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1.灰色の屋敷

 その日、空は長く放置された墓碑の表面のように、鈍く冷たい灰色に染まっていた。


 陽光はまるで存在せず、厚く垂れ込めた霧がヨークシャーの丘陵地を這うように覆っていた。無数の裸木が死人の指のように枝を伸ばしては、灰の空に嘆くような影を投げかけていた。


 地面からは泥と濡れた腐葉土の匂いが立ち上り、空気は凍てつくほどに湿っていた。


 メアリー・レノックス、十六歳。


 彼女は古びた黒塗りの馬車の中で、じっと口を結び、重たく垂れた瞼のような窓越しに霧の中を見つめていた。


 手袋をした小さな手を膝の上で固く組み、車輪のきしみ音と、蹄の鈍い音だけが孤独な時間を刻んでいた。


 両親が突然の事故で亡くなって三ヶ月。たった一人になったメアリーの新しい住処は、遠く離れたイングランド、ヨークシャーの奥地にある、唯一の親族――グレイブン伯爵の屋敷だった。


 伯爵の存在は、まだ見ぬ未来への不安と、僅かな希望の光が入り混じった複雑な感情をメアリーの胸に抱かせた。


「もうすぐです、嬢ちゃん」


 唐突に響いた御者のくぐもった声に、メアリーは肩を小さく震わせた。震えは寒さのせいだけではなかった。彼女は黙って頷き、足元に置いた革のトランクを両腕で抱えた。霧の中に、その輪郭が不意に現れた。


 それはまるで、地面から突き出した黒曜石の棺だった。巨大な石造りの屋敷――グレイブン家の館。


 褪せた尖塔が四方にそびえ、屋根は鉛色の雲とほとんど見分けがつかず、壁は長年の雨と風で煤けていた。苔と蔦に覆われた正門のアーチをくぐると、裏庭から漂ってくる香りが彼女を包み込んだ。


 それは花の香りだった。だが、甘く優しいそれではない。重く、湿っていて、どこか血のような鉄臭さが混じっていた。


「……薔薇?」


 つぶやいた彼女の目に映ったのは、裏庭に広がる深紅の庭園だった。霧に沈むその庭には、異様とも言えるほど鮮やかな薔薇が咲き乱れていた。


 地面から噴き出すように伸びる無数の蔓、鋭い棘、血のような色の花弁。あまりにも非現実的で、まるで――誰かの亡霊が咲かせたようだった。


 馬車が停まり、メアリーは重たい扉の前に立った。屋敷の大扉は鉛のように重く、打ちつけた拳に応える音さえ鈍く沈んでいた。


 やがて、金属の鍵が内側でひとつ、またひとつと回る音がした。ごとん、と鈍い音を立てて扉が開く。


 そこに立っていたのは、くしゃくしゃの栗色の髪をした青年だった。目は澄んでいたが、どこか鋭い。彼はメアリーを見て、穏やかに微笑んだ。


「ようこそ、グレイブン家へ。俺はデイコン。姉のマーサは、あんたの部屋を整えてるよ」


 言葉は柔らかかったが、その声には何かを探るような冷たさが潜んでいた。まるで、彼女がこの家にふさわしいかを測っているかのようだった。


 屋敷の中は、思っていた以上に暗かった。天井は高く、梁は太く黒ずんでいた。古びた燭台が壁に取り付けられていたが、灯りはすでに消えて久しいのか、蝋の跡が煤けて垂れ下がっていた。


「こっちだ」


 デイコンの先導で、メアリーは長い石造りの廊下を歩いた。足元は濡れているようにひんやりしていて、時折、水の滴る音が奥から響いてくる。その音がどこから来るのか、わからなかった。


 廊下の壁には、無数の肖像画が飾られていた。だが、そのどれもが奇妙だった。顔が歪んでいたり、目が異様に大きかったり、あるいは――まるで生きているように、視線が動いたようにすら思えた。


