怪異記録01 『扉の外で泣く者を入れるな』
「寒いの……」と、扉の外で少女が言った。
声は、吹雪の遠くから聞こえた。
窓のない石造りの詰所を、風が四方から揺さぶっている。
雪が石壁を擦る音に混じり、少女の声は今にも途切れそうだった。
三人がこの詰所へ逃げ込んだのは、日が沈む少し前だった。
冬を迎える前に、北境街道と街道沿いの避難詰所を確認する巡回任務。
その帰路で、予想より早く吹雪が激しくなった。
白い風が街道を消した。
前へ進んでも、引き返しても、谷へ迷い込む危険がある。
三人の騎士を乗せた馬たちも鼻先を下げ、脚を震わせ始めていた。
騎士長シャルロットの判断で、三人は最寄りの古い詰所へ避難した。
馬を、外壁に沿って張り出した屋根の下へつなぎ、重い木扉に三本の閂を下ろした。
夜明けまで風雪をやり過ごす。それが、この夜の予定だった。
最寄りの集落は、吹雪の向こう半日先にある。
とても子どもが一人で歩いてこられる距離ではない。
「足が、動かないの」
その声に、まだ若さの残る顔を冷気で赤くしたニールは、暖炉の前から立ち上がった。
華美な装飾のない厚手の外套には、溶けかけた雪が染みを作っている。
濡れた手袋はすでに外してあった。
冷えきった指へ血が戻り始め、針で刺されるように痛んでいる。
ニールは、見習いである従騎士から正式な騎士として任官されたばかりの若手騎士だった。
普段は城門警備に就くことが多い。
人を中へ入れる前の確認や、負傷者を見つけた際の初動は、繰り返し教え込まれている。
正面の木扉までは六歩。
その扉には、上、中央、下の三本の鉄製の閂が渡されていた。
目の高さには、磨かれた厚い硝子をはめた細い覗き窓。
扉の下には、外の暗さが一本の線になって見えるほどの隙間がある。
扉から最も離れた奥の壁では、暖炉の火が赤く揺れていた。
炎の光は、一室しかない詰所の中央までは届く。
しかし、木扉の周囲までは照らしきれない。
三本の閂は、暗がりの中で鈍い線を描いていた。
「お母さんも……一緒に外に」
ニールが、声に誘われるように扉へ向かおうとした時、右手が前へ出た。
先輩騎士のクランだった。
装飾の少ない実用的な騎士装束に、無駄なく引き締まった身体。
濡れた髪や外套を乾かすより先に、彼は扉、覗き窓、薪の残量、煙抜きの順で確認を終えていた。
腰の剣へは触れず、扉の下の隙間を見ている。
「待ってください、ニール」
穏やかな女性の声に、ニールは後ろを振り返った。
騎士長シャルロットが、暖炉と扉の中間に立っていた。
月光を思わせる長い銀髪が、濡れた外套の肩へ流れている。
深い紫色の瞳は静かで、吹雪の中を進んできた直後だというのに、姿勢には乱れがない。
腰には聖剣。
騎士団を率いる騎士長であり、聖剣に選ばれた聖騎士でもある。
息を呑むほどの美女だった。
男であれば、誰もが一度は彼女に憧れを抱くのではないか。
少なくとも、若いニールにはそう思えた。
だが今、その美貌よりも目を引いたのは、扉へ向けられた鋭い視線だった。
「すぐに扉を開けるつもりはありません」
ニールは報告した。
「まず、どこを傷めているのか、動けるのかを確かめます。扉から離れさせ、安全を確かめてから開けます」
吹雪の遭難者に対する手順だった。
歩けるか。
どこを傷めているか。
同行者はいるか。
扉の前から離れられるか。
確認が済んでも、一人では扉を開けない。
仲間とともに周囲を警戒しながら中へ入れる。
若手騎士のニールが、城門警備で身につけた手順に間違いはない。
「同行者がいるなら、その人数も確かめてください」
シャルロットが言った。
「はい」
ニールは扉から腕一本分の距離を取り、外へ声を張った。
「聞こえる! 扉から離れるんだ! 他に誰かいるのか!?」
風が石壁へ雪を叩きつけた。
返事はない。
「聞こえるか!」
もう一度呼びかけようとした、その時だった。
「……寒いの」
声は、扉のすぐ外から聞こえた。
ニールの唇が止まる。
先ほどまで、少女の声は吹雪の遠くから聞こえていた。
