父の会社の存続の為に政略結婚で嫁がされた家で彼女を待っていたのは・・・
――サヤカ視点・高校三年生、夏
夏の夕暮れは、どこか寂しげな匂いがする。
蝉の声が遠くで続いているのに、私の胸の中はひたすら静かだった。
三者面談の帰り道、父の表情がどこか強張っているのに気づいていた。
そしてその夜――珍しく、リビングに家族全員が呼び出された。
「……会社が、厳しい。もってあと数ヶ月だ」
その言葉に、母は言葉を失った。
私も、一瞬何を言われたのか理解できなかった。
高校三年生の夏。
進路希望調査の提出を控えていて、私は美術系の私立大学を目指していた。
将来の夢は、インテリアデザイナー。ずっと憧れてきた道だった。
だけど父の一言が、その未来をあっけなく塗りつぶした。
「銀行も厳しい。資金繰りも限界で……ただ、一つだけ、道がある」
父は深く息を吐き、目を伏せながら言った。
「取引先のケンズ工業って会社があってな。そこの専務に――お前との縁談の話が来ている」
時間が止まった。
「……え?」
「見合いだ。うまくいけば、うちは助かる。相手は若い男だ。仕事もできるらしい。生活に困ることはないはずだ」
母が「そんな……」と低く声を漏らす。
でも父は、母を見ずに私の目をまっすぐに見て言った。
「……サヤカ。お前だけが頼りなんだ」
泣かなかった。
泣いても、何も変わらないと、身体のどこかが冷静に理解していた。
数日後、写真を見せられた。
そこに写っていたのは、きちんとしたスーツを着た男性。正直微妙な顔立ちではあるけれど、悪人顔ではなかった。
10歳くらい年上かと思ったけれど、実際には5歳上。
それが――“ケンズ工業の専務”、つまり、見合い相手。
「顔は悪くないでしょ?」と母が言った。
でも、心はまったく動かなかった。
【これは恋じゃない。
これは“譲渡”。
私は担保として差し出されるだけ。】
見合いの日。
制服のまま、親に連れられて料亭へと足を運んだ。
彼の名はヤマト。
落ち着いた物腰で、静かに座っていた。
無理に馴れ馴れしく話しかけることもなく、きちんと敬語で会話を交わす。
真面目そうで、無愛想ではあるけれど――悪い人には見えなかった。
趣味の話にも、必要以上には踏み込んでこなかった。
私が美術が好きだと話すと、ヤマトは小さく頷いて、まっすぐに言った。
「美術、お好きなんですね。ご自分の感性を表現できるのは、素敵なことだと思います」
社交辞令も心にひとつも響かなかった
……でも、心は沈んだままで全く動かない。
夢の話も、進学のことも、将来のことも、私の口から出るたびに、どこかでそれが“もう叶わないもの”だとわかってしまう。
そして、大人たちの話が進んでいく。
父と、ヤマトの父が目を合わせて頷いていた。
「サヤカさんがこちらに嫁いでくださるなら、うちとしても誠意を持って――」
もう、決まっていた。
私はただ、**美しく包装された“取引品”**だった。
帰り道、助手席の母がハンカチをぎゅっと握りしめながら言った。
「辛いなら……断っても、いいのよ」
でも、運転席の父は一言も言わなかった。
ただ、無言で前を見つめながら、ぽろぽろと涙を流していた。
その姿を見た瞬間――
私の中にあった“選べるはずの選択肢”が、音を立てて崩れ落ちた。
「……いいよ。結婚、する」
「サヤカ……」
「うちの会社、守らなきゃ。……パパ、壊れちゃう」
夢も、未来も、恋も。
すべて手放して、私は“家族のために嫁ぐ少女”になることを選んだ。
その夜。
制服のまま、部屋の布団に顔を埋めて倒れこんだ。
涙は出なかったけれど、胸の奥がずっと熱かった。
――私は、ヒロインじゃない。
誰に愛されることもないかもしれない。
それでも、誰かが不幸にならないために、この身を差し出す。
せめてあの人が――
優しい人でありますように。
その祈りだけを、小さく胸に抱きながら。
サヤカは、ひとり、眠れぬ夏の夜を過ごした。