第18話 虚無の残響
処刑が行われた翌日の朝、王都の空は不気味なほどに澄み渡っていた。重い雲が垂れ込んでいたはずの空気は嘘のように晴れ、街路には早くも活気が戻っている。まるで血の匂いなど最初から存在しなかったかのように、店も行商人も平常通り客を呼び込み、通りを往来する人々の間から昨夜の死を追想する者の姿はほぼ見当たらない。市場では相変わらず値段の交渉が行われ、貴族たちは豪奢な馬車で悠々と走り去り、あの惨劇はほんの小さな通過点として風に消えていった。
あれほど大騒ぎになった反逆疑惑や財務上の不正も、実質的な幕引きを迎えた。罪を着せられたひとりの娘が処刑されて以降、その根本的な原因を探ろうという動きは表面上すっかり静まり返っている。見かけ上の混乱は収束した形になり、国の秩序を乱す要因はすべて消し去られたという名目で、王城からも新たな追及の声はほとんど聞こえなくなった。だが、一部の者はひそかにほくそ笑んでいる。何らかの陰謀を練り、自分たちの権力を固めるために、あの娘を利用した者たちがいるのだ。
「見事に厄介事を片付けたな。あの家も何とか体面を保ち、国も民衆への示しがついた。これ以上、大事にならずに済むだろう。実に都合がいい結果じゃないか」
そんな声が、とある貴族の屋敷の一室で交わされていた。時折、大きな窓から陽光が差し込み、金細工の調度品がきらりと照り返す。背の高い書棚の陰で、数名の重臣や官吏が顔を近づけ、ひそひそと言葉を交わす。その中には、財務面で権利を得たと噂される者もいれば、新しく政治の実権を握る立場に昇進した者もいる。彼らは周到に流れを誘導し、あの娘を犠牲に仕立て上げることで、己の目的を達成したのだ。
「実のところ、彼女が本当に何をしていたかなど問題ではなかった。ただ、罪をかぶせるには格好の存在だったのだろう。周りの評判も悪かったし、家族からも疎まれていたから、誰もかばうはずがない」
口にこそ出さねど、彼らの瞳には計略の成功に対する満足がちらついている。小さく談笑し合いながら、今後の動きや自分たちの利益を再確認し合う。こうして“真犯人”とも言える者たちが新たな地位を確立し、国の中枢でさらなる栄達の道を進み始めている。その背景には、ただ一人の娘を生贄にすることで得た権勢があるのは明白だった。
一方、あの娘の家がどうなったかというと、当主はいつも通り振る舞い、周囲には「残念なことだったが、これも国のためには仕方あるまい」と言葉を濁している。家の威信を保つため、表向きは娘の存在をすっかり封じ込めているようだ。屋敷の使用人たちも、不気味なほど無言で日常の雑務をこなし、来訪者があっても丁重に迎え入れている。まるで処刑など夢だったかのように、かつての主を語る者は皆無だ。
「ふと考えてみれば、あの娘が消えてくれたおかげで家が救われたようなものだ。これ以上、恥を晒さずに済むだろう」
すれ違う使用人の一人がそうこぼす。同僚は軽くうなずき、「私たちもやっと落ち着いて働けるわね」と淡々と答える。そんな話題すら長続きはしない。今は新しい案件に忙しく、次の夜会や新しい主の命令に従うことに追われているのだ。屋敷内にはあの娘の痕跡などほとんど残されず、誰もが深く関わりを持つことを避けるように過ぎ去っていく。
そのころ、街の広場では新たな見世物が始まった。旅芸人がやってきて、音楽や舞踊で通行人を楽しませている。わずか数日前まで惨い処刑が行われた場所だが、今では笑顔や喝采が響き渡り、あの光景は人々の記憶からほとんど消え失せたらしい。極まれに「あそこは数日前に処刑台だったのでは?」と口にする者もいるが、友人や通りすがりの人は「さあ、もう終わったことだろう」と相手にしない。大方、関心を抱くことすら馬鹿らしいと感じるのだろう。
夜が来るたび、社交界は再び華やかに舞踏会を開き、新たな縁談や利害関係を取り結んでいる。誰もが己の身分や発言力を高めるために奔走し、時には陰謀を巡らせながらも、あの娘の死など取るに足らない些事として忘れ去っている。かつて婚約者と呼ばれた青年もまた、「近々、どこそこの令嬢との結婚を検討している」などと話題をさらい、仲間たちと夜会を楽しんでいるようだ。もはや自分が直接関わった断罪劇を記憶に留める気もないらしく、街のどこにも哀悼の気配は感じられない。