「この屋敷には、時間ってものがあまり意味を持たないんだ」


 突然のデイコンの言葉に、メアリーは彼を見上げた。


「朝でも夜でも、どの部屋にいても同じように陰気でさ。だが、慣れると落ち着くって言う人もいる」


 その言葉には、まるで自分に言い聞かせているような哀しみがあった。


 そのとき、階段の上から足音が響いた。小気味よい、少女の足音。メアリーが見上げると、階段の上に若い娘が立っていた。十八歳ほどの、麦色の髪を三つ編みにした娘だった。


「お嬢さまですね? 私はマーサ、あなた付きの召使いに任じられております。どうぞ、こちらへ」


 マーサは礼儀正しく微笑み、エプロンの裾を摘んで一礼した。だが、彼女の笑みには、どこか影があった。


 案内された廊下は、より一層暗く、壁には異様な絵画が並んでいた。どれも薔薇を描いていたが、それはただの花ではなかった。


 棘がねじれ、茎が絡み合い、花弁には血の滴が滲んでいるように見えた。


「……この絵、まるで……生きてるみたい」


「そう感じる方は多いです。伯父様は、薔薇がとてもお好きなのです。屋敷中に、こうした絵を飾るよう命じておられます」


「変わってるわね」


「ええ、変わり者……でも、それ以上に――寂しい方なのです」


「寂しい」の言葉には、妙な含みがあった。まるで「狂気」と言い換えられそうな冷たい響きだった。


 部屋に案内され、マーサが荷をほどいてくれる間も、メアリーの胸には一抹の不安が残っていた。壁紙は深緑で、古びた木のベッドにはカーテンが付いていた。 手入れの行き届いたその空間は、時の流れを感じさせないほど清らかで、古さがかえって趣となっていた。


「可愛い部屋」と評した通りだった。天蓋付きのベッドにはふんだんにレースが使われており、花柄の壁紙は柔らかなピンクとクリーム色が交互にあしらわれ、


 まるで春の庭園の一角を切り取ったような風情だった。窓辺には、かつてはきっと陽光が差し込んでいたのだろうという痕跡があった。


 繊細なレースのカーテンはゆるやかに揺れ、風が運んでくるはずの鳥のさえずりや、木々の葉擦れの音が、しかしどこか遠くに感じられた。


 けれどもその部屋には、常に奇妙な冷たさが漂っていた。物理的な寒さではない。火の入った暖炉があり、厚手のカーペットが床を覆っているにもかかわらず、肌にまとわりつくような不快な冷えがあった。


 それはまるで、この部屋の隅々に染み込んだ、誰かの悲しみや絶望が凝り固まって、今なお冷気となって残っているかのようだった。ときおり、メアリーは壁紙の模様の中に、涙を流す女性の顔のようなものを見た気がした。


 しかし、瞬きをすればそれはたちまち花柄に戻ってしまい、彼女はそれが幻覚であることを願わずにはいられなかった。


 窓から見える庭園もまた、奇妙だった。伯父グレイブン卿が狂気じみたように手入れしているという薔薇の庭園。


 そこには、真紅の薔薇が一面に咲き誇っていた。夕暮れ時の薄明かりの中で、それらの花はまるで血のしずくが地面から湧き出てきたかのような重々しさをもって咲いていた。


 その光景は確かに美しかった。けれども同時に、メアリーにはそれが不気味でならなかった。あまりにも鮮やかで、あまりにも完璧すぎるその薔薇たちは、何かを覆い隠すために咲いているような気がしてならなかった。


 薔薇の根元には、人知れず埋められた秘密があるような、そんな気配がした。


「お嬢様、このお洋服はいかがでしょう?」


 マーサが、腕に抱えていた衣装をベッドの上に広げた。それは深紅のベルベットに金の刺繍が施された、いかにも貴族の令嬢が舞踏会で着るような豪華なドレスだった。


 手で触れると、布は重く滑らかで、まるで生きているかのようだった。


 メアリーは思わず息をのんだ。彼女はこれまで地味な服しか着たことがなかった。薄手の綿布でできた、色も形も目立たない衣類ばかりだった。両親は忙しく、メアリーの身なりにはほとんど関心を払わなかった。


「私が……着ていいの?」


「もちろんですとも。ご主人様からの贈り物です。お嬢様は、これからこの屋敷の主となるお方ですから」


 その言葉に、メアリーは戸惑った。伯父が自分を歓迎しているというのは理解できたが、それはただの形式的なものではないのだろうか?しかし、どこかで心が温まるのを感じた。


 両親を失って以来、誰かに特別扱いされることなどなかった。マーサの言葉には、ほんの少しだが愛情のような響きがあった。


 その日から、メアリーの衣服は日に日に豪華になっていった。朝食時には淡い水色のシルクのドレスを、昼食の後の読書には繊細なレースが縫い込まれた白のドレスを、午後の散策には深緑のビロードのローブを羽織るようになった。


