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第2話 冷えきった館③

 私は再び自室へ退散するしかなかった。そろそろ日が高くなる頃合いだろうか。カーテンを開けても薄暗い光しか入らない部屋の中で、重苦しい空気がずしりと胸にのしかかる。どうしてこんな場所にいるのだろう。どうして誰も、私をまともに扱ってくれないのだろう。自問しても答えは見つからない。現代の常識を持ち込んでも、それを受け止める相手すら存在しないのだ。


 もし仮に、ここが本当に“私の家”だというのなら、本来なら家族の誰かが顔を見せるはずではないだろうか。少なくとも、言葉を交わす機会があってもいい。だが一向にそんな気配はなく、使用人たちだけが不気味な陰口を叩きながら動いている。その様は、私にとって完全なるアウェイでしかなかった。


「……このままじゃ、気が狂いそう」


 つぶやきながら、ベッドの隅に腰掛ける。部屋の中の調度品は高級で歴史を感じさせるが、それも私には無機質なだけで、心を落ち着かせるどころか余計に不安を煽る。クッションやシーツの手触りすら、どこかざらついて馴染まない。靴も日本のスニーカーなどとは程遠い硬い革靴で、足先が冷えるように感じる。


 まるで動物園の中の奇妙な生き物として、私はここに展示されているのかもしれない。使用人たちは檻の外からこそこそと噂をささやき、触れようとはしない。そんな錯覚にさえ陥る。どれだけ耐えれば、何かつかめるのだろうか。この世界が私を拒む理由を知る前に、私の精神が限界を迎えてしまいそうだ。


 暗い思考から抜け出したくて、ふと立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。外には庭らしき景色が広がっているようだが、曇り空の下で灰色がかって見える。それだけでも十分に重苦しい。色とりどりの花が咲いているわけでもなく、遠くに見えるのは手入れされたらしい木々の陰影と芝生だけ。そこには人影がない。外の世界もまた、私を拒絶しているような静寂に包まれていた。


 カーテンを閉め、再びベッドの脇へ戻る。どこに行っても同じだ。使用人たちに尋ねれば尋ねるほど、私に突きつけられるのは冷たい視線か、意味をなさない言葉ばかり。まるで“あなたはここにいてはいけない”とでも言われているようで、息苦しさが止まらない。私はいったい、いつまでこんな日々を過ごさなければならないのか。そもそも抜け出す方法なんてあるのか。答えのない疑問が幾重にも重なっていき、気づけば唇を強く噛みしめていた。


「……なんとかしなきゃ」


 そう思っても、この屋敷に私の声をまともに聞いてくれる人はいない。説得するにも、まずは話す機会を得なくてはならないが、誰一人それに応じてくれないのだ。勝手に部屋を飛び出せば、さらに不審がられるだけ。どうしたって閉塞感から逃れられそうにない状況に、もはやため息すら苦い。現代での日常が、どんなに恵まれていたかを今さら思い知らされる。通じ合える相手がいるということが、どれほど大きな救いだったのか。


 どれくらい時間が経ったかもわからない。考えていても進展はないとわかっていても、頭の中を巡るのは逃げ場のない絶望ばかり。いつしか日が傾き始め、また冷えが増してきたのを感じて顔を上げる。こんな閉鎖された環境で、ただ暗い時を過ごすしかないのだろうか。


 すると、不意にノックの音が聞こえた。ドア越しに、誰かの気配がする。さっきの侍女だろうか。それとも別の使用人だろうか。期待と不安が一気に押し寄せ、思わず息を飲む。こんな私の部屋を訪ねてくるなんて、何か用事でもあるのか。それとも何らかの通達があるのか。


「……はい」


 控えめに返事をすると、ドアがわずかに開く。そこから顔を覗かせたのは、朝に私を食堂へ案内した侍女だった。彼女は相変わらず落ち着かない表情で、目を伏せながら低い声を絞り出す。


