魔法使いの弟子
「ちょっとの魔法でいいんだよ」というのがヴィルヘルム先生の口癖だ。それからは決まって「あとは適当に」。
お金を貰って仕事をしているのだから、「適当に」なんて商売をする者としてとんでもないと思うけれど、先生のお仕事はそれで成り立って、そこそこ繁盛しているのだから何も言えない。お客様のお話を聞いて、それに見合う”ちょっとの魔法”を提供して、あとは適当に丸くおさめる。これが先生の主な仕事内容だ。私は助手としてそれを手伝っている。
私の名前はダイアン。ただのダイアン。苗字は無い。どうしても苗字が必要な時は先生の苗字ドールを名乗り、表向きには先生の娘ということになっている。幼少の頃に先生に拾われたので娘と言えば娘なのかもしれないけれど、金銭的な面以外で育ててもらった覚えは無いから、父親とはとても認識できなかった。村の外れに住むダナおばさんの元で、私は村の子どもとして育てられた。
今は先生と一緒に森の奥の崖の上に建つ屋敷に住んでいる。とても大きな屋敷で、古びていて、暗くて、無駄に豪華なお屋敷。昔はとんでもないお金持ちの貴族が住んでいたのだろうが、今は先生と私しかいない。こんな辺鄙な場所にいて、どうしてお客様がいるのか私にはどうにも不思議なのだけれど、どこからか噂を聞きつけて毎日色んなお客さんが屋敷の門を叩く。もっと街に近い場所で商売をすれば便利なのに、人里離れた静かな場所が好きなのか、先生はこの屋敷が気に入っているようだ。いちいち買出しのたびに森を降りる私の身にもなって欲しいと思うのだけれど、先生は筋金入りの人嫌いなのでしょうがない。お客様が人間の時は、ほとんど門前払いだ。人間が門前払いなら、じゃあ誰がお客様なのかというと、それはもう、人以外のありとあらゆるもの。本当に、色々よ。
先生の朝は紅茶から始まる。それからビスケットを二枚。とても不健康な食生活だと思うけれど、例えばスープやサラダを出しても口にしてくれないので、テーブルにティーセットとビスケットを渋々用意しておく。今日のティーセットは優美な蔦模様の描かれた先生のお気に入り。まだお湯は沸かさない。先生は昼近くになっても起きてこないなんてことがよくあるのだ。
今日も先生は、太陽が昇りきった頃にようやく姿を見せた。ぼさぼさとした黒髪をかきながら、ひょろりと長い手足を弄ぶようにしてぼんやりと立っている。先生は年齢不詳だ。見た目は二十代の青年のようだけれど、私を拾ってくれた時からこの姿だから、本当は三十、過ぎ。絶対過ぎていると思う。
寝ぼけ眼で現れた先生を確認すると、私は薬の調合表を書き写していた手をとめ、キッチンにお湯を沸かしに行った。仕事場兼食堂兼居間に戻ってくると、先生はビスケットをかじりながらぼんやりと壁の絵を見つめている。誰だかわからない、以前の屋敷の持ち主の肖像画だ。
「先生、夜着は着替えてから降りてきてって、いつも言ってるのに」
青いサテンのナイトガウンの下からは、よれた生地の寝巻きがのぞいている。ほかっておくと、先生は一日中このナイトガウンで過ごすなんてこともある。咎めるように言ったけれど、先生はまったく意に介していないようだった。紅茶を淹れる私を眺めながら、食べる気があるんだかないんだかわからないぼんやりとした動作でビスケットをかじっている。それから思い出したように口を開いた。
「ダイアン、君はもう少しゆっくり生きてみてはどうだね」
「先生みたいに、一日が二十八時間ぐらいあるならいいけれど」
「確かに、時の流れは平等ではない」
「そういう難しいことじゃなくて、もっと時間は有意義に使うべきだと言っているのよ。先生が寝ている間に、私は村まで手紙を受け取りに行って来ました」
「まるで僕が怠け者みたいな言い方だ。君を養うために、こんなに、馬車馬のごとく働いているというのに」
寝起きで機嫌が悪いのか、口を尖らせて拗ねたように言うと、先生は紅茶に角砂糖をボトボトと入れた。スプーンで一度だけ乱雑にかき混ぜ、ティーカップを口に運ぶ。それを見ると私はいつももどかしくなる。きちんと砂糖が溶けてない気がして、紅茶を飲み干した後に残る砂糖の塊を想像してぞっとするのだ。
「さあ、今日も一仕事するかな」
大きな欠伸をしながら、紅茶を飲み終えた先生が席を立った。砂糖の部分まで綺麗に飲み干してある。自分のことじゃないのに口の中が甘ったるい気がして胃がむかむかした。
「今日は入り江まで出張よ、先生」
「入り江かあ」