 最初は慣れない装いに肩が凝り、裾を踏みそうになるたびに緊張したが、やがてその滑らかな感触や、優雅なドレープがメアリーの心を慰めるようになった。


 鏡に映る自分は、まるで絵本に出てくるお姫様のようだった。愛情に飢えていた少女にとって、それは確かな特別扱いだった。


 そしてある日の夕食時、ついにメアリーは伯父と対面した。


 グレイブン卿は痩せぎすで、背が高く、肩幅も広かった。白髪混じりの髪を後ろに撫でつけており、顔には深く厳しい皺が刻まれていた。


 その目は鋭く、まるで薔薇の棘のように細く尖っており、だがどこか虚ろで、底知れぬ哀しみを湛えていた。


「ようこそ、メアリー。よく来てくれた」


 彼の声は低く枯れていた。歓迎の意を込めていたはずのその声音は、まるで別れの挨拶のようにも聞こえた。


「屋敷では好きにして構わない。私には息子のコリンもいるが、病弱で部屋からはめったに出てこない。気にしなくていい」


 食卓には豪華な料理が並んでいた。銀の皿にはローストビーフやターキー、赤ワインに漬けた果実、香草のスープなど、どれも見たことのないほど華やかな品ばかりだった。


 しかし伯父は、ほとんど口をつけなかった。ただ、メアリーをじっと見つめていた。その視線は、どこか過去に生きているようであり、同時にメアリーの中に何かを探しているようでもあった。


「お前は……私の……にそっくりだ」


 グレイブン卿が突然、小さな声でそう呟いた。


 メアリーはその言葉の意味を測りかねた。両親のことを言っているのだろうか?けれども、伯父の口からその名が語られることはなかった。


「……私の母ですか?」


 メアリーは恐る恐る尋ねた。


 伯父はゆっくりと首を横に振った。


「いや……私の妻だ。お前の伯母にそっくりだ」


 伯母――。その名を、誰も口にしたがらなかった。マーサもデイコンも、その話題には沈黙した。伯母は十年前から行方不明だという。彼女がどこへ行ったのか、なぜ消えたのか、誰も語らなかった。


 その夜、メアリーは自室へ戻った。窓の外を見ると、薔薇の庭園が夜の闇の中に沈んでいた。月明かりに照らされたその花々は、昼間よりもなお一層、不気味な妖しさを帯びていた。


 その中で、何か白いものが風に揺れているのを見た気がした。人の影のような、布のような、それとも幽霊のような……。


「気のせいよ……」


 メアリーは自分にそう言い聞かせ、ベッドに潜り込んだ。しかし、その夜、彼女は奇妙な夢を見た。


 夢の中で、彼女は巨大な薔薇の迷宮にいた。壁は血のように赤い薔薇で覆われており、どこまで歩いても終わりがなかった。棘が手や足を傷つけるたびに、甘美で不気味な痛みが走り、メアリーは泣きながらも進まなければならなかった。


 そして、迷宮の中心で、白いドレスを着た女がひとり、泣いていた。顔は見えなかった。けれども、その背中はどこか、メアリーにそっくりだった。


 数日が過ぎ、メアリーは屋敷の生活に慣れ始めていた。相変わらず重苦しい雰囲気ではあったが、デイコンとマーサは優しく、メアリーは彼らとの交流を心から楽しんだ。


 デイコンは屋敷の裏話や、伯父の奇妙な習慣について面白おかしく語ってくれたし、マーサは裁縫や刺繍を教えてくれた。彼女たちは、メアリーにとってこの陰鬱な屋敷における唯一の光だった。


 ある日の午後、メアリーはマーサと一緒に屋敷の中を散策していた。豪華な調度品や、見慣れない美術品の数々に、メアリーは感嘆の声を上げた。そして、二人は屋敷の中心にある、広々とした踊り場に差し掛かった。


 その踊り場には、巨大な肖像画が飾られていた。縦が三メートル近くあるだろうか、天井近くまで届くその絵は、圧倒的な存在感を放っていた。


 描かれているのは、メアリーと瓜二つの顔を持つ、美しい女性だった。金色の髪は豊かに波打ち、深く澄んだ瞳は、まるで生きているかのようにメアリーを見つめ返していた。


 彼女は純白のドレスを身につけ、その手には一輪の真紅の薔薇が握られていた。


「この方が……伯母様?」


 メアリーが尋ねると、マーサは一瞬、顔を曇らせた。


「ええ、そうです。グレイブン伯爵夫人の肖像画です」


 肖像画の中の伯母は、確かにメアリーにそっくりだった。歳月を経て、メアリーの金色の髪はより輝きを増し、顔立ちも少しばかり幼さを残しているが、それでも、この肖像画は、まるで鏡を見ているかのように錯覚させるほどだった。


