第一章 太田亜季の章
第一章 〜太田亜季の章〜
太田亜季
私が彼と付き合うようになってちょうど半年が経った頃、彼に良くくっついていた篁が、彼を殺そうとして死んだ。彼は篁の手を掴んだことを悔いていた。しかし私は彼の行動は的確なものだと思う。だって、篁よりも彼のほうが明らかに優れた人間であるのだから。それを彼にわからせるため、言葉を変えて伝えた。それでも彼は自分の行いを悔いた。俺が死ねばよかったのだと、何度も言い続けた。
その時だ。私は自分を最低な人間だと思った。だって、これほどまでに彼に想われている篁に、嫉妬してしまったのだから。彼の中から、篁祐爾という存在を消し去りたい。彼に、私だけを見ていて欲しい。もう、存在しない人間なんて忘れて欲しい。そう想い始めてから、一年が経った。
私は彼ほど学力が無かったけれど、同じ大学に通うため、寝る時間を割いて勉強をした。しかし結局は彼の望む大学に合格はできなかった。私はもう一つ下のランクの大学に合格して、そこに通っていた。
同じ学校には通えなかったけれど、それでも私たちは二日に一回は会っていた。これは彼が言い出したことで、私はとても嬉しかった。だって、学校も全然逆の方向なのに、こんなにたくさん合えるだなんて思ってもいなかったから。一週間に一度会えれば良い方なのだと思っていたから。
そして私は、彼と会うときに、大学の友人を連れて行くことが多くなった。私は彼を自慢したかったのだ。彼に会う友達は皆、期待通りの反応を見せてくれる。それを見ていて本当に楽しかった。もう篁のことなどどうでも良かった。彼だって篁のことは話さないし、きっともう忘れているのだ。もう、私だけを見てくれているのだ。そう思いかけていたとき、私の邪魔者が現れた。
順藤恵莉。大学に入ってから出来た、一番の友達、いや、親友とも呼べるような間柄の彼女だけは、皆と違う反応を示した。最初彼を見たときは、皆と殆ど同じだったのだけれど、話をするにつれて、彼女の顔から笑顔が消えた。そして彼女は、私の耳元で囁いた。
「彼、普通じゃないよ」
私はその言葉の意味がわからなかった。彼は普通じゃない。そんなこと、見ればわかることだ。あれほどできた人間はこの世にそうたくさんいるものではない。だから普通の人とは違う。普通じゃないのは当たり前なのだ。けれど、彼女の表情からその言葉は良い意味として捉えることができなかった。彼女は彼を恐れている。そう見えた。
「だって、会ってからずっと笑ってるんだよ?そんなの人間として間違っているよ」
それからだ。私は彼女と口を利かなくなった。彼女が話しかけてきても無視した。彼女は間違っている。彼は、私の友達だからと、笑顔を絶やさないでいてくれたのだ。その行為をおかしいなどと言うなんて、人間として間違っているのは彼女のほうだ。
不愉快だ。彼を貶す人間なんて、この世から消えてしまえば良い。消えろ――消えろ消えろ消えろ消えろ――キエロ。
私の中の何かが外れたような気がした。
順藤恵莉
私は亜季と遊ぶことになった。その日は彼女の彼氏も一緒で、もしかしたら悪いことをしたと思った。
亜季が私のことを紹介している間、私はずっと彼のことを見ていた。とても優しそうな感じがして、こんな人といられる亜季はとても幸せな人だと思った。しかしそれは間違いだった。彼と話をしていると、私は気持ち悪くなってきた。けれどそれを気付かれないように表情は変えないでいた。そうだ、今の私がやっていることと同じようなことを彼はしているのだ。きっとそれは、私の前だけではない。今までにも何人もの友達が会いに来ているというから、彼女らはこの仮面に騙されているのだ。だから私が彼のことをどうだったかと尋ねると、とても格好良く、優しい人だったというのだ。
私にはこの菊田銀次という人間が容易に想像できた。彼は会う人によってその仮面を使い分けているのだ。それは些細な違いであっても付け替える。まったく同じ人間などいないのだから、彼にとってそれは当たり前のことなのだ。だから彼が私と亜季と話をするときだって一々仮面を付け替えている。
しかしそれは、感心すべきところでもあった。こんな多種多様にある仮面を使い分けることができる人間なんてそうはいない。その点では、彼はとても優れた人間なのかもしれない。
ただ、私は彼には二度と関わりたくない。そう思った。
菊田銀次と会った二日後、亜季が私のことを避けていることに気付いた。最初は何かの冗談かと思ったのだが、それが何日も続くと本気なのだと解る。
そのとき初めて気付いた。あの男に会ったこと自体が間違いだったのだ。一度関わってしまってはその糸からは逃れられない。たとえ彼の仮面に気付いていても、それは意味を成さないのだ。そして彼と付き合っている亜季は、その糸に全身を覆われ、侵されている。だからこうして、私が彼に惹かれなかったのを見て、それだけで避けるようになった。
私は覚った。
これが篁君を殺した男の仕業なのだと。
そして、次なる標的は、私なのだ。
太田亜季
恵莉は私が何をしようとしているのか気付いているようだった。私が彼女に近づかないようにしているのに気付くと、彼女もそれに合わせて私と口を利かないようにしていた。
しかしそれだけで私は諦めない。彼の魅力に気付かないような人間に生きる価値などない。だから決して彼女の存在を認めない。以前友達であった彼女は、もうすでにそれではない。単なる敵でしかありえない。
だから決めた。明日、私は彼女を殺す。
私は友達を使って、順藤恵莉を大学の駐車場に呼び出した。時刻は午後十一時を少し過ぎた頃、彼女はそこに現れた。私はそこに一台だけ停めてある車の中にいる。それは彼の車で、今日一日だけ借りることになっていた。
彼女は車の助手席側の窓を叩いた。彼女からは暗くて私の顔が見えないらしい。そうなるような場所に車を停めたのだから当然だ。
私は助手席側の鍵を開けた。そして彼女が乗り込み、ドアを閉めるのを確認すると、エンジンを掛けた。だがアクセルは踏まない。これは彼女の悲鳴を掻き消すためだけのものなのだから。
私は腰に携えていた果物ナイフを手に取り、それを思い切り彼女の腹部を目掛けて刺した。彼女は小さな悲鳴を上げ、驚いたような表情をしていた。そしてそれは、私も同じだった。間近で見たそれは、恵莉を呼びに行かせた友達だった。
何故あなたがここにいるの? 私はあなたなんて呼んでいない。私が呼んだのは順藤恵莉。彼女はどこ。彼女は、どこ。
その時だ。運転席側の窓を、誰かがノックした。振り向くと、何か黒い穴がこちらに向いていた。それが何かを確認する間もなく、火花が散った。
私は、月明かりに照らされた、順藤恵莉の笑顔を見た。