウガーっと声を上げながらも砂浜に辿りついた。しかし、その熱さは耐えることができず、近くの草ムラに転がり込んだ。激痛とも言えるような苦しさに全身が振るえ、ガーッ・・ガーッと何度か声を上げてしまった。しかし、すぐに正気に戻り、そっと辺りを見回してみた。こんなところを誰かに見られたら大変なことになる。「どうだ?お前も苦しいだろう・・・」と右足の裏を見ると、小刻みに震えている足は、赤くなっているだけで病巣は胸を張っているように見えた。今思えば正気の沙汰ではなかった。私は持ち上げた足を降ろして再度チャレンジを試みた。足の指をパアの字に開いて砂を掴むように差し入れた。激痛のような熱さがこみ上げるが、意外とすぐにその場に立っていられるようになることに気づいた。なんでもない左足にも転移が起きないよう予防で付き合ってもらった。右・・グゥーッ・・左・・グワーッ・・灼熱の太陽の下で何ともコミカルな、何とも幼稚な行動であるが、本人は大真面目で相手を倒すことの喜びの声を上げていた。10分くらい経ったろうか、麦わら帽子の下は滝のような汗であったが、しかし私に寄生するものを痛めつけてやったという満足感で帰宅した。
次の日のシャワータイムが楽しみであった。足の裏の何ヶ所かが火膨れを起こし、痛さで満足な歩き方ができない状態だったが、それもすぐに慣れた。仕事から帰るとすぐに服を脱いで風呂場の丸い洗い椅子に座って右の足の裏を見た。いつもより赤く腫れ上がり、つま先立ちの部分が何ヶ所か火傷で膨れていたが、なんと水虫は健在であった。相変わらず点々と小さな穴があり、その廻りが白く皮膚が浮いていた。私は足を持ったまま、しばらく放心状態になってしまった。こんなものすら撃退できないのかと、また一抹の不安要素を抱えてしまった。
朝、顔を洗いついでに悪い方の目を見た。カガミに近づけてマブタをめくってみる。悪魔の手のようなそれは、目頭から黒目に向かって白目を覆っていた。下のマブタをめくってみると、白目に黒い斑点が幾つか連なっている。それはまるで、父親と魚釣りをしていて、ヤマメの稚魚が掛かったことがあったが、その横腹の模様のようであった。上のマブタをめくってみると、マブタ自体に黒いものが移っていて、医者のいう涙腺まで切除するというのは、これのことかと思った。いづれにしても健康食品療法も野菜療法も、もはや一ヶ月近く続けているが、どうひいき目に見ても効果はみられなかった。ゆっくりと目から手を離しながら、うつろな表情で、この目は摘出しなくてはならないとカガミの中の自分が私に訴えていた。しかしながら私は、カガミに映った黒いものと戦いを続けてきたせいか、これを切除して死に至らしめることに喜びを感じるようになっていった。それは眼球摘出の恐怖より、はるかに上を占領していたのである。不思議なことに、手術の日が来るのが待ち遠しくなっていったのである。一日一日を刻むように怯えながら過ごしてきたことが、遠い過去のことのように感じたのであった。これは毎日のほとんどの時間を「こいつを潰してやる。」と親の敵のように嫌悪感を重ねてきたことが良質転化を起こし、ついには敵が私の身体を離れて滅亡することを快楽に感じるようになったのである。
手術の一週間前に診察で呼ばれた。若いイケメン先生は目の状態を診るというより、手術の手順の説明を始めた。眼球は出来る限り残すように努力するが、悪いものが後ろまで廻っていたら摘出となること。組織を調べながら手術を進めるが、これ以上切除したら人間として生活するのに支障が及ぶところで手術は中止となること。そうしたら、目の奥で悪いものが増殖していき、あとは寿命が来るのを待つのみとなること。マブタを切除するので代わりに耳の周囲のやわらかい皮膚を移植し、場合のよっては歯茎を切除して移植するかもしれないというところで私は手を上げて話を止めた。「先生、それ以上言わなくて結構です。