今は、木板一枚を挟んだ向こう側にある。
まるで額と唇を扉へ押しつけ、隙間から囁いているような近さだった。
足音は、しなかった。
雪を踏む音もない。
扉まで走ってきた息遣いもない。
遠くから聞こえていた少女の声は、ニールが返事をした次の瞬間、扉のすぐ前へ移っていた。
ニールは一歩退いた。
「騎士長。声が突然、扉の前へ移りました」
自分でも分かるほど、声が硬い。
「接近する足音は聞こえませんでした」
シャルロットは扉から目を離さなかった。
「……外へは、もう返事をしないでください」
「承知しました」
クランが扉の前へしゃがみ込んだ。
床へ片膝をつき、下段の閂へ指をかける。
鉄が、かすかに鳴った。
「浮いている」
ニールも近づき、クランの肩越しに覗き込んだ。
下段の閂は、膝より少し高い位置にある。
太い鉄棒は受け金へ収まっていたが、奥まで入っていない。
指一本分ほどの隙間が開いていた。
詰所へ入った時、三本の閂を下ろしたのはニールだ。
確かに最後まで押し込んだはずだ。
クランが両手で鉄棒を押す。
錆びた金属が軋み、受け金の奥へ入っていく。
手を離した。
閂は、元の位置まで戻った。
ゆっくりと。
見えない指に引き戻されたように。
「凍りついているのでしょうか」
ニールは言った。
しかし、室内は暖炉で温まり始めている。
鉄が凍りついて動かないなら理解できる。
だが勝手に外れる理由にはならない。
クランは答えず、受け金と木材の間へ顔を近づけた。
暖炉の光が届かない暗がりで、その目だけが鋭くなる。
ニールは、扉の脇に刻まれた文字を思い出した。
詰所へ入った時、煤で黒くなった石壁に見つけたものだ。
刃物の先で削ったような、古い文字。
ところどころ欠けていたが、どうにか読めた。
「泣き声のする夜は、必ず三本とも下ろせ」
悪戯だと思っていた。
この辺りの旅人が残した、意味の分からない落書きだと。
三本とも下ろした。
それでも、一番下だけが浮いた。
しゃり、と音がした。
ニールは扉の下を見た。
床と木扉の間にある細い黒い隙間から、何かが押し込まれている。
雪ではない。
指だった。
子どもの小指。
青白い爪の先が、暖炉の光の届かない床を探るように左右へ動いている。
隙間は、小指が入るほど広くない。
それでも指は、骨を平らに潰したように薄くなって、第二関節まで室内へ入っていた。
皮膚から滴った水が、床板へ小さな染みを作る。
暖炉で薪が爆ぜた。
指が止まった。
ゆっくりと、爪の側をニールへ向けた。
もちろん目はない。
それでも、それはこちらを見たのだと思った。
ニールの右手が、腰の剣へ伸びかける。
クランが手首をつかんだ。
「やめておけ」
指が床を一度掻いた。
しゃり。
細い音だけを残し、扉の向こうへ引っ込んだ。
水の筋が一本、隙間から室内へ続いていた。
クランはそれに触れなかった。
立ち上がると、暖炉脇の長椅子へ向かう。
「下を支える」
ニールも反対側を持った。
二人で長椅子を運び、扉の前へ横向きに置く。
片方の脚を床板の継ぎ目へ噛ませ、背もたれを下段の閂へ押し当てた。
「中央と上段を確認してください」
シャルロットが言った。
ニールは立ち上がり、胸の高さにある中央の閂へ触れる。
動かない。
次に頭上の上段へ手を伸ばす。こちらも受け金の奥まで入っている。
「中央、上段ともに異常ありません」
報告した時、扉の外から少女の声がした。
「聞こえてるよ」
ニールは返事をしなかった。
「お兄ちゃんの声、聞こえてる」
扉のすぐ向こうで、子どもの声が笑った。
◇
少女の声は、それから聞こえなくなった。
声が消えると、詰所は先ほどまでより狭く感じられた。
正面に扉。
奥に暖炉。
左右の壁には寝台が並び、横壁には背の高い物置棚が置かれている。
天井近くには、煙を逃がすための細い穴が開いていた。
出口は扉一つだけ。
シャルロットは三人の配置を変えた。
ニールを扉の正面から外し、暖炉寄りへ三歩下がらせる。
