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夜鳴坂の放課後

第1章 再会の坂道


 蝉の声が、壊れたスピーカーみたいに途切れ途切れだった。

 夏の終わりの空は、まだ熱を逃がしきれず、白く濁っている。

 俺――瀬川空せがわそらは、自転車を押しながら坂を登っていた。

 夜鳴坂(よなきざか)と呼ばれるその道は、昔からこの町の子どもたちの肝試しスポットだ。街灯が少なく、夜になると人の声が遠くで響くという。

 ……たぶん、風の音か、野良猫の鳴き声。

 でも、小学生の頃の俺たちは、それを「誰かが呼んでいる」と信じていた。


 高校の転入初日。

 久しぶりにこの坂を上ると、記憶のどこかがざらついた。

 あのときも、同じ季節だった気がする。

 坂の上には、桐谷玲きりたにれいがいる――そんな確信があった。


 玲とは幼なじみだ。小学生の頃は、三人でよく遊んでいた。もう一人、三浦真みうらまことというやつがいた。

 だけど、ある夏の日を境に、真は姿を消した。

 事故だと聞かされた。

 その日以来、玲は学校を休みがちになり、俺は親の転勤でこの町を離れた。

 十年ぶりの帰郷。

 時間が経てば、あの頃の記憶も薄れていくと思っていたのに、坂道の空気はまるで昨日のことのように重たかった。


 校門をくぐると、放課後のチャイムが鳴った。

 見知らぬ制服、見知らぬ顔。けれど、校舎の古さはあの頃のままだ。

 新しいクラスの自己紹介は簡単に済ませた。人の視線を気にする暇もなく、俺の目は自然と窓際の後ろの席に向いていた。

 ――そこに、玲がいた。


 黒髪を肩まで伸ばし、伏せた横顔は、どこか人形のようだった。

 教師が俺の名前を呼び、席を指したが、玲はこちらを見ようとしない。

 気のせいか、空気が一瞬だけ冷たくなった気がした。


 放課後。

 俺は彼女を追って坂を登った。

 夕暮れに伸びる影が、俺たちを二人分に引き裂いていくようだった。

 「……玲」

 声をかけると、彼女は足を止め、振り向いた。

 その瞳に、わずかな驚きが浮かぶ。

 けれど、次の瞬間には何事もなかったように微笑んだ。

 「……空、なの?」

 「久しぶり。今日、転校してきた」

 「うん、聞いた。……変わってないね」

 その言葉は優しいのに、どこか“距離”を感じた。


 沈む太陽が坂を赤く染める。

 その奥に、木々の隙間から何かが覗いているように見えた。

 人影……いや、ただの錯覚かもしれない。

 玲は視線を逸らしながら、小さく呟いた。

 「ねえ、あのときのこと……覚えてる?」

 「……何のこと?」

 「“約束”。」

 彼女の声は、風に混じって消えた。

 次に顔を上げたときには、玲の姿はもうなかった。

 夜鳴坂の奥から、かすかに子どもの笑い声が聞こえた気がした。



第2章 放課後の噂


 転入してから数日、俺は少しずつ学校の空気に慣れていった。

 けれど、どこか違和感があった。

 授業中でも、教室のどこかで「笑い声」が聞こえることがある。

 それはほんの一瞬、子どもの甲高い声のようで――気づくと、誰も笑っていない。


 「夜鳴坂の音って知ってる?」

 昼休み、隣の席の女子が囁くように言った。

 「放課後になるとね、坂の方から子どもの声がするの。去年も、あの辺に住んでた子が転校してったんだって」

 「どうして?」

 「……声が止まなかったから、って」

 彼女は冗談めかして笑ったが、目だけが笑っていなかった。


 放課後。

 窓から差し込む夕陽が黒板の文字を歪ませている。

 玲は相変わらず一人で席に座り、ノートに何かを書き続けていた。

 誰も彼女に話しかけようとしない。

 俺は声をかけようか迷いながら、少し離れた位置で見ていた。

 そのとき、玲の唇がかすかに動いた。

 まるで誰かと会話しているように。

 しかし、声は聞こえない。

 ただ、チョークの粉の匂いと、誰かの息づかいのような音だけが、教室の空気をかすめた。


 玲が顔を上げる。

 俺の視線に気づいたのか、軽く笑った。