そして、あの“事件”の真相を追おうとする者もほとんどいない。わずかに不正を疑う声があったとしても、すでに処刑が執り行われたことで幕が引かれた形になり、また新たな陰謀の種が別の場所で仕込まれている。人々の興味は常に新しい噂へと流れ、死んだ者の名を口にすることははばかられる。名門の身内が絡む争いも、公式には「円満に解決」したことになり、誰も深く追及しない。そうして主犯は涼しい顔で権力を得たり、新たな政治の地位に就いたりしている。
結局、あの娘の死には何の意義も見いだされず、関係者はそれぞれの利益を守り抜いたまま日常へ戻る。誰も責任を追わず、ほんの一瞬、巷を騒がせた事件は風化の道をたどるだけ。貴族同士の利害関係や金銭のやり取りは円滑に進み、一部の者は着々と地位を固め、驚くほど平穏な顔でこの世界を回している。全てはあの娘を犠牲にして得た成果だとしても、それをあからさまに口にする者はいない。ただ密かな暗がりで、勝者が祝杯を上げているだけ。
街角で会話を盗み聞きすれば、誰もが次の行事や自分の営利に忙しい。少し前の処刑を覚えている者は「あの子の首が落ちるのは一瞬だったね」「ま、あれも運命というやつさ」と嘲るだけで、同情も後悔もない。時間は途方もなく淡々と流れ、誰もが己の暮らしに再び埋没し始める。こうして名もなき人生が一つ、埃のように消え去っていく。
結局、あの娘の死後も権力争いは途絶えず、国の表面は仮初めの平穏を取り戻しながら、裏では新たな策略が渦巻いていく。民衆は栄える者を持ち上げ、落ちた者を見放す。その波に乗れなかった命など、ごく短い間の話題として消費され、すぐに別の噂や祭典が人々の意識を奪ってしまう。この世界の歯車は無慈悲に回り続け、誰かの犠牲など見向きもしない。
こうして、彼女の名前も姿も、王都から完全に消し去られてしまった。心を痛める者はほとんどおらず、街のどこを見渡しても、その影一つ見つからない。かつて彼女が必死に生きようとした記憶は、誰の胸にも残らず、ただ闇の奥底に沈んでいく。気まぐれに口に出す者がいるとすれば、陰でささやく新たな噂の種か、忌まわしい厄介事の一例として誇張して語るだけだ。
その頃、処刑台の上からは血の跡が洗い流され、台座は速やかに取り外される。もうそこに娘の息遣いを感じる手がかりは欠片もない。洗い流された真紅のしみだけがわずかに土を濁らせるが、風が吹き、雨が降れば、すぐに痕跡すら消えるだろう。生と死の境目にあった悲鳴や嘆きは誰も覚えていない。生き残った者たちは皆、思惑を胸に秘め、悠々と明日の予定を再構築している。
街の鐘が夕刻を告げる頃、すでに人々はそれぞれの夜を楽しみにしていた。豪奢な晩餐会の支度が進み、商人は今日の売り上げを数え、侍女たちは貴族の宴へ赴く準備を慌ただしくこなす。誰もあの娘のことを考える気配はない。路地裏にはいつもと変わらぬ雑踏があり、路地角では子どもが遊びの声をあげている。そこへ死の影など全く差さないまま、日が沈んでいく。
そして国の中枢で権勢を振るう者たちの間では、あの事件は成功例の一つとして心に刻まれ、また別の画策を生む材料にされる。あの娘がどう生き、どう散っていったかを語る者はもういない。誰もが都合の良い解釈を並べ立て、真実など血とともに洗い流されてしまった。世界は変わらず動き続けるが、その歯車に捻り潰された命など、この国には無数にあるのだから。
かくして、悲惨な死を遂げた娘の存在は、王都の人々の記憶から徐々に薄れ、やがて完全に消え去る。混乱を晴らし、罪を被せた側は栄達の道を上り、勝者も敗者も等しく残酷な現実の中を歩き続ける。どこにも光はなく、救いの手など差し伸べられず、罪に問われた娘の亡骸は無言のまま闇へ葬られた。誰も思い返さないその命は、声の届かぬ暗がりに沈み込み、彼女が願ったはずの安らぎさえ、この世界からは永遠に失われた。
(完)




