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A  作者: コンティ
8/11

第二観測

 その夜、榊恒一はなかなか眠れなかった。


 土曜日の午後。

 雨宮澪と会って、話して、また会う約束をした。

 それだけのことなのに、心の内側は妙に騒がしかった。


 あの再会は、劇的な何かではなかった。

 告白の返事が出たわけでも、突然距離が縮まったわけでもない。

 けれど、“何もなかったこと”にはならなかった。


 それが今の恒一には、十分すぎるほど大きかった。


 ベッドに仰向けになり、天井を見つめる。

 薄暗い部屋。

 聞こえるのは冷蔵庫の低い駆動音と、外を通る車のかすかな走行音だけ。


 静かなはずなのに、頭の中だけがうるさい。


 現実の澪。

 観測した未来の澪。

 高校時代の澪。


 それぞれがまだ完全には整理しきれていない。

 でも不思議と、前みたいな“どうしようもない後悔”だけではなくなっていた。


 たぶん今日、自分は一つだけ違うことをしたのだ。


 逃げなかった。

 少なくとも、完全には。


 言葉を飲み込まず、また会いたいと口にした。

 それがどこへ繋がるのかは分からない。

 でも、分からないまま進むこと自体が、今の自分には新しかった。


 その時だった。


 机の上で、かすかな音がした。


 かさり。


 紙が擦れるような、小さな音。


 恒一はゆっくりと身体を起こす。

 心臓が、嫌な意味で慣れた速さを取り戻していく。


 視線を向ける。


 机の上に置いていた白紙が、わずかに揺れていた。


「……まじかよ」


 呟きは、半分諦めに近かった。


 もう来ないかもしれないと思っていた。

 あるいは、来るとしてももっと先だと勝手に思っていた。

 だが現実は、そんな都合よく間を空けてはくれないらしい。


 白紙の表面に、じわじわと文字が浮かび上がってくる。


 『第二観測を開始しますか?』


 その下に、さらに新しい文字。


 『分岐候補:夢を諦めなかった未来』


 喉が詰まる。


 恋愛の後悔だけじゃない。

 この白紙は、自分の中に沈んでいる別の“もしも”も知っている。


 夢。


 その言葉だけで、胸の奥が鈍く痛んだ。


 高校の頃。

 大学の頃。

 自分には、小説を書いてみたい時期があった。


 別に天才だと思っていたわけじゃない。

 何かの賞を取れる確信があったわけでもない。

 ただ、物語を考えるのが好きだった。

 頭の中で誰かを生きさせて、言葉にして、世界を作ることに、たしかに心が動いていた。


 でも諦めた。


 才能がある人間はもっと早くから書いているだろうとか。

 自分の文章なんて大したことないとか。

 就活もあるし、仕事もあるし、そんなものに本気になる年齢じゃないとか。

 理由はいくらでも並べられた。


 けれど結局、恋愛の時と同じだ。


 失敗する前に、自分で終わらせた。


「……見るな、こんなの」


 口ではそう言いながら、視線は紙から外れない。


 第一観測で思い知ったはずだ。

 これは救いじゃない。

 都合のいい答え合わせでもない。

 知ってしまえば、もっと苦しくなる可能性の方が高い。


 それでも人は、“もしも”を前にすると弱い。


 あの時、諦めなければ。

 書き続けていれば。

 何か一つでも完成させていれば。

 今の自分は、どこまで辿り着けたのだろう。


 紙の文字が、ゆっくりと変わる。


 『観測を見送りますか?』


 まるで試されているみたいだった。


 見ないという選択肢もある。

 ここで終わることもできる。

 過去の分岐を覗くことより、現実の澪との約束を大事にするべきだと言われれば、それはきっと正しい。


 だが、恒一はすぐには頷けなかった。


 なぜなら、澪のことだけじゃないからだ。

 自分の人生に残っている後悔は、ひとつではない。


 好きだった人に何も言えなかったこと。

 夢を才能のせいにして捨てたこと。

 自分の人生の舵を、自分で握らなかったこと。


 その根っこは全部、同じなのかもしれない。


 怖くて踏み出さなかった。

 ただ、それだけ。


 恒一は白紙へ手を伸ばした。


 指先が触れた瞬間、文字が変わる。


 『第二観測、承認』


 『観測対象:榊 恒一』


 『第二分岐:夢を諦めなかった未来』


 『観測を開始します』


「っ――」


 世界が反転した。


     ◇


 最初に聞こえたのは、キーボードを叩く音だった。


 カタカタ、という規則的な打鍵音。

 静かな部屋の中に、それだけが妙に鮮明に響いている。


 次に感じたのは、肩の重さと、目の奥の乾き。

 長時間同じ姿勢でいた時の、あの独特な疲労感だ。