 けれどその笑顔は、どこか壊れた人形のようにぎこちない。

 「……空。ねえ、夢ってさ、誰かと一緒に見るものだと思う?」

 「……どういう意味?」

 「私、最近ずっと見るの。同じ夢。夜鳴坂で、誰かが笑ってるの。

 でもね――その“笑い声”が、もう一人の私みたいで怖いの」


 沈黙が落ちる。

 俺は何も言えなかった。

 彼女が言う“もう一人”という言葉が、胸の奥で引っかかった。

 帰り道、夜鳴坂の方から、確かに笑い声のような音がした。

 風が吹き抜けただけだ、と言い聞かせながらも、足が止まらなかった。


 ――子どもの頃、あの坂で、何を埋めたんだっけ。

 思い出そうとしても、頭の中が真っ白になった。

 なのに、手のひらの感触だけがはっきりしていた。

 湿った土と、冷たい金属の感触。

 そして、誰かの小さな手を、確かに握っていた記憶。



第3章 掘り返された箱


 夜鳴坂の入り口には、昔から立て札がある。

 「夜間立入禁止」――白いペンキの文字が、年月でかすれていた。

 風が抜けるたび、木々が擦れあって、低い唸り声を上げる。

 まるで坂そのものが、何かを訴えているようだった。


 俺はその夜、家を抜け出した。

 理由は分からない。ただ、玲の言葉が頭から離れなかった。

 “夜鳴坂で、誰かが笑ってる”

 確かめなければならない気がした。

 懐中電灯を向けると、坂の途中に小さな影が動いた。

 人影のようでいて、どこか形が定まらない。


 足を進める。

 草の匂いと、湿った土の感触。

 あの夏の日と同じ匂いがした。

 坂の中ほど――、地面が少し盛り上がっている場所に気づいた。

 そこには、掘り返された跡があった。

 土が新しく、表面はまだ柔らかい。

 俺はしゃがみ込み、手で少し土を払った。


 出てきたのは、錆びた缶だった。

 指先でふたを外すと、中から古びた紙片が現れた。

 子どもの字でこう書かれていた。

 『うそをついたら、みんなでここに戻る』


 息が詰まる。

 その文字を見た瞬間、記憶の底から声が浮かび上がる。

 ――“空くん、埋めよう。真くんには内緒ね。”

 玲の声。

 そして、誰かの笑い声。

 頭の中で音が交錯する。

 目の前の坂道がゆっくりと歪んだ。


 ふと気づくと、懐中電灯が消えていた。

 代わりに、闇の中で“チリ…”という音が聞こえる。

 それは、紙が焦げるような、あるいは呼吸のような音。

 足元の土がわずかに動いた。

 光をつけ直そうとポケットを探る――

 だが、懐中電灯は最初から持っていなかった。


 気づくと、夜鳴坂は昼のように明るかった。

 空は鈍色で、木々は赤く染まり、影はなかった。

 遠くに人影が見える。

 それは、玲だった。

 白いワンピースの裾が、風に揺れている。

 彼女はこちらに背を向け、何かを掘っている。

 「玲!」と叫ぶが、声が空気に溶けて届かない。

 耳鳴りがした。笑い声が混じる。

 それは、あの日の声――真の笑い声。


 視界が滲む。

 玲が振り向いた。

 その顔は、確かに玲だった。

 けれど、口元から赤黒い泥が垂れ、両目は焦点を失っていた。

 「……約束、したよね?」

 その瞬間、世界がひっくり返った。


 気づくと、自分の部屋のベッドの上にいた。

 汗で全身が濡れている。

 夢……だったのか?

 だが、手のひらには湿った土がこびりついていた。



第4章 過去との邂逅


 夜が深くなるたび、時間の感覚が薄れていく。

 玲はベッドの上で目を開けたまま、時計の音を数えていた。

 ――でも、その針は、もう動いていなかった。

 壁にかけたカレンダーは去年のままで、今日が何月何日なのか分からない。


 窓の外から、風に混じって声がする。

 “あそぼうよ”

 子どもの声。懐かしい響き。

 玲はゆっくりと立ち上がり、窓を開けた。

 冷たい空気が頬を撫で、部屋の中の空気が一瞬で変わった。

 風とともに、夏の匂いがした。

 夜鳴坂の土の匂い。湿った草の匂い。

 ――どうして、今、それを感じるの?


