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第1話 「においと空腹と、知らない朝」

雨は夜のうちに止んでいた。

それでも段ボールの底は湿っていて、冷たかった。

身体を丸め、しっぽで鼻先を覆っても、眠れたのかどうか曖昧なまま朝が来た。


(夢じゃないんだな……)


鼻をくすぐるのは、かびた布の匂いと、車の排気ガスと、わずかに漂うパン屋の甘い香り。

人間の頃には気づかなかったものが、いやというほど鮮明に鼻を刺す。


身体は軽いけれど、自由じゃない。

言葉は出ない。スマホも持ってない。誰にも気づかれない。

――俺は、猫になった。


「にゃ……」


声に出すと、やっぱり泣き声にしかならなかった。

頭の中では普通に考えられるのに、口から出るのはただの猫の鳴き声。

戸惑いと空腹が、じわじわと胸に広がっていく。



段ボールから這い出し、人気のない裏通りを歩く。

足元は濡れていて、肉球に冷たさが染みる。

ぬるい風が背中の毛を逆立て、心細さだけがついてくる。


(何か、食べ物……)


視線の高さが、まるで違う。

ゴミ袋の裂け目や、自販機の下がやけに目につくようになった。

それでも食べられるものは、どこにもない。


「……にゃ」


ゴミ袋を前足でかき分けてみる。

腐った野菜、ぬれた紙くず、誰かの捨てた弁当の容器。

どれも食べられるような匂いじゃなかった。


(これ、続けられるのか……?)


胸がぎゅっと痛む。

それは空腹だけじゃなくて、“人間じゃない”というどうしようもない現実だった。


通りの向こうに、小さな子どもと母親が歩いている。

その視線が一瞬だけこちらに向いた。

――でも、すぐに逸らされる。


俺は、見えない存在になった。



公園のベンチの下に、パンの袋が落ちていた。

近づくと、少しだけ残ったチョコパンのかけらがあった。

かじる。甘い。涙が出るほど、ありがたい。


(……これ、誰かの落とし物か)


自分でも情けないと思った。

でも、背に腹は代えられなかった。


食べ終えて空を見上げる。

今日は雲ひとつない青空だった。

どこかの教室で、誰かが何かを話していて、笑っていて――

俺はそこに、いない。


咲良も、今ごろ教室にいるのだろうか。

席の隣が空席になったことを、気にしてくれるだろうか。

……いや、きっと気づくけど、それだけだ。


「にゃあ……」


胸が、きゅうっと締めつけられる。

言葉にならない声が、空に吸い込まれていった。

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