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第70話「静寂の屋根にて」

夜の空気はひんやりと澄んでいて、あの激しい戦いがほんの数時間前の出来事だったことが信じられないほど静かだった。


咲良の家。その屋根の上に、俺はただひとり、じっと座っていた。


昼間の喧騒と破壊の残滓は、今や遠い過去のように思えた。だが、胸の奥に残る痛みと、頭の中で何度も再生されるあの場面の記憶は、時間の経過とは無関係に鮮明だった。


——ゲイルの最後。

敵でありながら、自分の信念を貫こうとしたあいつを、ツェクターが容赦なく斬り捨てた。

そして、言葉すら交わさずに消えた、その無感情な背中。


(……なんだったんだ、あのやり方は)


胸の奥が、ざらりと波打つ。

俺は、ああいうやり方が好きじゃない。

強さでねじ伏せ、理屈抜きで片付ける。問答もなく、判断も他人に委ねず、ただ命令を遂行するかのようなあの姿勢。


——だが、否定しきれない自分もいる。


(あれが……正解だったのかもしれない)


戦いは、理屈じゃない。

ゲイルがどんなに言葉を重ねたとしても、それを止められなかった俺たちは、結果的にツェクターの一撃に救われた。


だが——あのやり方で、本当に良かったのか?


俺は両前脚を前に投げ出し、空を見上げた。

星が一つ、冷たい光でこちらを見返している。


(……シリウス)


奴は何を考えているんだ。

ゲイルの存在を知らなかったはずがない。

決戦兵器まで動員されたあの場に、姿ひとつ現さず、最後まで“静観”を貫いた理由。

その答えは、いまだ闇の中だ。


背後の窓から、咲良の部屋の灯りがぼんやりと漏れている。

彼女は今、ぐっすり眠っているはずだ。

今日も、何も知らないまま、日常を過ごしてくれていた。それが、何より救いだった。


俺は、守れているのだろうか。


それともただ、事件から遠ざけているだけなのか。


ふと、微かな気配を感じて、耳がぴくりと動く。


静寂を乱すほどではないが、確かにそこに“何か”がいる。

気配は重く、揺るぎなく、だが敵意は感じられない。


俺はゆっくりと首を巡らせる。


そこにいた。


屋根の端。街灯に照らされたそのシルエット。

まるで、月の影から抜け出してきたような、黒く引き締まった輪郭。


「……ツェクター」


声に出すつもりはなかったのに、自然と名前が漏れていた。


奴は何も言わなかった。

ただ、冷ややかな光を宿した瞳で、じっとこちらを見ている。


次の瞬間、風が少しだけ強くなった。


その時、空気がわずかに変わった。


「悩める時は、月を見るのが良い」


静かに夜風に毛をなびかせていた。あいかわらず無駄な動きは一切ない。鋭く、澄んだ目だけが、こちらを見ていた。


「……また現れたのか、あんたは。今度は何の用だよ」


シンはうんざりしたように問いかけたが、内心、彼の出現に少なからず安堵している自分に気づいた。


「お前の顔色を見に来ただけだ。ゲイル戦の後、お前は“何か”を見上げた。それを確かめたくてな」


ツェクターはふと視線を空に向ける。


「シリウスのことか」


「……ああ」


シンは頷き、尾を一度振った。


「何もしてこなかった。あれだけの戦闘だったのに……まるで、関心がないみたいだった」


「関心がないのではない。“監視していた”のだ」


ツェクターの声が夜気に溶けるように響く。


「今の戦いは、上層部のいくつかにとっても“実験”だった。お前の覚醒、ゲイルの暴走、そして——介入の基準を探るための観察」


「……俺たちは、試されていた?」


「試されていたのは“この世界”そのものかもしれん」


短い沈黙。シンは再び夜空を見上げる。


「……気に食わねぇな。俺たちの生き死にすら、やつらの“観察材料”ってわけか」


「そう思っておけばいい。だが、それに従う必要はない。お前はもう、自分の意思で動ける」


「それでも、あんたは“命令”を受ける側なんだろ?」


ツェクターは笑わなかった。ただ、風に揺れる木々の音を背に静かに言った。


「私には“意志”がある。“命令”に従いながら、それでも己の選択を否定したことは一度もない」


そしてツェクターはシンに一歩だけ近づいた。


「お前も同じだ、東條シン。今のお前には、見るべきものがある。選ぶべき道がある。……間違うな」


「……俺が何を選ぼうと、正解なんて誰にもわからない」


「それでも、選ぶしかない。この世界が崩れかけている以上な」


屋根の上の空気が、わずかに揺れた。まるで、何かが遠くで動き出す気配。


「じゃあ……お前はどうなんだ。何を選ぶ?」


問いかけると、ツェクターは空を見つめたまま一言だけ答えた。


「——すべてを“終わらせる”ために、私は動く」


それが何を意味するのか、シンにはまだわからなかった。ただ、その言葉の背後にある覚悟だけは、痛いほど伝わってきた。


「……その時が来たら、俺はどうすればいい?」


ツェクターはその問いには答えなかった。

風が吹き抜けると同時に、彼の姿は屋根の端からふっと消えていた。


静寂が戻る。


シンはその場に残ったまま、しばらく空を見上げていた。


——夜はまだ深く、月は変わらず静かに輝いていた。



いつも読んでいただきありがとうございます。

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