クランは扉とニールの間。シャルロット自身は、横から三本の閂を見渡せる場所へ立った。
外の声に返事をしない。
肩に触れてから伝えられた言葉だけを、本物の指示として扱う。
開いた掌を見せたら止まる。
指二本を目へ向けたら、周囲を確かめる。
言葉を減らし、合図を決めた。
暖炉の横では、砂時計の砂が細い筋になって落ちている。
詰所へ入った時、夜明けまではおよそ五時間だった。
まだ、ほとんど減っていない。
ニールは自分の最初の返事を思い返した。
遭難者へ声をかける。
それは正しい手順だった。
だが、返事の直後に声が近づいた。
下段の閂が浮いた。
指が入ってきた。
偶然と考えるには、出来事の順番が整いすぎている。
「クランさん」
ニールが小さく呼ぶ。
クランは下段の受け金を見たまま、片手を上げた。
ニールの声が外へ向けられたものではないと確かめてから、振り返る。
「俺が返事をしたからでしょうか」
「まだ分からない」
クランは閂へ指を置いた。
「だが、返事の後に動いた」
「声も近づきました」
「ああ」
それ以上は断定しなかった。
分からないものを、分かったようには話さない。
その短い返答が、今はかえって不気味だった。
少女が本当に人間なら、一刻も早く助けなければならない。
怪異であり、返事に応じて近づいたのだとすれば、もう声を返すわけにはいかない。
どちらかを確かめるための行動が、どちらかを悪化させるかもしれない。
「……救助を求む」
男の声がした。
今度は少女ではない。
大人の男の声だ。喉を凍らせたように掠れている。
「北街道巡察隊。馬一頭を喪失。負傷者一名。手足の感覚を失いつつある」
軍務上の報告形式だった。
所属。
被害。
負傷者。
必要な支援。
ニールの背筋が自然に伸びる。
「所属は中で確認する。先に扉を開けてくれ」
そこで、違和感に気づいた。
言葉は正しい。
順番だけが間違っている。
所属確認は、扉を開ける前に行う。
荒天時であっても、扉越しに所属と隊長の名、どの街道を通ってきたのかを確かめる。
盗賊などが騎士を装っている可能性があるからだ。
先に中へ入れ、室内で確認するとは言わない。
ニールはシャルロットを見る。
彼女は人差し指を唇の前へ立てていた。
──返事をするな。
ニールは頷く。
「中に人がいるだろ。先ほど返事をしたはずだ」
ニールの喉が詰まる。
男の声は、少女へ返したニールの言葉を知っていた。
だが、まだ名前は口にしない。
「助けを求める者を、見殺しにするつもりか」
木扉が、ごく小さく震えた。
拳で叩いた音ではない。
誰かが扉へ胸を押しつけ、寒さに震えているような振動だった。
「隊長の名も、通ってきた街道も答えていません」
ニールは、室内にだけ聞こえる声で言った。
シャルロットが頷く。
「本当に負傷して、手順を誤っている可能性はあります」
「はい」
「ですが、今は開けません」
その声は穏やかだった。
遭難者が偽物だと決めつけた声ではない。
本物かもしれないと理解した上で、開けないと決めた声だった。
「この判断は私の責任です。ニールは、外の声と閂の動きに注意してください」
「承知しました」
扉の外で、爪が木板を削った。
ぎ。
ぎぎ。
外側から削っているはずなのに、音は妙に近かった。
木材の中を、爪が這っているように聞こえる。
次の瞬間、馬の悲鳴が聞こえた。
詰所の外壁に沿って張り出した屋根の下。
三頭をつないだ方角からだ。
甲高いいななき。
蹄が石を蹴る音。
綱か、柱が激しく軋む。
ニールは反射的に壁へ顔を向けた。
一頭。
間を置いて、また一頭。
最後に、最も低い悲鳴が重なった。
どの馬も、何かに襲われているように聞こえた。
「確認が必要です」
ニールは言った。
シャルロットはすぐには答えなかった。
深い紫の瞳が、扉の目の高さにある覗き窓へ向く。
覗き窓は霜で白く曇り、中央だけがわずかに透けていた。
開閉はできない。中から扉の正面だけを確認するためのものだ。
「返事をしなければ、下段より先には進まない可能性があります」
「それは可能性です」