どうせ私は眠っていてなにもわからないのですから、あなたを信用してすべてお任せします。」と言うと「信用ではなくて信頼してください。」とニコリとし、私の目を捉えて2回ほどうなづいた。それから例の野菜療法と健康食品について尋ねると「野菜は手術後の免疫力を高めるという意味で良いことだと思いますが、そういった健康食品は高いものが多いでしょう?まったく効き目はないので、すぐにやめることを勧めます。これからは、お金がたくさんかかるので、節約という意味でもやめたほうがいいですよ。」と言われ、機械にアゴを乗せるよう指示し、私の目を診た。「やはり、最低でも小さくはなっていません。」と言われた。わかっていたが、この健康食品を紹介してくれた妻の知り合いは攻める気にならなかった。このお陰で希望が持てたのであり、あのまま過ごしていたら胃潰瘍になり、あるいは気がおかしくなっていたかもしれないのである。妻はガンが100%消えるというのに、小さくすらならなかったということを健康食品を薦めた人に言ったようである。すると「これを飲んでいたから、転移もなく命が助かったのですよ。飲んでいてよかったですね。」という弁明らしい。良いところだけ自分の手柄とするのはやめてもらいたいものである。そういえば何かの話で似たようなことがある。その老人は「ありがたやじいさん」と呼ばれている。何をしても「ああ、ありがたや、ありがたや。」と言って拝むという。看板にアタマをぶつけても「ありがたや、ありがたや。」柱から出ている釘で服を破っても「ありがたや、ありがたや。」という。ある子供が「おじいさん、どうしてありがたやなの?」と聞くと「私は神様を拝んでいるからこの程度で済んだんだよ。もしかすると釘が腕に刺さって怪我をしていたかもしれない。ああ、ありがたや。」という。ある日、おじいさんの孫が車に引かれて足を怪我してしまった。両親も近所の人達も悲しんでいるところに駆けつけ、おじいさんはいつものように「ああ、ありがたや。」と言った。なぜ?「一歩間違えれば腹を引かれて死んでいたかもしれない。これも神様のお陰だ。ああ、ありがたや。」しばらくして実の娘が不治の病で亡くなった。その臨終の席で「ありがたや。」といった。「この前、漁に出て行った知り合いの船が嵐で転覆した。未だに死体すら見つからない。こんな不幸はない。こうして娘の最期に立ち会えるなんて、神様を拝んでいるお陰だ。」となんとも開いた口がふさがらないような話である。これは極論としても、これを使えば腫瘍が小さくなってゆくとかいう物があれば、製薬会社が黙っているわけがないという。一発当たれば何千億円という市場だそうである。アガリスク、猿の腰掛、霊紫、プロポリス、etc ガンに効くらしいというものは、当然に最優秀のスタッフが最高の設備の中で夢中でその効能を調べているとのこと。しかし、その効能については結果が得られない。事実、私の姉や父親、また知り合いのガン患者もこれらのものを一生懸命口に運んでいたが、効果はなかった。
手術の日が近くなってきた。私は身辺整理ではないが、手術中に0.12%の確立で亡くなる人がいるが了承しますという書類にサインをしたし、全身麻酔で亡くなる人が0.15%いるけど承諾しますという書類にもサインをしている。もしかして、そうなるかもしれないので不要な物などの片付けをした。髪を切ってもらい、最期の仕上げで爪を切った。静かな初夏の香りがする縁側に座り、パチンパチンと乾いた音が響いた。足の爪に手を掛け、ふと足の裏を見ると、なんと水虫が消えていた。何事もなかったかのように、普通の状態になっていた。あの呪わしい寄生物は私の体には住んでいられなくなったのだ。あの気違いじみた熱い体験は有意義なことだったのだ。私は勝ったのだ。やつを倒した。私は歓喜のガッツポーズを取った。今度は目についている化け物の番だ。私は医者という名の傭兵を雇ったのだ。頼むぞ、こんどはコイツを倒すのだ!
