第2話 冷えきった館①
翌朝、目が覚めると、昨日の出来事が夢でも幻でもないことを突きつけられた。重たい布団の感触や、薄暗い部屋の空気は相変わらずで、あの見慣れない寝台の上に自分が横たわっている現実を否応なく突きつけてくる。まるで何も変わらない夜が過ぎただけだというのに、私にはもう後戻りできないほどの異世界が続いている気がしてならなかった。
「……やっぱり、戻れないんだ」
声に出すと、暗い部屋の中に自分の声が虚しく響いた。身体を起こそうとすると、まるで知らない誰かの腕と脚を動かすようなぎこちなさを感じる。それでも意を決して寝台を下り、ゆっくりと扉へ向かった。昨夜は気力が尽きてしまい、そのまま寝台に身を沈めてしまったが、朝になれば多少は自分で確かめられることもあるだろう。ここがどんな場所なのかを知りたいという気持ちと、恐怖や不安から逃れたいという思いがない交ぜになり、足取りは不安定ながらも廊下へと続く扉へ手をかける。
扉の外は、想像していたよりも広い廊下が伸びていた。壁にはいくつもの小さな灯りの装飾があり、朝の弱々しい光がわずかに差し込んでいる。床には重厚な絨毯が敷かれていて、足音を吸い込むかのように静かだ。一歩踏み出すごとに、私の心臓は強く脈打つ。この場所が現実なのだと突きつけられるたびに、じわりと胸が締め付けられた。
周囲を見回すと、視界の端に人の姿がちらりと映る。年配の男性や若い女性が行き来しているようだが、皆が皆、私と目が合うと、わずかに顔をこわばらせてから急いで視線を外す。声をかけてくれるどころか、近づこうともしてこない。そのあからさまな拒絶に胸が痛む。まるで私を見たくもない、関わりたくもないと言わんばかりで、彼らの足取りは速まっていく。
もともと私は人見知りをする方ではなかったと思う。現代の日本にいた頃は、わからないことがあれば店員に尋ねたり、困ったら遠慮なく周囲に助けを求められた。だからこそ、ここでも誰かに状況を聞けば何かしらの答えが返ってくるのではないかと期待していた。けれど、この館の使用人たちは、私の姿を見るなりとにかく避けるように通り過ぎるだけだ。冷ややかな空気が廊下に満ちている。
それでも何とか意を決し、近くを通りかかった侍女らしき人物に声をかけた。歳は私よりやや上くらいに見える女性で、淡い色のエプロンを身に着けている。
「すみません、少しお聞きしたいことが……」
しかし私が話しかけると、その女性は一瞬ぎょっとした表情を浮かべ、軽く頭を下げただけで足早に去ってしまう。まるで言葉を交わすこと自体を避けるように。引き留める間もなく、彼女は長い廊下の向こうへ消えていった。その後ろ姿を見送りながら、血の気が引くような感覚に襲われる。ここでの私は、よほど話しかけられるのを嫌われる立場なのかもしれない。そう思うと、言いようのない孤立感がさらに増していく。
このまま廊下をさまよっていても、得られるものはなさそうだ。そう判断し、まずは自分が眠っていた部屋に戻ろうとした。そのとき、別の侍女がバタバタと足音を立てながら近づいてきて、小さく息を呑むと、ぎこちない笑みを浮かべて私に声をかける。
「お、お嬢様、起きていらしたのですね。朝のお支度を……」
「お嬢様」と呼ばれたことで、胸がどきりとする。私にはまったく馴染みのない響きだ。侍女は取り繕うように言葉を重ねるが、その瞳には戸惑いと恐れが混じっているように見える。
「そろそろ朝食を……もしお加減が良ければ、食堂の方へ……」
彼女の言葉はどうにも不自然な敬意を含んでいて、どこか恐怖を押し隠しているような息苦しさが感じられた。私は何とか笑顔を作ろうとしたが、うまく笑えず、曖昧にうなずくだけしかできない。
「……わかりました。案内してもらえますか?」
自分でも驚くほど小さな声で答えると、侍女はまたぎこちなく微笑み返し、私を先導するように歩き始める。私に背を向けた瞬間、その侍女の表情がさっと曇ったのを見逃さなかった。まるで「どうしてこんな役目を押し付けられたんだ」とでも言いたげな憂鬱そうな面持ち。声には出さないが、やはり私と関わることを嫌がっているのは明白だった。