シャルロットが静かに遮る。
「安全だとは分かっていません」
「はい」
ニールは口を閉じた。
外に負傷者がいるかもしれない。
馬が襲われているかもしれない。
確かめずに朝を待てば、救える命を失う。
だが、外を見ることで何かが起きる可能性もある。
正しい手順は、もう存在しなかった。
シャルロットがクランを見る。
「下段は?」
「長椅子で止まっています」
「中央と上段は」
「動いていません」
シャルロットは一度だけ目を伏せた。
再び開いた時、ニールへ歩み寄る。
「一度だけ確認しましょう」
「はい」
「声を出さないでください。窓へ触れないこと。見えたものへ反応しないでください」
「承知しました」
「クラン」
「はい」
「彼を支えてください」
クランがニールの背後へ立った。
片手で腰帯をつかみ、もう一方を右肩の後ろへ添える。
「近づきすぎるな」
「分かりました」
覗き窓は、ニールの目の高さにある。
扉まで一歩。
霜の周囲には白い筋が広がり、指二本分ほどの見える箇所だけが残っていた。
ニールは顔を近づける。
初めは、横向きに流れる雪しか見えなかった。
覗き窓から見えるのは、扉の正面数歩分だけだ。
それより遠くは、白い風に消えている。
その狭い範囲に、誰かが立っていた。
詰所から三歩ほど離れた場所。
暗い人影が、顔を伏せている。
肩には雪が積もっていた。
ニールは声を出さない。
人影が、ゆっくり顔を上げた。
外に立っていたのは──ニールだった。
まだ若さの残る顔。
眉。
鼻筋。
厚手の外套。
留め具についた傷まで同じだった。
外のニールは、瞬きをしない。
泣いていた。
だが涙は頬へ落ちなかった。
両目から溢れた雫は、皮膚を逆さに這い、額へ向かって流れていた。
違う。
人間ではない。
自分ではない。
口に出してはいけない。
分かっていた。
それでも、声が漏れた。
「俺……なのか」
かちん。
中央の閂が動いた。
クランがニールを覗き窓から引き離す。
二歩。
三歩。
ニールの踵が床板へ当たった時、シャルロットはすでに中央の閂へ手をかけていた。
胸の高さにある鉄棒が、受け金から半分ほど抜けている。
シャルロットが両手で押し戻す。
鉄は奥へ入った。
手を離す。
また、同じ位置まで滑り出す。
「中央も戻りません」
ニールは震える声で報告した。
「俺が……口にした直後です」
「見ただけじゃない」
クランが中央の閂を押さえながら言った。
「少なくとも、動いたのはお前が口にした直後だ」
シャルロットは覗き窓へ自分の外套を掛けた。
「以後、外を見ません」
横壁の物置棚を、クランとともに扉へ寄せる。
背の高い棚を傾け、上端を中央の閂へ押し当てた。脚は床板の継ぎ目へ噛ませる。
「名前も役職も口にしないでください」
シャルロットは言った。
「見えても、誰だと言わないこと」
ニールは頷いた。
返事をした後、下段。
あの顔を自分だと口にした後、中央。
なら、三本目は――。
「ニール」
扉の外からクランの声がした。
ニールの全身が強張る。
室内のクランは、中央の棚を押さえている。
外の声は、低さも、短さも、同じだった。
「近づくな」
先ほどクランが口にした言葉だった。
続いてシャルロットの声がする。
「返事をしないでください」
室内のシャルロットが、わずかに目を細めた。
「中央は動いていません」
今度は、ニール自身の声。
「承知しました」
シャルロット。
「ニール」
クラン。
「こちらを見てください」
シャルロット。
室内で聞いた言葉を、三人の声でつなぎ合わせているようだった。
最初は不自然だった。
聞くたびに、つなぎ目が滑らかになっていく。
シャルロットがニールの肩へ触れる。
本物の指の重みがある。
「以後、声だけの命令には従わないでください」
「はい」
「私からの指示は、肩へ触れてから伝えます」
「承知しました」
扉の外から、同じ声が続いた。
「承知しました」
それはニールの声だった。
◇
砂時計は二度返されていた。
暖炉の薪は、残り半分。