そしてついに手術の日を迎えることになった。前日の昼に入院となったが、なんとも爽やかなきぶんであった。しかし、もしかして私は手術の恐怖に撃ち負かされてしまい、惨めな様をさらけ出してしまうかもしれないという不安は拭いきれなかった。そこで自分の気を紛らわすように昔よく聴いた井上陽水やビートルズなどの曲を入れたウォークマンを用意し、また自分が興味あるであろう歴史の本なども何冊か購入しておいたが、ほとんど必要はなかった。自分でも不思議なくらい落ち着き、本当になんでもない平常心で手術の時を迎えられた。病院のベッドでもよく寝られ、まずいと評判の病院食も美味しく食べられた。本当に励ましてくれた人々や女房殿に感謝し、ガンを撃退する食べ物と食べてはいけないものをこと細やかに記載して希望を持たせてくれた本の作者にお礼をするものである。
これといって根拠はないが、女房や子供達は本当はあまり私のことをよく思ってないのかもしれないと察していたこともあった。しかし東京の専門学校に行っている子供達も手術当日の朝方、病室に姿を現した。「なんだ、大した手術でもないから来なくても良かったのに。」と言いながらも私は思わず笑顔になっていた。彼らは照れながらも精一杯の激励の言葉をくれた。都会で一人暮らしをして初めて気づく故郷への哀愁もあるだろうが、これも悪い病気のお陰なのかもしれない。何か軽いジョークを交えて私を元気付けてくれた。迎えの看護婦が来て車椅子を勧めてくれたが、まだ病人扱いしないでもらいたいと私はひと笑いして、歩いて手術室まで行った。その出入り口で家族から最後の激励をもらい、お互いの手を握った。後ろで大きな自動ドアが開き、眩しい光が女房や子供の顔を照らす。「よし!」と私は振り向いた。広い風除室のような部屋を2部屋ほど通過して手術室に着いた。中では無影灯の下にベッドがあり、そこに寝るように言われた。イケメン先生が私の頭のところに座り、準備万端であった。「お願いします。」と先生に目くばせをし、私は台の上に寝転んだ。もう一人の手術着を着た人が近づき「麻酔医の田端と申します。ではね、今から酸素を吸入していただきます。血液の酸素濃度が所定の高さになったら麻酔を注射しますので、何度か吸ってください。」と顔に吸入器を当てた。3度ほど深呼吸をすると「はい結構です。それでは注射しますね。」という声がした後すぐにアタマの中をバチバチっと火花が飛び散り意識がなくなった。真っ暗の中「あ、気がついた。」という声が聞こえ、口に入っていた太い管のようなものが外された。「手術は無事に終わりましたよ~。予定より時間が掛かりましたけどね、悪いところは全部取りました。眼球も残せました。家族の人が病室で待っているのでね、あと少し休んだら連れていきますからね。」とイケメン先生の声が聞こえた。私は両目が塞がれていた。なぜ良いほうの目まで塞がれているのだろうか?そうだ、耳たぶの周りは?と触ってみるが普段と変わりない。口の中も何ともない。目をグリグリ動かしてみると、両目がゴロゴロした感じがするが、ちゃんと動いてくれた。痛みは、ほとんどなく、ただ喉がいがらっぽくて咳が出た。しかし良かった。病室のベッドで手を差し出すと女房や子供達が応じてくれた。家族の絆というものが確認できた。嬉しさがこみあげてくる、目玉は残してくれたのだ。私は、ある一時の間とはいえ若いイケメン先生を毛嫌いしたことを恥じた。先輩の医者達から「お前、そんな前途のないオヤジに何時間掛けるつもりなんだよ?もっと若い重病人がたくさん控えているんだぞ。適当なところで目玉を摘出して終わらせろ。」とか言われているのかと疑い、思い込みをしてしまった自分が情けなかった。医者という立場からして一応、最悪の可能性を言っておいて、最良に仕上げるのだと気づいた。自分がその立場だったら、同じことを言っておくだろう。その後、2日で両目が見えるようになり、退院した。
