第1話 「においと空腹と、知らない朝」
雨は夜のうちに止んでいた。
それでも段ボールの底は湿っていて、冷たかった。
身体を丸め、しっぽで鼻先を覆っても、眠れたのかどうか曖昧なまま朝が来た。
(夢じゃないんだな……)
鼻をくすぐるのは、かびた布の匂いと、車の排気ガスと、わずかに漂うパン屋の甘い香り。
人間の頃には気づかなかったものが、いやというほど鮮明に鼻を刺す。
身体は軽いけれど、自由じゃない。
言葉は出ない。スマホも持ってない。誰にも気づかれない。
――俺は、猫になった。
「にゃ……」
声に出すと、やっぱり泣き声にしかならなかった。
頭の中では普通に考えられるのに、口から出るのはただの猫の鳴き声。
戸惑いと空腹が、じわじわと胸に広がっていく。
*
段ボールから這い出し、人気のない裏通りを歩く。
足元は濡れていて、肉球に冷たさが染みる。
ぬるい風が背中の毛を逆立て、心細さだけがついてくる。
(何か、食べ物……)
視線の高さが、まるで違う。
ゴミ袋の裂け目や、自販機の下がやけに目につくようになった。
それでも食べられるものは、どこにもない。
「……にゃ」
ゴミ袋を前足でかき分けてみる。
腐った野菜、ぬれた紙くず、誰かの捨てた弁当の容器。
どれも食べられるような匂いじゃなかった。
(これ、続けられるのか……?)
胸がぎゅっと痛む。
それは空腹だけじゃなくて、“人間じゃない”というどうしようもない現実だった。
通りの向こうに、小さな子どもと母親が歩いている。
その視線が一瞬だけこちらに向いた。
――でも、すぐに逸らされる。
俺は、見えない存在になった。
*
公園のベンチの下に、パンの袋が落ちていた。
近づくと、少しだけ残ったチョコパンのかけらがあった。
かじる。甘い。涙が出るほど、ありがたい。
(……これ、誰かの落とし物か)
自分でも情けないと思った。
でも、背に腹は代えられなかった。
食べ終えて空を見上げる。
今日は雲ひとつない青空だった。
どこかの教室で、誰かが何かを話していて、笑っていて――
俺はそこに、いない。
咲良も、今ごろ教室にいるのだろうか。
席の隣が空席になったことを、気にしてくれるだろうか。
……いや、きっと気づくけど、それだけだ。
「にゃあ……」
胸が、きゅうっと締めつけられる。
言葉にならない声が、空に吸い込まれていった。