「面倒くさいとか、言っちゃ駄目ですから」
入り江と聞いた瞬間、顔を曇らせた先生に向かってぴしゃりと言い放つと、先生は何がおかしいのかわからないけれど笑いながら自室へ引き上げていった。食堂を出ると、すぐに広々とした玄関ホールに出る。ホールの両脇には弧を描くように大きな階段がついていて、その階段をあがってゆく先生の後姿を私はじっと見つめた。不安だ。部屋に戻って着替えている間に、二度寝してしまわないといいのだけれど。
先生は生粋の怠け者な上、つかみどころが無く頑固で私の話なんか聞きゃしない。だから先生に何かを諭すのはもう諦めている。「先生」に向かって「生徒」の私が諭すなんて可笑しな話だけれど、私が彼を師と仰いでいるのはそう、「ちょっとの魔法」に関することだけで、その他の部分は見習おうとは到底思えない。例えば人間の徳だとか教養、世間のことに関しては逆に私が性根を叩きなおしてやりたいくらいどうしようもない人なのだ。魔術師という浮世離れした職は先生の天職だと思う。先生は本当に、社会適応能力が無い。
だけれども、次に仕事場兼食堂兼居間に現れた先生は、すっかり怠け者には見えなかった。三つ揃えの背広をきちんと着て、手袋、ステッキ、まるでどこかの紳士みたい。出かける時やお客様の前に立つ時は、一応この格好で通している。人嫌いで街を歩かないのは本当に勿体無い。年齢不肖の甘い顔に、黒髪、背の高い痩身で、きちんと身だしなみを整えれば先生はなかなか見栄えが良いのだ。
「ダイアン、用意はいいかい」
「ええ」
「それでは、いざ出勤」
大儀そうに言うと、先生は木造の大きな扉を細く開け、そこから外へ滑り込むように抜け出した。扉が壊れていて、これ以上あけると閉まらなくなってしまうのだ。私も同じようにして外へ出ると、新鮮な空気をいっぱい肺に入れ、太陽を仰いだ。薄暗い屋敷の中にいたせいで、眩しい光に目がくらんでしまう。
先生の後について、森の中をどんどん歩いた。シララキの白に近い灰褐色の幹が森を神秘的に見せていた。今が果期で、青色の親指の先ほどしかない小さな実が森を彩っている。実はラピスラズリの宝石に例えられ、シララキの群生するこの森は、ラピスラズリの森と呼ばれていた。
先生の長いコンパスについてゆくのは大変だけど、スカートの裾をまくりあげて必死についてゆく。目的地の入り江は崖を降りて北の方角に少し進むとあり、距離的にはそう遠くはないのだけれど、いかんせん獣道を行くのでたどり着くのは大変だった。
「入り江に着く前にダイアン、少し授業をしよう」
「はい、先生」
茂みを掻き分けながら、息も絶え絶えに頷いた。
「この世界で一番強力な魔法は何だか、わかる?」
「火の魔法? ドラゴンの炎、火の精」
「いや、違う。数ある魔法の中でも、これだけは魔術師でない普通の人間でも出来るんだ」
「悪魔との契約? あっ」
草の根に躓いて、転びそうになったけれど先生の腕が私をひょいと捕まえていた。手を引かれて茂みを抜けると、白い砂にブーツが触れた。澄んだ入り江が視界にあらわれる。そんなに広くは無いけれど、海から丸く入り組んでいて、左側は岩場が続き、美しい。浅いところは薄い水色をしていて、白い砂がくっきりと見える。先生は私の手を放すと、胸ポケットから金の懐中時計を取り出した。
「悪魔との契約は熟練した魔術師でもリスクが大きいんだよ。人間が契約してしまう場合は、悪魔に騙されているんだ」
「じゃあ、何なの?」
「今日の仕事はその、この世界で一番強力な魔法を使うことになるだろう」
「そうやってすぐに、もったいぶるんだから」
「そうやってすぐに、答えを聞きたがるのはダイアン、君の悪いところだな」
先生は微笑むと、懐中時計をポケットにしまい、入り江の岩場に腰を屈めた。手袋を外すと、入り江の水を撫ぜるように指先でかきまぜる。先生の指先から渦が出来て、それが入り江全体に広がっていった。私は先生の隣で、何が起きるのかとドキドキしながら入り江を見渡した。すると、入り江の真ん中辺りに影が浮かび上がり、それがゆらゆらとこちらへ向かってくる。大きな海蛇か何かかと思ってぎょっとしたけれど、影が近づいてくる内にそれが何なのかわかってきた。魚の尾ひれに、細い腰、長い髪の毛。浅瀬まで来ると、透明な水のせいで色まで鮮やかにわかった。深い、海の色をした鱗と、光を結ったような金髪。
「こんにちは」
先生が声をかけると、その影が辺りを伺うように顔を出した。ぱっちりとした可愛らしい瞳をした少女、もとい人魚だ。