外の声は時折止まり、忘れかけた頃に戻ってきた。
「下段を確認してください」
「騎士長」
「返事をしないでください」
「ニール」
室内で交わされた言葉を、正しい順序へ並べ直そうとしているように聞こえる。
ニールは暖炉の前へ座り、両手を膝の上に置いていた。
扉までは六歩。
下段は長椅子。
中央は背の高い棚。
上段はまだ動いていない。
「ニール」
シャルロットの声がした。
ニールは反応しなかった。
本物のシャルロットは右隣にいる。
肩へ触れられていない。
「扉を開ける準備をしてください」
本物の命令と聞き分けられない響きだった。
穏やかで、明瞭で、聞き慣れた声音。
緊急時に騎士長が部下へ向ける、短い指示。
偽物だ。
ニールは分かっていた。
本物は、すぐ隣にいる。
返事をしてはならない。
肩へ触れられていない言葉へ従ってはならない。
そう決めた。
それでも、背筋が伸びた。
顎が引かれる。
命令を受けた時の姿勢を、身体が先に作った。
口が動く。
「了解しました」
言った後で、意味を理解した。
最上段の閂が滑った。
頭上から、鉄が受け金を擦る長い音が降ってくる。
ニールは立ち上がっていた。
立とうと思った覚えはない。
右足が一歩、扉へ出る。
「どうして……身体が――」
右足がさらに進む。
左足は後ろへ下がろうとした。
左右の脚が別々の意思を持ち、脚の付け根が引き裂かれるように痛んだ。
ニールの右腕が持ち上がる。
頭上の閂へ向かって、迷いなく伸びる。
右腕だけが、ニールの意思を聞かなかった。
「ニール」
シャルロットが左肩へ触れてから言う。
「止まってください」
──止まりたい。
ニールはそう思った。
左足は床を踏ん張った。
右足は扉へ近づく。
右腕は上段へ伸びる。
左手は右手首をつかんだ。
自分の身体が、自分より正確に扉の位置を知っていた。
「右腕と右足です」
ニールは歯を食いしばった。
「左手は動きます。声も出せます。剣には……手が伸びません」
少なくとも今、右手は剣にも仲間にも向かわない。
扉を開けるための動きだけを繰り返していた。
「説明は後です。扉から離れてください」
シャルロットの声は乱れなかった。
「はい――」
返事をしながら、後退しようとする。
右足は前へ。
左足は後ろへ。
身体が斜めにねじれる。
クランが横から踏み込み、ニールの右腕を両手でつかんだ。
閂へ伸びる腕を下へ引く。
肩が軋んだ。
それでも右手は上がり続ける。
「上も動いた」
クランの声。
最上段の鉄棒は、すでに受け金の端まで滑っていた。
シャルロットが両手で押し戻す。
奥までは入らない。
彼女が手を離せば、また外れようとする。
下段と中央は家具に支えられ、上段はあとわずかで受け金を外れるところまで来ていた。
それでも、扉そのものはまだ閉じている。
「俺が……扉を開けろという指示に、答えてしまったからです」
ニールは言った。
クランは答えなかった。
腕を押さえる力だけが強くなる。
「助けると言っただろう」
扉の外から、ニールの声がした。
木板の向こうではない。
右肩のすぐそばで囁かれたように近い。
「返事をした」
右腕が上がる。
「見つけた」
指先が最上段の閂へ触れる。
「俺だと分かった」
親指が鉄棒の下へ入り込む。
「開けると答えた」
右手が閂を握った。
クランが腕を引く。
ニールの肩に鋭い痛みが走った。
「約束を守れ」
扉の外で、ニール自身の声が泣いている。
「騎士だろう」
少女は本当にいたのかもしれない。
あの何かが、実在する遭難者の声を使っただけかもしれない。
巡察騎士も、外で凍えているかもしれない。
扉の外の声が嘘をついているからといって、すべてが嘘だとは限らない。
騎士は、人を守る。
助けを求める声へ応える。
ニールが信じてきた正しさが、右手を閂へ絡みつかせていた。
シャルロットが聖剣の柄へ手をかけた。
銀色の刃が、静かに鞘から抜かれる。
一切の無駄はなかった。
剣身が、ニールの右腕と閂の間へ差し入れられる。