しばらく無言のまま廊下を進む。ところどころに飾られた金属製の装飾品や、大きな花瓶に生けられた花は華やかと言えば華やかだが、それらを眺めても心は少しも晴れない。むしろ薄暗い窓から差し込む光が、こうした装飾の陰影を一層際立たせていて、その荘厳さがかえって息苦しさを増すように思える。これは紛れもなく大きな屋敷だ。けれど、その広さや豪奢な調度品は、私にとってはただの未知なる空間に過ぎない。
階段を下り、廊下をいくつも曲がり、ようやくたどり着いたのは食堂らしき広間だった。長テーブルの両脇に整然と椅子が並び、その奥には暖炉がある。すでに数名の使用人が準備を進めているようだが、私が姿を見せた瞬間、彼らは一瞬息を飲んで、忙しなく作業を続ける振りをする。誰も私と目を合わせようとしない。まるで、私の存在そのものが“気まずい”ものであるかのように。
「では、こちらへお座りください」
侍女はそう言って、テーブルの端にある椅子を引く。そこに腰掛けるよう促されて私は遠慮がちに座ったが、背後から突き刺さる視線を感じて落ち着かない。視線というよりは、もっと暗く冷たい感情がじわりと迫ってくるような居心地の悪さだった。ふと、私が椅子に腰かける際に何かドスンと音がしたのだろうか、遠くで笑い声めいた小さなささやきが聞こえた気がした。明らかに嘲弄が含まれているようで、思わず肩をすくめてしまう。
しばらくすると、一人の給仕係が皿を運んできたが、私と目を合わせることなくテーブルに置き、最低限の礼だけで立ち去っていく。そこにはパンのようなものと、野菜の煮込みらしき料理が載っていたが、食欲をそそる匂いはしない。というより、心がざわついてとても食べる気になれない。
「……ありがとうございます」
か細い声でお礼を言っても、誰一人反応を示さない。味方のいない場所。私はそう実感して、気持ちがさらに暗く沈む。ここはまるで自分の居場所ではない。食べ物に手を伸ばす気力もわかず、うつむいていると、侍女の一人が恭しく近づいてきた。
「お嬢様、体調はいかがでしょうか。昨夜はよくお休みになられたでしょうか」
表向きは気遣う言葉だが、その声色はどこか底が冷たい。まるで形だけの質問を投げかけているように感じられる。私は迷った末、「大丈夫です」とだけ答える。実際には大丈夫なんかじゃない。それでも、弱音を吐くこともできない空気だ。
侍女は私の答えに興味があるわけでもないのだろう。「そうですか」と短く言い捨てると、再び視線を落として静かに立ち去った。何か聞きたいことがあれば今のうちに、と言われているようにも見えたが、彼女の冷ややかな態度に萎縮してしまい、結局私は何も言えなくなる。
残された食事に手をつけることもできず、気まずいまま椅子を立った。自分がこの食堂にいることさえ、周囲の人間には不快なのではないかと思えてしまうほど、息苦しさがつのる。まだ身体に馴染まない動きで、そっと廊下へ戻る。朝食をとらなくても何とかなるだろうという思いと、どこにも安らげる場所がないという絶望感が押し寄せてきた。
部屋へ戻るべきか。廊下を歩きながらも、頭の中はそればかりがぐるぐるしている。現代の感覚で言えば、まずは当主や家族に挨拶をするべきだと思う。しかし、いくら探してもこの屋敷にそうした人物の気配がない。あれだけ広い屋敷だから、すれ違うことがあってもおかしくないはずなのに、一向に姿を見ないのだ。
使用人の中には、私が視界に入るたびに何かをひそひそとささやいている者もいるようだった。耳をそばだてると、断片的に「無理をして……」「あの子が……」と聞こえてくるが、その先は明確に聞き取れない。けれど、それが歓迎や親愛の情ではないということは、言われなくともわかる。どちらかといえば避けたい、もしくは関わり合いになりたくないという雰囲気だ。そう思うと、自分の存在がひたすら疎まれているかのような悲しみが、すとんと胸の奥に落ちてくる。