終章 菊田銀次の章
菊田銀次
人の死というものが、どれほど恐ろしいものなのか。俺は、祐爾が死んだそのとき、初めて思い知った。避けなければ良かった。俺が死ねばよかったのだ。
亜季にそう言ったら、そんなことはないと言われた。俺のしたことは正しいのだと、何度も言い聞かせようとしていた。それが余計に辛かった。祐爾が心から好きだった亜季は、死んだのが俺ではなく、祐爾であるのが当然のように言う。
俺はここから間違ってしまったのだろう。俺がこうして、彼女の想いを受け入れてしまったから。もしあのとき断っていれば、君は死ぬことはなかったし、俺たちは親友のままでいられたのだろう。
死のう。
そう思ったが死ねなかった。俺には、死ぬ勇気すらなかったのだ。自分の愚かさを呪う。死ぬことも、あいつに謝ることも何もできない。俺は祐爾を死なしてしまったという事実を忘れられないまま、一生を過ごすことになってしまうのか。
亜季は俺を見ていてくれるかもしれない。けれどそれは永遠じゃないと思う。きっと俺のほうから別れを告げるだろう。俺といれば絶対に不幸せになってしまう。
ならば、俺は一体どうすればいいのだろう。
そうだ。俺が篁になるというのはどうだろう。そうすれば亜季を愛することができるはずだ。俺は独りになりたくない。今の俺には、親友の死よりもそれのほうが優先される。今日から僕は、篁祐爾だ。
気付いたとき、僕は暗闇の中にいた。いつの間にか寝ていたらしい。親友が死んだというのに、良く寝ていられるものだ。
僕自身の手で殺したからだろうか。だから悲しいとは思わない。ただ、僕は本来死んだ身だ。だから死んだ親友の名前を借りよう。そして彼には礼を言おう。君の身体をくれてありがとう。菊田銀次。僕の代わりにゆっくりと寝ていてくれ。
翌日、この「僕」という一人称について亜季から指摘された。その理由は前もって考えてあったので、その通りに伝えた。死んだ親友の一部を受け継ごうと思ったからと。別に嘘は言っていない。多少の誤りはあるものの、僕は死んだ親友から、身体というものを受け継いだ。別に彼女はそれで納得しているのだからそれでいい。僕は彼女を想い続ける。彼にはその自信が無かったみたいだけれど、僕ならば出来る。
彼に出来て僕に出来る、唯一のことだった。
しかし今となっては、彼に出来ることも全て出来る。素晴らしいことではないか。これからは何でも出来る。そう言っても過言ではない。彼の才能は全て僕のものだ。
僕は、亜季と同じ大学に通おうと思ったのだが、彼女が僕のことを考え別の大学に通うこととなった。彼女は、自分が僕に追いつけなかったのが悪いのだと謝った。しかし、悪いのは僕だと思った。なぜなら僕は、他人の頭脳を使用しているのだから。
大学生活最初の夏。亜季は僕に多くの友人を紹介するようになった。それは自慢のためだとわかっていた。けれどいつものように接した。本物の彼のように、誰にでも優しく、恋人とか関係なく優しい人間であり続けた。そうすることで亜季は満足する。それを見ていると、嬉しくて堪らなかった。
しかし、そこに恵莉が現れた。彼女は僕が普通でないことをすぐに覚った。きっと彼女は、親類の仲で最も親しかった女性だろう。だから僕のことに薄々気づいているようだった。ただ、僕が菊田だということを前提に何かを探っている。きっと彼女は、僕が菊田銀次を殺そうとしたなどと、信じていない。一方的に僕が殺されたと思っているはずだ。本当は僕が生きていることを伝えたかったが、それをしては面白くない。だからもう少し待つことにした。
恵莉はきっと何かする。それを見届けたかった。
それから一ヶ月。彼女が住んでいるマンションに向かった。別に彼女に会うつもりはない。ただ、亜季と口を利かなくなったという彼女が、今何をしているのかが気になったから見に来た。それだけの理由だ。
僕は近所の公園やコンビニで、彼女が近くを通るのを待った。
午後五時。コンビニで雑誌の立ち読みをしていると、彼女が目の前を通った。一瞬ドキリとした。ここまで唐突に現れるとは思っても見なかったから。そしてこのあと、彼女が入ってきたら逃げ道はない。しかし彼女は、前を見つめたままコンビニの自動ドアの前を通り過ぎていった。
安心して肩を落とすと、後ろから声を掛けられた。それは毎日のように聞いている声。まさかこのようなところにいるとは思わなかった。恵莉と口を利かなくなっている筈だ。それなのに何故?