私の周りの世界は変わった。風が吹き、川が流れて、小鳥がさえずった。ゆれる木の葉の隙間から日の光が眩しかった。水槽のメダカが餌を食べ、猫がなすりついてきた。この何気ないことが、なんと素晴しいことなのかと感激をした。車を運転していると後ろの車が急がしそうなので左に寄ると、すごいスピードで抜いていった。それもほほえましいことだった。私の子供達はとてもいい子で女房は以前よりずっと可愛いらしかった。私は地獄の扉を叩いて来て生まれ変わったのだ。心配してくれた友人にお礼を言った。そして何よりもイケメン先生に感謝をした。あとで聞けば、本当は上マブタは切除の予定だったが、表面の皮一枚を残してペラペラの紙のようになったところへ、左目からマブタの裏の肉を薄く切り取って移植したのだそうである。また、白目の下のほうに点々とヤマメの斑点のように出来ていた危な気なところも角膜を切り取り、良い方の目の角膜を少しもらって、ハシゴのように補強してくれたらしい。目頭のところを、ほんの5mmくらいメスを入れただけで、ほとんど以前と変わらないようにしてもらった。イケメン先生に診てもらって本当に良かったと心から感謝をする。
人は死と隣同士のことがよくある。高速道路で対面通行のところを100Km以上のスピードで走っていて、対向車のトラックがこちらに向かってくる。どちらかの運転手がいねむりやよそ見をして反対車線にはみ出す。そんなものと正面衝突をすれば、単純計算で止まっているトラックに時速200Km以上のスピードで体当たりすることと同じである。シートベルトもエアバックも関係なく、ほぼ間違いなく即死だろう。でも、人は少し怖い気がしながらも走る。まさか自分が、そんな不幸なことになるわけがないと思っているからである。少し怖いという気持ちが死ぬかもしれないという気持ちであり、その他は自分は死ぬわけがないという気持ちである。その比率をたとえば1:9としよう。次に「命賭け」という言葉があるが、どんな時に使うだろうか?戦争で物資や火力とも絶対有勢な敵の陣地に突っ込んでいく時や、やくざ映画で抗争相手の組事務所に少人数で報復攻撃を仕掛ける時などは使わない言葉ではなかろうか?なぜなら、ほぼ間違いなく死ぬからである。命がなくなるのが当たりであるのに、命がどったらこったら言っても仕方ない。比率は999:1か?1000人に一人くらいは、命だけは助かるかもしれない。サーキットレーサーが300Km以上のスピードで走る。あるいはボクサーが世界戦に挑む。また特例として選挙演説の時やコンサートを開催する若者が使うこともある。そういった人たちは数日前から眠れず、体の震えがくることもあるという。しかし、彼らは本当に死ぬかもしれないと思って挑むのだろうか?答えはNOである。命賭けでやりますなどと言っているうちは、まさか自分が本当に死ぬとは夢夢思っていないのである。コースの至る所に消化器や救命スタッフが用意されているし、様子が危ないようであれば試合は止められる。もしもの時は、何かに守られているのだ。救急車もいれば、ドクターもいる。ゆえに「命掛け」とは、仮に命がなくなったとしても後悔しないということであって意気揚々とした清々しい話なのではなかろうか?たとえば1000人に一人くらいは死に至るかもしれないといったレベルなのである。では医者の口から命が危ないということを言われるのはどうか?あなたは終わりとか、お手上げと。これは恐らく機関銃の玉や爆弾がビュンビュン飛んでくる中、短い刀を頼りに敵陣に突っ込んでいくようなものである。あなたはもうすぐ死にますと言われるのと、もしかして死ぬかもしれないなどとチラリと想像するのとはその恐怖感たるものは雲泥の差があることを今回の病魔に教えられた。
もう一度確認しておくが、我々は2人に1人はガンにかかるという社会の中にいる。そのうちの3人に一人は5年以内に亡くなるという。あれから私は、親しい人に次のような話をよくする。たとえば、ある日の会社や地域の検診で再検査の通知が来る。そして病院に行くと精密検査の必要があるので大学病院に紹介状を書くと言われる。それから先は、今読まれたような経過をたどるのだ。ガン細胞にはいろいろな種類があって、私の場合は悪い中でも一番レベルが低いものだったので、抗ガン剤は不要と言われたが、それこそ悪いものであれば手術さえもしてもらえないらしい。私は52歳であるが、まだ死ぬのは早いという感じがある。では60歳だったらどうか?70歳ならちょうどいいので死なせてもらおうと思うか?私は80歳になってもきっと棺桶に入って燃やされる夢にうなされて、何回も飛び起きることだろうと想像する。目玉を取らないでくれと祈ることだろう。これが30歳で本当に死の宣告をされる人もいる。なんという世界なのだろうか?