光を見るより先に、変化を感じた。
骨の内側へ流れ込んでいた冷たさが、一瞬だけ薄くなった。
右手の小指が動く。
自分の意思で。
「今です」
ニールは小指を閂から剥がした。
次に薬指。
中指。
人差し指。
外の声が遠ざかる。
「助けると言った」
まだ消えない。
それでも、冷たさが薄れ、指を一本ずつ動かせるようになった。
最後の親指を外す。
右腕を胸元まで引き戻す。
「下がれ」
クランが言った。
二人で一歩下がる。
二歩。
三歩目で、聖剣の光が揺れた。
冷たさが右肩から一気に戻ってくる。
腕が跳ねた。
クランの靴底が床を滑る。
右手が再び閂へ伸びる。
先ほどより速い。
「完全には止まっていません」
シャルロットが剣を支える手に力を込めた。
光が細くなる。
彼女の呼吸が一度だけ乱れた。
「長くは保ちません」
「夜明けまで、どれくらいですか」
ニールは尋ねた。
命令を求めたのではない。
耐える時間を知りたかった。
シャルロットが天井近くの煙抜きを見る。
そこにはまだ、夜の暗さしかない。
「一刻ほどです」
一刻。
この力に耐えるには長すぎる。
そして人を吹雪の中で死なせるには、十分な時間だった。
「ニール」
外の声が言う。
「ここにいる」
少女の声。
「足が動かない」
巡察騎士の声。
「扉を開ける準備をしてください」
シャルロットの声。
「騎士だろう」
自分の声。
シャルロットがニールの左肩へ触れる。
本物の手。
暖かさがある。
「扉は開けません」
穏やかな声だった。
「外に本当の遭難者がいる可能性は、否定しません。ですがその判断の責任は、私が負います」
深い紫色の瞳は、扉から逸れていない。
迷いがないようには見えなかった。
それでも判断を変えないのだと、少なくともニールには思えた。
「きっと、私の命令に従うだけでは、貴方のその手は止まりません」
聖剣の光が弱くなる。
「ニール。貴方の意思で、その手を止めてください」
右腕が前へ引かれた。
クランの靴が再び滑る。
腕を押さえる指が白くなっている。
「腕は押さえる」
クランが短く息を吐いた。
「決めろ、ニール」
外にいるのが何なのか、分からない。
少女かもしれない。
騎士かもしれない。
誰もいないのかもしれない。
答えがないまま、決めなければならない。
正しい手順はない。
命令を待つこともできない。
ニールは左手で右手首をつかんだ。
爪が皮膚へ食い込む。
「外にいるのが……誰かは、分かりません」
声が震えた。
扉の外から、同じ声が真似をする。
「誰かは、分かりません」
「本当に……助けを求めている人が、いるのかもしれない」
「いるのかもしれない」
少女の声が泣く。
男の声が救助を求める。
自分の声が責める。
ニールは右足を後ろへ引こうとした。
足は前へ出ようとする。
膝を床へ落とした。
骨へ痛みが走る。
立てなければ、扉まで歩けない。
「でも」
左手に力を込める。
右手の親指を、掌へ押し込む。
手を開けば、閂をつかめる。
拳を作れば、つかめない。
「ここにいる二人は、分かる」
右腕を押さえるクラン。
聖剣を支えるシャルロット。
今、この場所にいる。
「俺は――」
右手の指が開こうとする。
左手で押し戻す。
「ここを開けません」
何も消えなかった。
右腕も、外の声も止まらない。
それでもニールは、握った右手を開かなかった。
「クランさん」
「ああ」
「離さないでください」
「離さない」
「騎士長」
シャルロットが肩へ触れる。
「はい」
「夜明けまで……あと一刻ですね」
「そうです」
「分かりました」
ニールは右手を握り込んだ。
三人で、夜が終わるのを待った。
◇
クランの足が一度滑った。
ニールの指先が、上段の閂へ触れた。
シャルロットが聖剣を差し入れる。
冷たさが薄れる。
ニールは指を一本ずつ掌へ戻す。
下段を支える長椅子がずれた。
クランが片足を伸ばし、椅子の脚を床板の継ぎ目へ押し戻す。
中央の棚が軋んだ。
シャルロットは聖剣を片手で支えたまま、空いた肩を棚へ押し当てた。
