第3話 暗い評判②
あるとき、通りかかった廊下で侍女たちが立ち話をしているのを見かけた。どうやら私に気づいていないようなので、そっと横切ろうとしたが、その断片的な会話が耳に飛び込んでくる。
「そういえば、あの子が少し前に盛大に皿を割って、料理人を責め立てていたって話、知ってる?」「ええ、耳にしたわ。どこまで本当かはわからないけれど、泣かされた見習いの子がいたそうよ」「怖いわね。私も注意されるならまだしも、叩かれたりしたらたまらないし……」
皿を割り、料理人を責め立て、見習いを泣かせる。そこには暴力さえ感じさせる言葉が含まれていた。その光景を想像すると、ぞっとするが、少なくとも“今の私”にはそんなことをする理由も動機もない。以前の“私”がそうだったのか、それとも誇張された噂がひとり歩きしているのか。確かめる術すらなく、ただ言葉の凶器が胸をえぐってくる。
やがて侍女たちの視線がこちらに向き、私と目が合う。すると、先ほどまでの会話を打ち切るように口を噤み、軽く頭を下げて足早に去っていった。もはや私がこの場を見て聞いていたかどうかなど、どうでもいいといった態度だ。気まずいよりも先に、軽蔑や忌避の念がにじみ出ているのがわかる。自分の存在が生理的に嫌われていると感じてしまって、言い訳もできない苦しさがのしかかる。
「いったい、どうして……」
部屋に戻ると、思わず独り言が溢れ出る。事故で死にかけたあの日から、私の人生はすべてが狂ってしまったかのようだ。本当なら、もっと生きたいと望んだ結果がこの形だとしても、それはあまりに残酷ではないだろうか。何の因果で、こんな場所に放り込まれ、他人の犯したかもしれない過去の行いを背負わされているのか。
この国の言葉や文化は、辛うじて頭の中で自然に理解できるようだが、どこか現実味を欠く。誰も私に必要な説明をしてくれないし、部屋を出れば冷たい視線が突き刺さるばかり。それに加えて以前の“この体”の悪評がまるで呪いのように追いすがり、私を孤立させているのだ。振りほどきたくても、それは過去の出来事として染みついていて、周囲から何度もささやかれるうちに、私自身が息苦しさに耐えきれなくなっていく。
中には「縁起が悪い」という話まで出ている以上、ただ嫌われているだけでなく、私の存在そのものが不吉とされているような節もある。まるで触れてはいけない汚れ物のような扱いだ。もしこの噂が屋敷の外にも広まっているのだとしたら、私は外を自由に出歩くことさえリスクになりかねない。いや、そもそも勝手に外へ出る勇気などないが……逃げ場のなさを痛感するたび、内側に積もる閉塞感が際限なく膨らんでいく。
「なぜ誰も、はっきり教えてくれないんだろう」
知りたいのだ。実際に以前の“私”がどんな行いをして、どんなふうに周囲を傷つけてきたのか。それがわかれば謝罪のしようもあるし、何か改善策を講じられるかもしれない。しかし、聞く相手がいない。誰も私を積極的に責め立てようとはしない代わりに、直接言及もしてこない。ただ面倒な存在として距離を置き、陰で噂をささやくだけ。それでは私は何もわからないし、何も変えられない。
答えのない問いを抱えたまま、また日が落ちていく。夕暮れ時になると、屋敷の廊下はさらに人影が減り、暗さを増す。使用人たちが談笑している気配はほとんどなく、話し声が聞こえてもすぐに遠ざかっていく。まるでこの場所全体が沈黙をまとっているようだ。もしかすると、彼らにとっては私がいる限り、心底くつろぐことなどできないのだろう。
少しでも落ち着こうと、私は蝋燭の明かりを頼りに机へ向かった。紙とペンがあれば何かしら書き留めることで心を整理できるかもしれない。実際のところ、ここに来てからまともに書類らしきものには触れていないが、引き出しを探れば何か用紙の一枚くらい出てくるかもしれない。そう思って机の引き出しを開けたが、中には茶色く変色した紙片や小物だけが雑然と入っている。筆に似たものを取り出してみたが、インクが固まっているのか、書ける状態ではなさそうだ。焦ったところでどうにもならず、私は諦めてそれらを元の位置に戻す。
暗い部屋の中、やることも見つからないまま、私はひたすら自問を繰り返す。周囲の人々が抱く悪評は、もしかしたら誇張なのかもしれない。あるいは事実かもしれない。どちらにせよ、私の口から否定する術はない。この世界が私に与えるのは、混乱と孤立感だけだ。誰かが手を差し伸べてくれればと思うが、そんな希望すらここには存在しない。今のところ、誰一人として私に明確な言葉をかけてくれた者はいないのだから。
「もし、あの時、事故で死んでいたほうが楽だったのかな……」
あまりにも重い問いが、ふと心によぎる。死を望んだわけではない。でも、ここで苦しむよりは、あのまま意識を失っていた方がよほど安らかだったのかもしれない。そんな思いがよぎる自分に対して嫌悪感を抱きつつも、止めることはできない。生きたかったはずなのに、私が願ったものはこんな苦痛な世界なのだろうか。結局、願いはかなっても幸福には程遠いという現実に、皮肉さえ感じる。
外はやがて夜の帳に包まれ、廊下の灯りもわずかになっていく。昼間のうちに聞いた悪評の断片が、頭の中にこびりついて離れない。わがまま、自分勝手、縁起が悪い、果てには暴力的――どれほどひどい評判を集めていたのか、想像するだけで気が滅入る。それらが誤解なのだと説明してくれる人がいない以上、私はこのレッテルを貼られたまま生きていかねばならない。
「私は、何をしたんだろう」
また一人きりの部屋で、つぶやきが虚空に消える。どんなに考えても答えに行き着けない。誰も教えてくれない。自分ですら知らない自分の“過去”を背負わされている恐怖に苛まれ続けるだけだ。今の私にできることは、ただ意識が耐えられる限り、この理不尽を受け止めるしかない――それでも、たったひとりで抱え続けるには重すぎる悲しみと不安が、喉元までこみ上げてきた。
このまま何もわからずに過ごして、いつか本当の意味で壊れてしまうのではないだろうか。そんな漠然とした予感を抱きながら、私はかすかな光を頼りに寝台へ身を沈めた。湿り気を帯びた薄暗い部屋が、まるで私を閉じ込める檻のように思えてならない。希望の兆しすら見えない夜は、一層長く苦しいものに感じられた。そうして私は、胸に渦巻く疑問を抱えたまま、また不安定な眠りへと身を投じるしかなかった。誰もが私を敬遠し、何も教えてくれない――そんな絶望が、夜の闇とともにじわじわと心を蝕んでいくのをどうすることもできなかった。