医者は5年生存率80パーセントなどと言ったが、我々の生きている世界は死亡率100パーセントである。私は幸いにも命が無くなることも眼球が無くなることも免れ、現在に至るが、相当の数の人達が余命宣告をされ、死の恐怖と生への執着の渦の中で刻一刻と時を刻まれて、恐ろしい朝を迎えてゆくのだ。前世や来世を信じる方は、それこそ自爆テロなど平気でできるのかもしれないが、実際のテロの現場では、そら恐ろしい顔でテロを起こすらしい。体がガタガタと震え、顔面蒼白で全身に爆弾を括り付けて悲鳴を上げながら事を成し遂げるらしい。どうやら、その宗教は信者にとっては半信半疑なのだろう。でなければ、楽しい来世を夢見て嬉しそうにスイッチを押すはずである。
人はどこから来て何処へゆくのか?私は死んだら物質になるという「弁証法」の言葉がしっくりと来た。死んだら終わり、だからこそ何事も一生懸命にやろうとするのであり、どこかに死の恐怖があるからこそ他人と仲良く、良い社会を作ろうとするのだ。死ぬことがない、あるいはよみがえりを信じるとすれば人は社会性を持つ必要はなく、本能に任せて自由に好きなことをしているだろう。いつ鬼からお呼びが掛かるかわからないこの世界でできることは何だろう? それは、この恐ろしい体験を通じてわかたことがある。人はいつも10パーセント程度の能力しか使っていないということである。本当はものすごい力があるのに、その力は来るべきときに使う備蓄品となっている。いつかは自分にチャンスが来るのでそのときに使うと、そのように誰もが思っているのではなかろうか?しかし、なかなかその時は来ないで、普段は適当に流して過ごしている。TVゲームをしたり、ギャンブルをしたり、酒を飲んだりして。それがまったく良くないとは言わない。美味しいものを食べて楽しい会話を楽しむのは良いことだろう。ただ、それだけというのでは、いかがなものだろうか?死ぬというところまで追い込まれないと、人は本当の意味で真剣になれない。たとえば与謝野晶子が書いた有名な小説は、奇跡の9ヶ月と言われるように、余命宣告を受けてから9ヶ月の間に書き上げたものだそうである。また、死刑宣告された囚人が高等教育を受けていないにもかかわらず、法律専門の大学の教授もうならせるような法律論を書くようなことがあるという。要は、人は自分に残された時間はものすごくあって、まだアクセルを吹かさなくても「明日がある~さ明日がある~」と思っていて、その実力の一部分しか使っていないということなのだ。その本当の力が出せるためには、残された時間がいくらもないという認識が必要なのである。残念だが、最低でも私以上の恐ろしい目に遭わないとスイッチが入らないのかもしれない。
今はガンと診断されると、その時点で何百万円ももらえる保険があるという。(ただ、実際は認定に数ヶ月かかってしまうらしい。)また、自分の命があと数ヶ月しかないと気付かされた時に会社を退職して、退職金を残りの人生に使う人もいるという。自分だったらそのお金で旅行でも行くのだろうか?趣味の魚釣りで大物を狙うのか?毎日パチンコ三昧をするのか?朝から酒飲み放題でいるのだろうか?恐らくそれでは満足できないのではなかろうか?胸にポッカリと大きな穴が開いて、空しさの中を無常な時間が過ぎてゆくのかと思われる。ではどうしたらよいのだろうか?