三人は、扉の前で折り重なるような姿勢になっていた。
外の声は何度も変わった。
「寒い」
「痛い」
「命令です」
「助けろ」
「開けて」
「騎士だろう」
ニールは途中から、言葉の意味を聞かないようにした。
クランの荒くなった呼吸。
肩へ触れるシャルロットの手。
背後の暖炉の熱。
膝へ食い込む床板。
今ここにあるものだけを意識した。
外から馬の悲鳴がした。
右腕が強く引かれる。
馬が本当に襲われているかもしれない。
それでも開けない。
少女の声が咳き込む。
声が少しずつ弱くなっていく。
本当に死にかけているのかもしれない。
それでも開けない。
「直ちに扉を開けてください」
騎士長の声。
ニールの口が返事を作ろうとする。
歯を食いしばる。
声を出さない。
不意に、外の声がすべて止んだ。
静かだった。
吹雪だけが石壁を擦っている。
泣き声も、命令も、爪の音もない。
声がしていた時より、恐ろしかった。
何かが扉のすぐ向こうで、こちらが気を緩めるのを待っているように思えた。
「お兄ちゃん」
少女の声がした。
扉の向こうからのはずなのに、胸の内側で響いたように聞こえた。
「開けてくれないの」
右腕が跳ねる。
クランが引く。
シャルロットの聖剣が淡く光る。
「私、本当にいたのに」
ニールの喉が震えた。
返事はしない。
「お母さんもいたよ」
扉の向こうで、小さな身体が倒れたような音がした。
「もう、動かない」
胸が締めつけられる。
自分が殺したのかもしれない。
扉を開けなかったから。
正体を確かめることから逃げたから。
シャルロットが肩へ触れた。
「ニール」
ニールは彼女を見る。
銀髪の一部が頬へ張りつき、額には汗が浮いている。
それでも、聖剣を握る手は離れていなかった。
「私たちがここにいます」
大丈夫だとは言わなかった。
外が偽物だとも断言しなかった。
ただ、今ここにある事実だけを伝えた。
ニールは頷く。
「はい」
天井近くの煙抜きが、わずかに白み始めた。
まだ、外を確かめる理由にはならない。
声が消えただけで扉を開けるわけにはいかなかった。
少女の声が、もう一度だけ囁く。
「聞こえてるよ」
その声へ押し出されるように、右腕が閂へ伸びた。
クランの両腕が震える。
聖剣の淡い光は、今にも消えそうだった。
天井近くの煙抜きから、灰色の光が差し込んだ。
朝日の色にはまだ遠い。それでも、夜とは違う光だった。
光が最上段の閂へ触れた瞬間、ニールの右腕から力が抜けた。
骨の内側へ流れ込んでいた冷たさが消える。
扉へ引かれていた身体が後ろへ倒れ、クランの胸へぶつかった。
クランはよろめきながらも、ニールの腕を離さなかった。
外の声も止んでいた。
少女の泣き声。
負傷した騎士の救助要請。
騎士長の命令。
自分自身の声。
すべてが、初めから存在しなかったように消えている。
シャルロットは聖剣の切っ先を床へ下ろした。
呼吸を整えてから、ニールの肩へ触れる。
「まだ開けません。半刻、待ちます」
「はい」
ニールは床へ座り込んだ。
右手が熱を持って痛んでいる。
爪の間から血がにじみ、細かな木屑が入り込んでいた。
いつ右手を傷つけたのか、覚えていない。
クランが差し出した布を受け取り、右手へ巻く。
「すみません」
「気にするな」
クランはそれだけ答えると、三本の閂を順に確認した。
上段。
中央。
下段。
どれも完全には元の位置へ戻っていない。
しかし、もう勝手に動き出すことはなかった。
砂時計を返しても、外から声はしなかった。
ニールの右腕も動かない。
煙抜きから入る光が、少しずつ白さを増していく。
砂が落ちきった。
シャルロットは二人の前へ立つと、まず開いた掌を見せた。
その場で止まれ。
続いて、二本の指を自分の目へ向ける。
周囲を確かめろ。
ニールとクランはその場から動かず、扉、閂、暖炉、互いの様子を順に確認した。
外からの声はない。
閂も動かない。
ニールの右腕にも異常はなかった。
シャルロットは二人の肩へ順に触れた。
「開けます」
「承知しました」