「どうして伯母様は、こんなに私に似ているの?」


 メアリーの問いに、マーサは困ったように微笑むだけだった。その沈黙が、メアリーの胸に漠然とした不安を募らせた。


 肖像画を見上げていると、絵の中の伯母の目が、かすかに動いたような気がした。錯覚だと自分に言い聞かせたが、その視線は、メアリーの魂の奥底まで見透かしているような、ぞっとするような感覚を伴っていた。


 その夜、メアリーは眠れなかった。ベッドの中で何度もまどろみかけては、肖像画の伯母の目が闇の中に浮かび上がってくるような幻覚に怯えた。時折、風の音に紛れて、誰かが自分の名前を呼ぶような声が聞こえる気がした。


 翌朝、メアリーはデイコンに肖像画について尋ねてみた。


「あの肖像画の伯母様、何時頃の伯母様なの?」


 デイコンは一瞬、眉をひそめた。


「ああ、あれですか。伯爵夫人がいなくなる前、最後に描かせた絵だとか」


「なぜ、いなくなったの?」


 メアリーが重ねて尋ねると、デイコンの顔から笑みが消えた。


「それは……誰も知らないんです。ある朝、突然姿を消したと。手がかりは何も残されていなかったと聞いています。……屋敷では、その話はタブーなんです」


 彼の声は、どこか怯えているようだった。メアリーはデイコンの様子から、この件に深く踏み込むべきではないと悟った。


 しかし、好奇心は容易に消せるものではなかった。その日の午後、メアリーは一人で踊り場に戻った。


 肖像画の前に立ち、じっとその顔を見つめた。絵の中の伯母は、いつものように穏やかな微笑みを浮かべている。一瞬、肖像画の伯母の口元が、わずかに歪んだように見えた。


 それは、嘲笑のようでもあり、あるいは絶望のようでもあった。


 そのとき、肖像画の眼から、一筋の雫が零れ落ちた。それは、まるで血のように赤く、絵の具の表面をゆっくりと滑り落ちていった。


 メアリーは息を呑んだ。それは、絵の具が溶けたものなどではなかった。それは、純粋な、生の血だった。


 恐怖に駆られ、メアリーは後ずさりした。しかし、その足は震え、一歩も動かすことができなかった。肖像画の眼からは、次々と赤い雫が流れ落ちた。


 そのとき、背後から足音が聞こえた。振り返ると、そこにはグレイブン伯父が立っていた。伯父の顔は、いつになく青白く、その目は狂気じみた光を宿していた。


「何をしています、メアリー」


 伯父の声は低く、そして冷たかった。メアリーは震える声で答えた。


「伯父様……この絵が……」


 もう一度肖像画に視線を戻すと血はなくなっていた。


「そんな……」


 伯父は肖像画を一瞥し、そしてメアリーに視線を戻した。その目は、獲物を捕らえるかのように、メアリーをじっと見つめていた。


「この絵は、美しいだろう?私の愛する妻だ」


 伯父の言葉には、どこか満足げな響きがあった。そして、その視線は、メアリーの首筋に絡みつくかのように感じられた。


 翌朝、霧が晴れ、少しだけ日が差した。メアリーは庭園へ出ることを許され、興味半分でその“美しき”薔薇園へ足を踏み入れた。


 赤――赤――赤。


 真紅の薔薇が、幾重にも連なって咲き乱れていた。その色は、まるで血をそのまま固めて作ったようだった。茎は奇妙なほど太く、棘は鋭く、触れることさえ拒むように主張していた。


 しかし、奇妙な魅力があった。引き寄せられるように、メアリーは奥へと進んでいった。


 そのとき、一本の薔薇にスカートの裾が引っかかり、ばきん、という音と共に茎が折れた。


 そして――そこから滴ったのは、透明な樹液ではなかった。


 それは、血のように濃く、暗く、どろりとした赤だった。


「あ……れ……?」


 メアリーはその滴る液体を見つめた。恐る恐る指で触れてみたが、その感触は粘つき、手の温度とまるで変わらなかった。


「何……これ……?」


 その瞬間だった。風もないのに、背後の薔薇がざわざわと震えた。奥から、ひとつ、またひとつと花が揺れ始める。まるで、目を覚ましたかのように。

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