うちの子供達もそうだが、若者は野心というものを持って、それに向かって努力する。将来はあんな人になりたいとか、裕福な生活をしたいとか、有名人になって脚光を浴びたい、人生の成功者になりたいとかである。成功者というと一般的にはお金持ちや企業や社会の上位に昇り上げた人のことを言うのだろう。また、野心は生きる上でのエネルギーではあるので、それは否定しないが、人生の成功者というものを目指したとしても、決して成功者になる必要はないと思う。たとえオリンピックで上位に入っても、野蛮な本能を押えることができずに警察沙汰を起こす人もいる。若くして頂点に立ち、あとの人生をその看板をちらつかせて生きていくのであれば、年をとっていても、より高いところを目指して努力しているほうが素晴らしくないだろうか。
私の知っている中にも一生懸命に虫のようになって働いて年収170万円の人もいれば一ヶ月の小遣いが250万円の人もいる。しかし、もうすぐ寿命ですと医者から言われたら同じ立場である。余程に有名な人でも、死んで10年もすれば話にも出てこなくなる。それほど歴史というものは残酷なものなのだ。ただ、有名人だからとか大金持ちだからなど、社会的成功者だからとか、盛大な葬儀だから心底から悲しいと思って参列する人が多いとは限らない。それは、残酷な死に方をしたとか、小さな子供を残して行く末がかわいそうという意味での悲しみはあるだろう。あるいは、その人を失って自分達の生活がどうなるのか不安な辛さもあるだろう。しかし、もしそこに涙が流れるとしたら、それは相手のことを思っての涙か、それとも自分がかわいそうの涙なのだろうか?遠い過去に若くして亡くなった映画俳優のジェームスディーンの墓前に花を掲げ、号泣する若い女性が後を絶たないという。その涙は何なのだろうか?
あなたの持っている時間は残り少ないと宣告された場合、どのように考えたらよいのか。病気でなくても、それ相当の年を重ねれば、同じことであるが、残された時間をどのように生きるのかというのでは、自己中心的で少し野蛮な感じがする。もし、自分が余命宣告されたなら、どのように考えたらよいのだろうか?
私が生還して出した答えは「労働」である。人間が猿からヒトとなって分裂したのは「労働」できるようになったからである。「労働」とは人が社会生活をするために与えられた作業の一環である。「籠に乗る人、担ぐ人、そのまたワラジを作る人」ということわざの通りである。人間は社会性を持っている。今は冬だが、この寒空の中、人は裸で外にいれば、死ぬのである。なぜ人は死なないかといえば、服があり、食べ物があり、家があるからである。これらのほとんどは「他人」が作ってくれたものである。「そんなことはない、私は一人で生きていける。」といって山で暮らそうとしても、お湯を沸かすためのヤカンどころか、その素材すら他人の手を借りなければ入手できない。昔、アニメに登場した「アルプスの少女ハイジ」で難し者のおじいさんが世間と付き合いをやめて、山で生活をしているが、パンを食べるし、木を切るのにノコギリや斧を使う。服も着ているし、靴も履いている。これらはいくら器用だといっても、自分一人だけで作れる代物ではない。必ずや「何か」を生産し、それと「交換」という工程で求めるものを手に入れるという「社会性」が存在するはずである。社会が回ってゆくために自分にできることは何なのか?ということである。「おじいさん」が「労働」によって生産した「木彫りの食器」や収集した「木の実」などを求める人がそれに「労働価値」を見出して、その代償として先方の求めている「パン」などを差し出すのである。ただ、その物々交換の間に入るのがお金だというだけのことである。