三人は扉を支えていた棚と長椅子をどけた。
ニールは扉から三歩下がる。
クランが中央と下段の閂へ手を添え、シャルロットが上段を外した。
鉄棒は重かった。
ただ、それだけだった。
中央。
下段。
三本とも、今度は人の手で動かす鉄の重さしかなかった。
シャルロットが、内側へ木扉をわずかに引く。
白い風が隙間から吹き込み、床へ雪を散らした。
誰もいない。
扉を半分まで開いても、外から何かが飛び込んでくることはなかった。
雪原には朝の光が広がっている。
人影はなかった。
少女が歩いてきた跡もない。
負傷した騎士が倒れていた跡もない。
覗き窓の前に立っていた、ニール自身の足跡もなかった。
吹雪に消された可能性はある。
だが、張り出した屋根に守られた扉のすぐ前には、薄い雪が崩れず残っていた。
そこにも、誰かが立った跡はない。
クランが先に敷居を越え、周囲を確認する。
ニールも布を巻いた右手を庇いながら外へ出た。
朝の冷気が、汗に濡れた額を刺す。
三頭の馬は、外壁に沿って張り出した屋根の下にいた。
互いに身体を寄せ合い、落ち着かない様子で鼻を鳴らしている。
それでも目立った傷はなく、綱も柱も屋根も壊れていなかった。
夜中に聞いた悲鳴が、本当にこの馬たちのものだったのか。
確かめる術はなかった。
クランは馬へ向かう前に、扉の外側に手を触れた。
爪で削られた傷はない。
拳で叩かれた跡もない。
扉の下の隙間にも、血や皮膚、水の跡さえ残っていなかった。
外側には、何もなかった。
ニールは布を巻いた右手を見下ろした。
爪の間には、まだ木屑がある。
「昨夜のあれは……結局、何だったんでしょう」
答えを期待したわけではなかった。
呼び方すら分からないものを、そのままにしておくのが怖かっただけかもしれない。
クランは雪原へ目を向けたまま、短く答えた。
「……分からない。魔物とも限らない」
シャルロットは敷居の内側から、足跡一つない雪を見つめていた。
「戻り次第、調査隊を派遣します」
静かな声だった。
「入口には警告を残し、この詰所はそれまで閉鎖しましょう」
「承知しました」
クランは携行袋から赤い布を取り出し、入口脇の金具へ結びつけた。
それは危険のため立ち入るなという共通の印だった。
それから、クランは馬の確認へ向かった。
ニールも二歩ほど進んだところで、シャルロットが続いてこないことに気づいた。
振り返る。
シャルロットはまだ室内に残っていた。
暖炉の残り火へ灰をかぶせ、火が消えたことを確かめる。
壁際の寝台と物置棚、外套を掛けていた木枠へ目を向け、忘れ物がないことを確認した。
最後に三本の閂と木扉を見回し、扉へ手をかける。
外へ踏み出そうとし──その足が止まった。
「騎士長?」
返事はなかった。
深い紫色の瞳が、開いた扉の内側へ向けられている。
ニールも、その視線を追った。
朝日が、内側へ開いた扉の面を斜めに照らしていた。
昨夜は煤と家具の影に沈み、暖炉の光が届かなかった場所だ。
明るくなった木目の上に、無数の傷が浮かび上がっている。
ニールの右手が届く高さには、丁度まだ血の色が残る新しい五本の筋があった。
布の下で、右手の爪が痛んだ。
その五本を取り囲むように、黒ずんだ古い傷が何十本も重なっている。
大人の指ほど間隔の広いもの。
子どもの爪ほど細いもの。
木を浅く擦った跡。
同じ場所を何度も掻き、爪が剥がれるほど深く抉った溝。
どの傷も、扉の中央から三本の閂へ向かって伸びていた。
爪痕は、すべて扉の内側についていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
最初の怪異記録は、声と扉の話でした。
あなたがあの詰所にいたなら、扉を開けたでしょうか。
よろしければ、ご感想を聞かせていただけるとうれしいです。
次の記録に、扉はありません。
あるのは、夜勤室の机と、一冊の報告書だけです。
その報告書には、まだ誰も経験していない夜が、すでに書き終えられていました。




