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第3話 暗い評判①

 それからしばらく、私のまわりには奇妙な沈黙と、そこかしこに漂う重苦しい空気だけが続いていた。どこを歩いても使用人たちは私から目をそらし、無言で距離をとる。その態度に慣れられるはずもなく、私はやり場のない焦燥感を抱えながら、ただ日々をやり過ごすしかなかった。


 そんなある日のこと。いつものように誰とも言葉を交わさないまま廊下を歩いていると、ふと耳を引くささやき声が聞こえてきた。小さな声だったが、慌ただしい足音にまぎれて確かに聞き取れる。私はとっさに足を止め、壁際に身を寄せて気配を消す。どうせ私の姿を見られれば、また逃げられてしまうだろうと思うと、こっそり盗み聞きするしか手段がなかった。


「……あの方がまた、部屋の外を歩いていたらしいわよ。見ちゃったの?」「見たくもなかったわ。できるだけ避けたいのに、こうして顔を合わせると……縁起が悪い気がしてならないのよね」


 そんな会話が私の耳に飛び込む。声色には明らかな嫌悪感が混じっている。どうやらその“あの方”というのは、他でもない私のことらしい。縁起が悪い――まるで疫病神のような扱いだ。自分でも驚くほど、心臓が冷たく縮み上がるのを感じる。今までも同じような悪意のこもった視線を肌で感じてはいたが、こうして言葉として耳にすると、まるでナイフで心を抉られるようだった。


「でも、あの子の噂って本当かしら。勝手気ままに振る舞って、周囲を振り回していたっていう話……」「本当なんじゃない? 私が来る前に大勢が辞めていったって聞くし。うわべはともかく、裏ではえげつないことをしていたって、みんな言ってるわ」


 ぞっとするほど生々しい噂が続く。私は息を殺したまま、壁越しに立ち尽くすしかない。“勝手気まま”や“周囲を振り回す”という表現を聞いても、私にはまったく身に覚えがない。ここへ来てから、使用人たちとまともに会話すらしていないのだから。ただ、この身体がもともと住んでいた“人格”については何もわかっていない。事故後に突然目覚めたときから、私はこの姿だった。つまり、この身体の“以前の持ち主”とやらが、そうした酷い評判を得ていた可能性は否定できない。それが誤解なのか事実なのか、私には判断する材料がない。


 ふと、話し声が止み、急ぎ足でその場を立ち去っていく気配がした。私はそれを見送ることもできず、廊下の角からひそかに様子を覗く。そこにはもう誰の姿もない。静まり返った空間に、私の心臓の鼓動だけがいやに大きく聞こえていた。今聞いた会話の内容が頭の中で反芻されるたび、胸がひりついていく。こんな形で知りたくはなかった。けれど、噂通りなら、この世界での“私”は、ひどく嫌われている存在ということになる。


 自室に戻るまでの道のりは、やけに長く感じられた。途中ですれ違う使用人たちがどういう思いで私を見ているのかを考えると、息苦しさが増していく。廊下の先で小声でささやかれるのはきっと私のこと。そんな被害妄想めいた考えが頭を離れない。扉を閉めた瞬間、どっと疲れが押し寄せ、私はベッドの脇に腰を下ろした。


「わがままで、自分勝手で、縁起が悪い……」


 声に出して繰り返すと、他人事のように思えないのが不思議だった。むしろ皆がこうして私を避ける理由が、ようやくわかりかけてきた気がする。もともとの“私”――つまりこの身体の持ち主は、この屋敷内だけでなく周囲にも悪評を振りまいていたらしい。それこそ、使用人が大量に辞めるほど性格が悪かったとか、何らかの不吉な出来事を引き寄せると言われるほどの存在だったとか。だからこそ、侍女や使用人も不自然なほど冷たいのだろう。私としては、まったく身に覚えのない罪を着せられているような感覚だが、ここにいる人々からすれば、私はもともとそういう人間だと思われている。そこに疑いすらないのが厄介だった。


 確かに、もし本当に以前のこの身体が周囲に迷惑をかける言動を繰り返していたのなら、彼らが私を警戒するのも無理はない。だが、私は事故に遭ったあの瞬間からしか記憶がない。ここの暮らしがどういうものかも知らないし、彼らに何かした覚えなど当然ない。けれど、彼らにしてみれば“いつものあの子”が急にしおらしくしているだけかもしれないと思うだろう。そう考えると、誤解を解くのは容易ではなさそうだ。


「……誤解なのか、それとも本当にひどいことをしていたのか」


 独り言のようにつぶやいても、答えは出ない。過去を知る手がかりがない以上、どうしようもないのだ。誰かに事情を聞きたいが、話しかけようとすると逃げられるか、曖昧に誤魔化されるかだろう。多くの人から見れば、私は反省したフリをしているだけの問題児、あるいは下手に近づくと大きなトラブルを巻き起こすかもしれない厄介者。そんな存在にまともに付き合う者など、いるはずもない。


 そうして途方に暮れていたある日のこと。昼過ぎに中庭の方から妙な叫び声が聞こえてきた。何事かと思い、窓から外を見下ろすと、庭師らしき人が真っ青な顔で中庭を指さしている。その先には倒れた植木鉢があり、庭師の足元には割れた陶器の破片。それを見物している数人の使用人たちがひそひそと何か言い合っているのが見えた。やがて視線が私の部屋のほうへ向き、その中の一人がぎくりとした表情をしたのを察知した瞬間、私は嫌な予感に駆られた。


 まるで“ああ、またあの人のせいか”と言わんばかりの目だ。実際、私は何もしていないのに、彼らの中では私の名前を想起させる出来事があるたびに“またか”という空気が広がるのだろう。こんな風に、些細な事故ですら私の因果に結び付けて考えられるのだ。もし会話が聞こえる距離にいたら、きっと「縁起が悪いから近寄るな」とささやかれるに違いない。気づけば私は窓を閉め、その場にしゃがみ込んでしまった。まるで逃げ場のない不安に包まれ、動悸が早まる。


 屋敷の中の廊下や部屋を移動する際にも、かすかに聞こえる陰口が頭をよぎる。「あの子に近づくと、良くないことが起こる」「わけもなく不機嫌になって、あちこち八つ当たりしたことがあるらしい」……どれも、私が目覚めて以降はやっていない行為なのに、過去の誰かが重ねてきた負のイメージは根強く残っている。私とは別人だと言い張りたいところだが、姿がまったく同じ以上、それを証明する方法なんて見つからない。


 思い切って誰かに真相を問いただそうかと考えたが、勇気が出ない。そもそも使い方のわからない言葉や、この屋敷内での礼儀作法など、あまりに未知が多すぎる。下手に行動すれば「また失礼な態度を取った」と言われかねない。相手は嫌がっているし、私が何を言っても“今さら取り繕っても遅い”と一蹴されるかもしれない。それを想像すると、ただ怖くて足がすくんでしまう。

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