「銀くんなんでこんなところにいるの?」
彼女はあまり疑っている風ではなかった。それならば僕の嘘を信じるだろう。
「こっちに良いスポーツ用品店があるって聞いたから、ちょっとね。で、亜季はどうしてここに?」
「ん? えーと、私はそこのマンションに友達がいるから、そこに行くつもりなんだ」
「そうか。しかし驚いたな。こんなところで会うなんて」
「そうだね。やっぱり私たちは神様にも認められたカップルなのかもね」
「かもね。じゃあ、そろそろ行って来るよ」
亜季と別れ、先ほど口にしたスポーツ用品店に行った。もしもあとで問い詰められたらどうしようもないから。しかしこの周辺のことを調べておいて良かった。
そういえば亜季は何故あの場所にいたんだ? 本当に友達に会うためなのならば良いが、その友達が恵莉だった場合、何をしようというのだろう。
まあ気にしたってしょうがない。とにかく今は、たいした興味もないところで時間を潰し、帰るとしよう。何も買わなかったことを問われた場合の言い訳も考えてある。
二週間後、亜季が僕の車を借りたいと言ったので、快く承諾した。ただ、様子がおかしかったのでその後を尾行した。
すると彼女は、大学の駐車場に車を停めた。一体何をすると言うのだろう。
暫く待っていると、彼女の友達が車に向かっているのを見つけた。一度会っているので顔は覚えている。ただ、名前までは覚えていないが。
そしてその数分後、恵莉が来た。
僕は慌てて近くの茂みに隠れた。彼女にだけは見つかってはならない。そう思ったから。彼女は亜季の乗る車の運転席側に立つと、何かを亜季に向けた。それが銃だと気付いたときには、既に銃弾が放たれていた。
亜季が死んで、どれだけの時が経っただろうか。まだ季節が一つ動いただけなのだが、それが何年も経ったように感じる。僕は亜季が死ぬのを見ていた。僕にはそれを止めることが出来たはずだ。
恵莉が亜季を殺すことが有り得ないことではない。どこでだって殺人は行われているのだ。その被害者と加害者が自分の知っている人間であろうと、それはなんらおかしいことではない。
僕は、愛する人を失った。僕はどうすればいいのだろう。復讐か? だが、そんなことをして誰が喜ぶ。亜季がそれを見ていたとして、彼女は僕になんと言うだろう。ありがとう、そんな言葉は出ないはずだ。ならば僕は何をしよう。これからの人生をどう生きよう。
否、僕は生きていてはいけないのかもしれない。僕は人を死なせすぎた。実際には、この菊田銀次という人間の身体を使っているのがいけないのかもしれない。僕はこの身体を巧く扱えていない。だから僕に関わった人間は死んでいく。
この身体を巧く扱えれば。そう願ったところで、本当の持ち主以外にそれを成すことなど不可能だ。なら、僕はこの身体を彼に返し、そして去ろう。
けれど、もう少しだけこの身体を使わせて欲しい。銀次、それで良いかい?