 気づくと、制服を着て学校の廊下に立っていた。

 夕焼けの色が窓を染め、誰もいない教室が並んでいる。

 廊下の奥に、人影が見えた。

 真。

 笑っている。

 「……真?」

 声を出すと、彼は首を傾げた。

 まるで玲を知らない子どものように。

 「約束、覚えてる?」

 その声が重なった。彼の声と、自分の声が。

 どちらが話しているのか分からない。


 床が軋む。窓ガラスの向こうでは、空が黒く渦巻いていた。

 目を閉じた瞬間、景色が反転した。

 そこは夜鳴坂。

 手の中には小さなスコップ。

 土の中には、小さな缶。

 ――“真くんには内緒ね”

 幼い自分が笑っている。

 隣には、もう一人の“玲”がいた。

 同じ顔。同じ声。

 でも、その目だけが違っていた。

 冷たく、深く、底の見えない目。


 「あなた、誰?」

 “玲だよ。……もう一人の、ね。”

 「どうしてここにいるの?」

 “あなたが閉じ込めたから。”

 その声は風の中に溶け、土の音に変わった。

 掘り返された缶の中から、紙片がひらりと舞う。

 『ずっといっしょにいよう。』

 “うそをついたら、ゆるさない。”


 世界が静止した。

 音が消え、空気が止まる。

 その中で、玲は初めて理解した。

 真を置いて逃げたのは自分。

 そして、それを「なかったこと」にしたのも自分。

 もう一人の“玲”は、消された記憶の形だった。


 涙がこぼれた。

 その涙が地面に落ちた瞬間、景色が音を立てて崩れた。

 真の姿も、もう一人の自分も、光に溶けていく。

 最後に残ったのは、夏の匂いと、誰かの笑い声だけだった。



第5章 赦しの夜明け


 朝の光が差し込む教室は、まるで別の場所のように静かだった。

 昨夜の雨のせいか、床に湿気が残っている。

 窓を開けると、風がカーテンをゆらした。

 その瞬間、ほんのかすかな匂いがした。

 ――夜鳴坂の土の匂い。


 空はゆっくりと歩き、玲の席に目を向けた。

 机の上にはノートが一冊置かれている。

 表紙には、鉛筆で何度も消された跡があり、最後に残った文字は“キリタニ レイ”。

 ノートを開くと、そこにはびっしりと文字が並んでいた。

 だが、どのページも同じ言葉で埋め尽くされている。

 『わたしはここにいる』

 『わたしはここにいる』

 『わたしは――』


 ページの最後、インクが滲んで読めない場所に、小さく書かれていた。

 『空くん、ごめんね。』


 胸の奥がきゅっと痛んだ。

 昨夜の記憶は曖昧だ。

 坂を登り、何かを掘り返して、玲の名を呼んだ。

 ――そこから先が思い出せない。

 ただ、誰かの涙の音だけを覚えている。


 廊下の向こうで、足音がした。

 顔を上げると、そこに玲が立っていた。

 制服は同じ。髪も同じ長さ。

 けれど、その瞳はまるで別人のように澄んでいた。

 「……桐谷、だよな?」

 声をかけると、彼女は軽く首を傾げた。

 「えっと……どなたですか?」


 笑顔は柔らかく、穏やかだった。

 まるで、あの夜のすべてが幻だったかのように。

 胸が締めつけられる。

 けれど、不思議と悲しくはなかった。

 彼女が“生きている”――ただ、それだけで十分だった。


 玲はふと窓の外を見た。

 朝日が坂の上を照らしている。

 「この町、静かですね。前にも来たことがあるような……気がします。」

 その言葉に、空は小さく頷いた。

 「そうかもな。」


 彼女は微笑んで教室を出ていった。

 残された空気の中で、チョークが転がる音がした。

 黒板を見ると、そこには文字が一行だけ書かれていた。


 『ありがとう』


 誰の字か分からない。

 けれど、その筆跡を見た瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 外では、朝の光が校庭を包み、蝉の声が戻り始めていた。


 空はそっと窓を閉めた。

 そのとき、机の隙間から小さな紙片が落ちた。

 拾い上げると、そこには子どもの字でこう書かれていた。


 『うそをついたら、また会おうね。』


 彼は微笑みながら、紙をポケットにしまった。

 ――坂の上で、風が吹いた。

 それはまるで、誰かが笑ったような音だった。





静かなホラーを書きたくて生まれた作品です。

「怖い」と「哀しい」は、案外、同じ場所から生まれるのかもしれません。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

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