「ヴィルヘルム・ドールさま?」
人魚は頭をすっかり水から出すと、先生をじっと見つめて、鈴の鳴るような美しい声で聞いた。先生が頷くと、人魚は上半身を陸にあげた。濡れた髪の毛がもつれあい裸の身体にはりついていて、私はドキドキしてしまう。人魚は海の奥の方に棲んでいて、この国でもめったに見られない珍しい生物だ。私も今まで一度も見たことが無かった。噂どおりに、とても神秘的。人魚の小ぶりの乳房は何だかとても可愛くて、私は思わず先生をちらりと盗み見てしまった。
「来て下さってありがとうございます、魔術師ドールさま。イゾルデと申します。お屋敷へ伺いたかったのですけれど、この通り、私は陸へは行けませんから」
「いえ、いいですよ。それより、イゾルデ。今日は何の御用で?」
「足が欲しいのです」
「ほう」
驚いたように言ったけれど、先生の口調のニュアンスから、最初から人魚が何を言うのか先生にはわかっていたような気がした。
「それはまたどうして?」
「王子様に会うために」
「王子様、ねえ」
「フランツ王子に?」
それまでは黙って先生の一歩後ろに控えていたのだけれど、思わず口を挟んでしまった。この国に王子様は一人だけだ。フランツ・フォン・シラー王子。首都にいるフランツ王子と海に住む人魚がどこで知り合ったのか不思議に思ったのだ。人魚は少し頬を染めると、首を横に振った。
「いいえ、フランツ王子ではありません。この近くの街に住んでいるお方ですの」
「まあそれはいいとして、料金の方ですが」
「ええ、お持ちいたしました。人魚の涙ですね」
人魚は一度水の中へ戻ると、すぐにまた顔を出して、先生の手に光沢のある小さな丸い宝石をじゃらじゃらとのせた。真珠だ。
「これで足りるかしら」
「はい、結構です。さすが人魚の採った真珠だ。月のしずく、人魚の涙と言われるだけあって上質。ダイアン、これを」
私は先生から真珠を受け取ると、先生が持ってきた大きな革のケースから取り出した袋の中に真珠を流し入れた。あまりに綺麗だったから、思わず一つを袋から出してまじまじと観察してしまう。真珠なんて手に取ったのは初めてのことだ。
「ダイアン、あれを」
あれ、と言われても何のことだかわからなかったけれど、蓋の開いたケースの中に昨夜先生が調合していた薬を見つけたので、私はそれを先生の手に渡した。紫色の液体の入ったガラスの小瓶だ。
「これであなたの尾ひれは足になりますが、完全に人間になるためにはもっと強い魔法が必要です。薬の効用のある期限のうちに人間になれなければ、あなたは泡になって消えてしまうでしょう」
「では、どうしたらいいのでしょう?」
「期限の内に、愛する王子とキスを」
「わかりました」
人魚のイゾルデは躊躇い無く頷くと、先生の手から小瓶を受け取った。細く白い指で蓋を開けると、一呼吸置き、液体を飲み込む。液体が喉を通りすぎると、まるで毒を飲んだようにイゾルデは目を見開いた。苦しそうに喉を押さえて、押しつぶされたような声を出して身悶える。心配になって先生を見ると、先生は思案するように人魚を見つめていた。
そこからはあまり見ていたくなかった。イゾルデの深海の色、エメラルドグリーンの尾ひれが徐々に分かれて、鱗が剥げ落ち、上半身と同じ白い柔肌になってゆく。イゾルデは始終苦しそうに喘いでいるので、とても痛いのだろう。けれども、先生は目を逸らさずじっと見つめているので、私も我慢してイゾルデの尾ひれが足に変わってゆくのを目に刻んだ。
しばらくするとイゾルデの尾ひれはすっかり人間の足に変わったが、イゾルデはあまりの痛みに失神しかけてしまい、入り江の中に沈んでしまいそうだった。先生はイゾルデを引っ張って陸にあげると、岩場に横たえた。
「イゾルデ、目をあけてごらん」
先生が声をかけると、人魚の時のような神秘的な美しさはないけれど、まだあどけなく可愛らしい少女がうっすらと目を開ける。それから自分の足を見ると、嬉しさを隠し切れず、先ほどの痛みなど忘れてしまったかのようにすぐさま立ち上がろうとした。けれども、まるで生まれたばかりの小鹿のように頼りない二本の足は、すぐによろめいてしまった。すんでのところで先生が抱きとめる。致し方ないことだというのはわかっていたけれど、裸体の少女と抱き合う先生を見ていたら、なんだか、先ほどの砂糖の胃のむかむかが蘇ってきたような気がした。思わず、先生はどんな顔をしているのだろうかと表情を盗み見てしまう。先生は私の視線に気づくと、それとなくイゾルデを離して私にあずけた。