菊田銀次が使っていた部屋は引き払った。少しの食料と衣類、金などだけを持って、僕は歩いた。少しでも長く、人が生きるこの世界を見ていたいから。
見るものすべてが新鮮だ。青い空を見れば、清清しく感じ、沈む夕陽を見れば、切ない思いをする。雨が降る前の土のにおいは、自然を感じれる気がして心地が良い。ときには雨に打たれるのも気持ち良い。
こんな世界に純粋な気持ちで生きられる人間を羨ましく思う。僕はもう、普通の生活を送ることなんて出来ない。それはこの身体の持ち主だって同じだ。僕の所為で、元に戻ったときには悪い思いをするだろう。僕が見てきたものをそっくりそのまま見てきたのだから、尚更だ。
本当にごめん。もう直接謝ることなど適わないのが残念だよ。
数日後、殆どの荷物を盗まれた僕は、見覚えのあるコンビニを見つけた。外から覗くと、おでんの容器を持った恵莉がいた。
思わず僕は彼女に声を掛けた。何かいろいろと訊いてきたが、適当に答えておいた。そしておでんなどの代金を払った。彼女は部屋に案内してくれた。彼女ならば僕を殺すだろうか。彼女は銃を持っている。そして死んでいるはずの僕を想って、この身体を撃抜くだろうか。
そう思っていると、彼女は口を開いた。
「何故あなたはここに来たの? 殺されるのが目的なの?」
「そうだね。殺されても良いと思っている。僕と深い繋がりを持ってしまった人は必ず死んでしまう。何故なんだろうね。死んで欲しくないと望んでも、彼らは皆死んでしまう。君、祐爾のこと好きだったんでしょ?知ってるよ。前に、君に告白されたと聞いたから。それと、亜季を殺したのは君だ。原因はやっぱり僕なんだけどね。ただ、関係のない人を巻き込んだのは君の責任だ。僕には関係ないよ。まあ、僕を殺したあと自分も死のうとしている人間には、何を言っても無駄なんだろうけどね。しかし本当に辛いよ。大好きな人が、どんどん死んでしまうのだから」
違う。すべての責任は僕にある。なのに口が勝手に動いてしまう。口だけではない。表情から何まで、何もかもが勝手に動く。
「亜季が死んで、二週間が経った頃だ。僕はマンションを引き払った。家具などは全部捨てた。何着かの服と、金さえあればそれで良い。まあそれの殆どが盗まれてしまって、今やこの服と財布しかないけどね。カードが盗まれなかったのは運が良かったよ。そのおかげで死なずには済んでいるから。しかしおかしいよね。この世に存在してはいけない自分は、生きるのに必死なんだから。死にたくないなんて思ってはいけない存在なのにね」
何を言っているんだ? 銀次、君だろう? 君が動かしているのだろう? 止めろ。そんなことをしたら、彼女は君を殺し、そして彼女も死んでしまう。それでいいはずがないだろう!
恵莉を見ると、机の引き出しから銃を取り出していた。そして自分のこめかみに銃口を突きつけている。
何故僕を撃たない? 否、今はそんなことはどうでも良い。撃つんじゃない。死ぬんじゃない。声を出すことが出来ない。
彼女は引き金に人差し指を添えた。僕はそこで、自らの意識を断った。
篁祐爾
意識が戻ったと分かったとき、僕はベッドの上で、仰向けに寝ていた。右手に違和感を感じ、それを見ると、恵莉が抱きついていた。
これは夢だろうか。
(現実だよ)
聴き覚えのある声。親友であった、この身体の所有者だった男の声が頭の中に響いてきた。
「……銀次、何で?」
少し間があって、彼は質問を無視して語りかけた。
(俺たちは、不思議な出来事を体験した。このふざけた身体でな。そしてお前の愛する人と、その友達が死んだ。お前も含め、この身体があるからおかしくなっていく。たぶん、この身体の制御を出来るのは俺だけだと思う。それだけ危険な存在なんだ)
何を言っているのかがわからない。それでは銀次とこの身体は、別のものとでもいうのだろうか。否、そんなことあるはずがない。
「何を言っているんだい? そんなこと有り得ない。身体と人格は一つだ。別の存在として有り得るはずがないじゃないか」
(じゃあ君は、どうしてその身体を使えるのかわかるかい? 俺は君に身体を渡そうとはしたが、本当に出来るとは思っても見なかった。それに俺の存在そのものは、この身体の中でずっと生き続けていた。この身体は“菊田銀次”と言う名前を持った、悪魔だ。死んだ人間ならば誰でも扱うことが出来る。否、何かしらの適応がなければならないのかな。例えば、この身体が原因で死に至ったとか)
まだ現実味を帯びない言葉だけれど、それでも説得力がある。きっとこの身体を使ったことが無かったらそんな言葉を信じることは出来なかっただろう。まだ信じきってはいないのだが。
(信じないのならばそれでもいい。俺だって自分が言っていることが事実だと断言することは出来ない。それでも俺は、この身体を破棄しようと思う。そうすれば、恵莉さんは死なずに済むはずだ)
「恵莉は死なない、か。でも君の言葉が本当だとして、こんな身体がこの世に一つしか存在しないとは限らないじゃないか。ならばこの身体一つ消えたところで、何の意味も無いんじゃないか?」
この言葉は、死にたくない僕の言い訳に過ぎない。しかしそう思ってもいた。この広い世界に一つしかないものが、偶然僕たちの前に現れるなんてこと、あっていいわけが無い。それに、一つしかなかった場合、過去にこれに出会い、壊した人間がいるはずなのだ。今の今までこの身体の危険性に気づく人がいなかったなど、それこそありえないではないか。
(まあ、それもそうかもしれない。ただ、この身体が無くなることで、一人の女性を助けることが出来るんだ。この身体がある限り、また彼女は自ら命を絶とうとするかもしれないだろう? もうそんなことをさせたくないんだよ俺は!)