 恒一はゆっくりと目を開ける。


 そこは、自分の部屋ではなかった。


 ワンルーム。

 狭い。

 けれど今の部屋よりずっと生活感が濃い。


 床には本とコピー用紙が散らばり、机の上にはノートパソコン、赤字だらけの原稿、コンビニのコーヒーカップが二つ、三つ。

 壁際の棚には小説や創作論の本が並んでいて、付箋があちこちから飛び出している。

 カーテンは閉めきられ、部屋の空気は少しこもっていた。


「……なんだ、ここ」


 そう呟いた瞬間、自分の喉が少し掠れていることに気づく。


 視線を落とす。

 Tシャツにスウェット。

 手の甲にはうっすらとインクの跡。

 机の上のキーボードに置かれた手は、少しだけ痩せて見えた。


 ノートパソコンの画面には、開きっぱなしの文書ファイル。


 タイトル欄にはこうあった。


 『第一章 分岐点観測者』


「……は?」


 息が止まる。


 スクロールバーはかなり下にある。

 相当な分量が書かれているらしい。

 しかもタイトルに、妙な既視感がある。


 分岐点観測者。

 今の自分がまさに巻き込まれている現象を、そのまま物語にしたみたいな題だ。


 いや、そんなはずはない。

 これはただの偶然――だと、もう簡単には思えなかった。


 視界の端に白い文字が浮かぶ。


 『観測時間:残り 03:11:42』


 第一観測より長い。


「三時間……」


 呟きながら、恒一は立ち上がる。


 足元で紙がくしゃりと鳴った。

 拾い上げると、プリントアウトされた投稿サイトの管理画面だった。


 そこには、作品名とともに数字が並んでいる。


 ブックマーク数。

 感想件数。

 評価ポイント。

 ランキング順位。


「……嘘だろ」


 声が漏れる。


 詳しい相場は分からない。

 それでも、その数字が“趣味で細々と書いている”レベルを越えていることくらいは分かった。

 少なくともこの未来の自分は、途中で諦めていない。

 何作も書いて、削って、投稿して、誰かに読まれるところまで辿り着いている。


 成功、という言葉を軽々しく使っていいのかは分からない。

 だが間違いなく、現実の自分よりはずっと先まで進んでいた。


「……書いたのか、俺」


 胸の奥が熱くなる。


 言い訳しなかった未来。

 自分には才能がないと決めつける前に、ちゃんと書き続けた未来。

 形にして、世に出して、誰かの目に触れるところまで行った未来。


 それだけで、ひどく眩しかった。


 その時、スマホが机の上で震えた。


 反射的に視線を向ける。


 画面には通知が並んでいる。

 編集者らしき相手からのメッセージ。

 投稿サイトの感想通知。

 SNSのメンション。

 そして、ひとつだけ別の名前。


 母


 短いメッセージが表示されていた。


『最近全然電話くれないけど元気?』


 その一文が、妙に刺さる。


 夢を諦めなかった未来。

 それは、ただ輝いているだけの未来ではないのかもしれない。

 第一観測の時と同じように、その予感はすでにあった。


     ◇


 机の横に掛けられた鏡を見る。


 映っていたのは、たしかに自分だった。

 二十九歳の榊恒一。

 だが今の自分より少し頬がこけていて、目元には濃い疲れがある。

 それでも、顔つきそのものはどこか鋭かった。


 生活は整っていない。

 たぶん健康的とも言いがたい。

 けれど、“何もしていない人間”の顔ではない。


 削ってきた人間の顔だと思った。


 机の上を探ると、メモ帳が見つかる。

 そこには走り書きで予定が並んでいた。


 打ち合わせ。

 改稿締切。

 短編応募。

 新人賞最終結果。

 配信企画。


 想像していたよりずっと現実的で、具体的で、忙しい。

 “作家っぽいふわふわした夢の世界”ではない。

 締切と数字と、評価と焦りに追われる生活の匂いがした。


「……こんな感じなのか」


 嬉しさと同時に、少しだけ怖くなる。


 夢を追う未来というと、もっと象徴的で、きらきらした何かを勝手に想像していた。

 だが目の前にあるのは、泥くさい現実だった。


 書きたい時だけ書くのではなく、書けない時にも机に向かう現実。

 読まれる喜びと、数字に一喜一憂する現実。

 好きだけでは続かないことを、それでも続ける現実。


 そこへ、またスマホが震えた。


 今度は編集者からだった。


『修正版、今夜中にいけますか?』

『今のままだと三章後半の弱さが気になります』

『榊さんならもっといけると思っています』


 胸がざわつく。


 褒められているようで、同時に追い込まれてもいる文面。

 期待と圧力が同時に乗っている。


 今の自分なら、たぶんそこで怯む。