「さて、服とか必要だろうから、ダイアン。あとは適当に」
先生は懐中時計を取り出すと、ちらと針に目をやり、すぐにまたポケットにしまった。いつもこうなのだ。”ちょっとの魔法”は先生で、”あとは適当に”の部分は結局私がやることになる。私は先生のケースに入っていた私の洋服をイゾルデに着せた。勝手に私の箪笥からくすねられたのは腹が立ったけれど、藍色のドレスは私よりもずっとイゾルデに似合い、「ありがとう」と微笑んだイゾルデがとても可愛いので許してしまった。
「ダイアン、この世界でもっとも強力な魔法は何かわかった?」
「愛する人のキス?」
「そう。毒林檎を食べてしまった娘を覚えている? あの娘、白雪と言ったかな。あの子を生き返らせた魔法もそうだし、それに、隣の森で百年の眠りについていた娘を生き返らせた魔法も、この前のお客の魔法を解いたのも、全部これさ。この世界ではこれが一番強力な魔法なんだ」
異国の娘、白雪の話は村で聞いた噂話だ。隣の森の眠れる美女の伝説は小さい頃から聞いていたけれど、魔法が解けたというのは本当だったのか。この前のお客というのは、半分野獣の獰猛な男だ。本来は人間なのだが、あの時は到底人間とは呼べなかったので先生のお客になることが出来た。
「さあ、イゾルデは一晩うちにつれて帰ろう。明日になったら、馬車を手配して街まで送っておやり。……もし君が許してくれるのなら、僕が背負ってゆくけど。それともダイアン、君が背負うかい?」
ニヤニヤしながら言われて、私はさっと顔が熱くなった。先生がイゾルデに触れるたびに、しかめっ面をしていた事を気づかれていたのだろうか。
「いえ、どうぞ、先生が」
慌てて言うと、先生は可笑しそうに短く笑った。
イゾルデを背負った先生の後を、私は行きと同じように必死で付いて行った。イゾルデを背負っているのに、今度は登りなのに、どうして速度が落ちないのか不思議だ。どこにそんな筋肉がついているのだろう。細身の筋肉質をあなどってはいけないのだろうか。
「全部をやってあげる必要は無いよ。彼女の物語だからね」
「ちょっとの魔法と、あとは適当に」
「そうそう」
屋敷に帰ると、先生は疲れたと言って自室に引き篭もってしまった。しょうがないので私はイゾルデのために温かいスープを作る。イゾルデは出来たばかりの足が愛しくてしょうがないようで、ソファに横になって細い足を曲げたり伸ばしたりして二本の足をうっとりと見つめていた。このあどけない少女は王子様に会えるのかしら。それとも、泡になって消えてしまうのかしら。愛しい人に会うためにリスクを覚悟で王子様に会いに行くなんて、この小さな身体のどこにそんな気力があるのか不思議に思った。それから少しだけ羨ましい。
私は先生の嫌いなにんじんをよけながらスープを器によそうと、トレイにのせて階段を上がった。キスがこの世界のもっとも強力な魔法なら、愛のこもった料理も”ちょっとの魔法”にならないかしら。なんて事を思いながら。
細かい模様のついた銀の盆にスープをのせて仕事場兼食堂兼居間を出て、玄関ホールを横切り、ホールの両脇に弧を描くようにしてある階段を、スープをこぼさないようにそうっと上がった。足先でドアをノックすると、先生のうめき声が聞こえた。しょうがないので慎重にドアを開ける。先生はベッドにうつ伏せになっていた。部屋の中央にある丸テーブルにスープを置く。
「先生?」
「いいかいダイアン。この世界、この世界、という表現を使うのはね、別の世界、があるからなんだよ」
「はあ」
うつ伏せのまま、先生が言った。この世界、別の世界、という言葉は先生がよく使う言葉だ。しかしいくら尋ねても、先生がそれを詳しく教えてくれることはなかった。寝惚けているのだろうか。
「僕達は夢の中でお芝居をしているようなものさ」
先生はよくそう言った。そういう時、先生はいつも決まって少し傷ついたような貌をしているから、私は知らんぷりをする。ずっと一緒に暮らしているのに、先生について知らないことが沢山ある、その事実を直視するのが嫌なのだ。
だから私はそっとドアを閉めて、決意する。いつか先生に、この世界で一番強い魔法をかけてやるんだ。
あっちの世界なんて、過去のことなんて、ぜんぶぜんぶ忘れてしまうほど、強烈な魔法を。
お読みくださりありがとうございました。
短編連作の一話として書いたものです。
この二人は、別の短編「マルガレーナの結婚」にも登場します。