「でも恵莉は、この身体の中に僕がいることに気づいた。ならば、この身体が消えたことによって命を絶ってしまうと思う。そうした場合、結果は同じになるじゃないか。結局はこの身体に関わってしまった時点ですべては決まってしまうんだよ。遅かれ早かれ、ね」
そう告げると、彼は黙ってしまった。きっとそのことは分かっていたのだろう。彼はただ、魂の無い彼女の姿が見たくないだけなのだ。彼は恵莉が好きなのだ。彼には彼女のことを話したこともあるし、写真も見せた。そして僕が使うこの身体を通して、ほんの僅かではあるけれど、彼女を見ていた。それだけで、彼は恵莉に好意を抱いたのだ。別に不思議なことでもなんでもない。
僕だって、亜季を一目見たときから好きだったのだ。小さなきっかけさえあれば、誰でも人を好きになれる。少なくとも僕はそう思っているのだ。
だから彼の気持ちだってわからないでもない。
しかし僕は、愛していた女性が死んでもなお、生きることを望んでいる。恵莉が行き続けることを、彼が望むのであれば、僕は恵莉の側にいて護っていくつもりでいる。それでは駄目なのだろうか。
どんなに問いかけても、声は返ってこない。
僕は恵莉を起こさぬようベッドから出て、足音を立てずに玄関に立った。自分は今、三日もの間着続けた服を身に着けたまま、靴を履いて外に出る。
悪足掻きは止めよう。彼の言うとおりにして失敗したことなんてあるだろうか。彼に背いて後悔したことはあっても、その逆は一度も無い。同じ身体を共有している今でも、それはきっと変わらない。僕と彼とは、元々違う人間。“親友”と言う名の絆はあれど、その中身を共有することなど、出来やしない。
マンションの屋上。柵を越え、端に立つと、あのときのことを思い出す。まだあれから二年も経っていないと言うのに、なにもかもが懐かしく感じる。僕が死んだこと、この身体を彼から貰ったこと、亜季が殺されたこと。すべてを失った今の僕にとっては、小さな出来事でしかない。
恵莉には、これまでのことをいつまでも覚えていないで欲しい。僕のこと、太田亜季のこと、菊田銀次のこと。みんな忘れてしまって欲しい。こんなもの、この先何の役にも立たないだろう。ただ辛い想いをするだけでしかない。それならば、忘れてしまったほうがどんなに幸せだろうか。
僕はそっと足を前に出す。下ろしても、そこには踏めるものなど無く、引力に任せて落下する。あの時とは違い、何も感じない。恐怖も不安も何もない。僕には、何もない。
彼女が寝ているはずの部屋の窓が見えた。そこから恵莉が笑顔で僕を見ていた。
僕はそれを見て、妙な気分になった。
また繰り返される。僕らのような人間が、また増え続けてしまう。それがわかったというのに、僕は微笑んでいる。僕のこの死も、また無意味だということが、おかしくて堪らない。
僕が最後に見た彼女のその表情は、亜季そのものだった。