いくらも残っていない時間が刻一刻と過ぎてゆく。女房、子供、親しい人と干渉できなくなる。しかし、長いか短いかであり、今見えているものはすべていつかは無くなるのだ。問題は、ある人が亡くななった後、その葬式に来た人がどんな風に過ごすのかである。あと半年の命と言われた人が自分の好きなことをして暮らしたとする。皆が働いているところを朝から酒を飲み、パチンコをし、旨いもの三昧で過ごしたとする。その葬儀はどうなるかということである。それこそ同窓会か結婚式かと勘違いするようになるのではなかろうか?そこで私が提案するのは「労働」である。自分ができる得意な分野で、後世のために何を残せるか?ということである。ベルトコンベアに運ばれる機械にボルトを差し込む作業でも良いし、料理を運ぶウエイターでも良い。「あの人を見習いなさい。」と言われるような立派な労働をすることである。ボランティアで海や山をきれいにするということを始める人もいるだろう。しかし、その人がいなくなったら元に戻ってしまう。人一人の力というのは微々たるものなので、それなら、そういった活動グループを作るとか、町の条例を作る活動をするとかなら後世に良いことが残るかもしれない。そこで、我々が生まれてきた使命とはなにか?という究極の疑問にぶつかることになる。
生活をするためには、物々交換をする媒体である「お金」が必要なので「労働」をする。せっかく生活をするなら裕福でありたい、そのためには「勉強」をして有名な学校に入り、大蔵省とまでは言わないが安定した高収入の就職を求めるのである。良い家に住み、美味しいものを食べて、自分の存在感をアピールするために「自分のために」権力を行使したがる。しかし、それでは葬式の時に「ただのブタ」が死んだのと同じになってしまうのだ。我々は人間であり、決してブタになってはならない。それでは我々の使命はなにか?それは一歩でも社会を前に進めることである。京都大学の中川教授がIPS細胞の生成でノーベル賞となったが、これで医学界は一歩進んだのである。美空ひばりやジェームスディーンが亡くなったのを悲しむ人が多いのは、その芸が今まで現れた役者以上に絶賛に値したからである。石器時代から縄文、弥生時代を経て朝廷、武家の時代、鎖国をやめて明治時代となり現代に至るように、人は労働を繰り返して発展進化を遂げてきた。少しずつ進んできて現代に至ったのである。この人類の発展は一個人の力では不可能である。中川教授が研究に没頭するためには、家が必要であり、エアコンも電気もガラスのビンも必要である。食べ物も着るものもみんな「誰か」が作ったものである。人は20歳くらいまでは今までの人間の歴史を教わり、それから自分の得意な分野を見つけて、命が亡くなるまでの間に、その分野で一歩でも技を進めて、後世の人が見習うような業績を残す。それこそが我々の使命なのだ。もし、自分が一般の主婦で「そんな大それたことを・・」と思うなら、「勉強」するのは裕福な生活をするためではないと子供に教育をすることである。子供がいなければ、そういった人間を育成することである。穴堀りでも物売りでも良い「○○さんだったらもっと素晴らしい仕事をした。」と言われるような立派な「労働」を提案して私の体験談を終わりにする。
どう、生きるのかではなく、どう生かされるのかということなのだ。
あの恐ろしい体験から半年が過ぎた。私は今でもシングルベッドで女房と寝る毎日である。うわべの友人と真の友人も判別できるようになり、廻りの人とも今まで以上に明るく楽しく過ごせるようになった。かなり重い話になってしまったが、影が濃いのは光が強いからであり、人は「死」というものを身近に感じないと生の喜びに没頭できないのかもしれない。どうか、手遅れにならないうちに具合が悪い時は早くに医者に診てもらい、後悔のない人生を送ってもらいたいと切に思う。