「お嬢様……お部屋の支度やお着替えなど、必要なものはございませんでしょうか」


 その言葉に、私は少しばかり戸惑う。必要なもの――本来であればたくさんある。けれど、ここでの生活の常識がわからないまま、何をどう頼めばいいのかも判断がつかない。ましてや侍女が心から私を気遣っているわけでもなさそうだ。声をかけられるたび、どこか面倒ごとを引き受けているような負担感が見え隠れする。


「そう……ですね。特に思いつかないです。ありがとうございました」


 答えながら、自分でも虚しくなる。私が望むのは、こんな形ばかりの世話ではなく、もう少し事情を教えてほしいとか、せめて人として会話がしたいとか、そういう根本的なことなのに。侍女はほっとしたようにうなずくと、すぐに姿勢を正し、そそくさと扉を閉めて立ち去ろうとする。


「あの……待ってください」


 いてもたってもいられず、私は呼び止めた。彼女の背中がぴくりと強張る。恐る恐る振り返った侍女の目には、面倒に巻き込まれることへの嫌悪が浮かんでいるように見えた。けれど私はそんな彼女の態度を気にしないわけにはいかないながらも、何とか問いかけを続けるしかない。


「ここの……屋敷の主の方は、いついらっしゃるんでしょうか。どなたもお会いできないようで……」


 恐る恐る尋ねたが、侍女は視線を逸らし、曖昧な言葉を繰り返すばかりだった。「いずれお会いになるかと……」と。それ以上の情報は得られない。私がどれだけ聞いても、はぐらかすような言葉に終始している。


 結局、侍女は何も説明しないまま、慌ただしく部屋を後にした。ほんの数分の出来事だが、それでも私は疲れ切ってしまう。私を取り巻く状況があまりにも閉ざされていて、暗闇の中でもがいている気分だ。誰一人として、私の疑問に答えようとしない。そればかりか、私が存在すること自体を重荷と思っている節さえある。


 部屋の空気は重苦しい沈黙に戻り、私はまた一人きりだ。結局のところ、この広い屋敷でどう暮らせばいいのか、誰も道を示してくれない。使用人の冷たい視線が突きつける現実は、私がここで歓迎されていないことをはっきりと物語っていた。


 心の奥底に小さな絶望が芽生える。もし私が何かをしでかしたのだとしても、記憶にはまったくない。けれど、この場の人々は私がここにいるだけで“不穏”と感じているようだ。なぜなら、その根拠もわからないし、反論の余地すら与えられない。まるで生きているだけで罪を背負っているかのように扱われるのは、こんなにも辛いのか。


 まどろむような暗さが窓の外に広がり、昼下がりだというのに光は弱々しく、どこか淀んだ風景が見える。部屋を出れば侍女や使用人たちの冷ややかな反応に怯まされ、部屋にいても孤独が苛むだけだ。現代の日本であんな形で死を迎え、気づけば謎の屋敷の中。私の人生は一体どうなってしまったのか。どこにも答えはないまま、ただ時間だけが過ぎていく。


 この世界のいったいどこに、私の逃げ場はあるのだろう――そんな考えが脳裏を離れない。期待や希望を抱ける要素は何一つなく、手探りで進もうとすればするほど心が荒む。私はそんな絶望を抱えたまま、再び窓際に立ち尽くした。いずれ夕闇が訪れ、この部屋はさらに冷え切っていくだろう。暗い夜を、また一人でやり過ごさなければならないのかと思うと、ため息さえも苦く淀む。


 誰もいない中庭の向こうで、遠くの木々が風に揺れているのが見えた。けれど、その揺らめきですら私には寒々しく、どこか死んだように見える。まるで私の居場所など、どこにもないと言わんばかりの光景だった。私は窓ガラスに映る自分の姿を見つめる。そこにいるのは、やはり見慣れない少女の顔。“私”として生きるしかないのだろうか。この屋敷の人々に疎まれながら、ただ息をするだけの日々を送るのか――息苦しさが増すにつれ、頭の中が真っ暗になりそうな感覚に襲われた。現代の当たり前を何もかも失い、ここでは何一つ通じない。そんな惨めさと孤立感だけが、胸をかきむしるように広がっていくのだった。

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