 でもこの未来の自分は、そういうやり取りを繰り返してきたのだろう。


「……夢っていうか、普通に仕事だな」


 それが少し可笑しくて、でも切なかった。


 “夢を諦めなかった未来”は、

 “夢みたいな未来”ではなかった。


 むしろ、現実よりずっと現実的かもしれない。


 その時、部屋の隅に積まれた段ボールの上に、古いアルバムが半分だけ見えているのに気づいた。


 なんとなく手に取る。


 一枚目。

 家族写真。

 まだ父が元気だった頃のものだ。


 二枚目。

 成人式の写真。

 三枚目。

 高校の卒業アルバムの切り抜き。


 そこに、小さな付箋が貼ってあった。


 『帰れなかった年』


「……帰れなかった?」


 その言葉に引っかかりを覚えた瞬間、また胸の奥が嫌な予感で冷える。


 夢を追うということは、何かを選び、何かを削ることでもある。


 第一観測では、澪との幸福の裏に不妊という痛みがあった。

 なら、この未来にもきっとある。


 得たものの代わりに、失ったものが。


 白い文字が視界の端に浮かぶ。


 『観測補助:この分岐は「継続」の代償を含みます』


「……やっぱりな」


 小さく呟く。


 夢を諦めなかった。

 それは確かにひとつの勝利だろう。

 でも、ただ真っ直ぐ報われるだけの話じゃない。


 続けることには、代償がある。


 それでも見たいと思ってしまうのは、もうどうしようもない性分なのかもしれない。


     ◇


 机の上に戻ると、ノートパソコンの隅に小さな付箋が貼ってあるのに気づいた。


 そこには、乱暴な字で一行だけ。


 『書け。終わるまでは才能の有無を決めるな』


 それを読んだ瞬間、恒一はしばらく動けなかった。


 誰が書いたのかは分からない。

 この未来の自分かもしれないし、誰かに言われた言葉かもしれない。


 だが、その一文はあまりにも鋭く、今の自分に刺さった。


 終わる前に、自分で終わらせた。

 才能がないと決めつけた。

 評価される前に逃げた。


 それが現実の自分だ。


 けれどこの未来の自分は、少なくとも“終わるまでは決めなかった”。

 その差だけで、人生はここまで変わるのかもしれない。


 嬉しい。

 でも苦しい。


 こんな未来が本当にありえたのだとしたら、

 今の自分は何をしていたのだろう、と考えずにはいられないからだ。


 その時、突然スマホが鳴った。


 着信。

 相手は、またしても母だった。


 着信音が、妙に狭い部屋へ響く。


 恒一は画面を見つめたまま動けなかった。


 出るべきか。

 でも自分はこの未来の自分じゃない。

 何を話せばいい。

 何を知っているふりをすればいい。


 着信は一度切れた。

 ほっと息をつきかけた、その瞬間。


 すぐに留守電通知が入る。


 震える指で再生ボタンを押す。


『あんた忙しいんやろうけど、一回くらい声聞かせなさい。お父さんも最近また体調よくないし』


 そこで音声が途切れた。


 頭の中が真っ白になる。


 父。

 体調。

 また、ということは、この未来ではすでに何度もそういう局面があったのだろう。


 夢を諦めなかった未来。

 その裏側にあるのは、もしかすると家族との距離なのかもしれない。


 帰れなかった年。

 最近全然電話くれない。

 お父さんも最近また体調よくない。


 点が、線になる。


「……おい」


 思わず掠れた声が出る。


 やめてくれ、と思った。

 まだ始まったばかりだろう、と。


 でも観測は、こちらの都合で優しくはしてくれない。


 夢を続けた未来を見たければ、その代償ごと見ろ。

 そう言われている気がした。


 恒一は、ぎし、と軋む椅子に腰を落とす。


 ノートパソコンの画面には小説。

 スマホには母からの留守電。

 机の上には編集者からの催促。

 足元には散らばった原稿。


 これは、憧れた未来なのだろうか。

 それとも、別の意味で残酷な現実なのだろうか。


 たぶん、どちらもだ。


 夢を諦めなかった未来は、

 夢にしがみついた未来ではなく、

 夢を現実に変えたせいで、別の何かが零れ落ちていく未来なのかもしれない。


 視界の端で、残り時間が静かに減っていく。


 『観測時間:残り 02:46:09』


 まだ長い。

 だからこそ怖かった。


 この先、自分は何を見るのだろう。

 この未来の自分は、何を掴み、何を失ったのか。

 そして、その全部を見たあとで、現実の自分は何を選ぶのか。


 答えはまだない。


 ただ一つ分かるのは、

 第二観測もまた、憧れの確認では終わらないということだった。


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