第15話 絶望の行列②
地面に足をついた瞬間、鎖の縛めがきしむ音と、野次馬たちの歓声が入り混じり、吐き気にも似た絶望が押し寄せる。このまま無力なまま、何も言えず、ただ処刑の瞬間を迎えるしかないのか。必死にまとわりつく恐怖を振り払おうとするが、肉体も精神も限界は近かった。
途方もない苦しみの中で、日本での些細なシーンが脳裏に浮かんでくる。コンビニで買った飲み物を片手に歩いた帰り道、スマートフォンの画面を見ながら友人にメッセージを送った何気ない時間――あまりにも普通で、あまりにも当たり前だった日常。失った今では戻るすべすらなく、そこへ帰りたいと切望しても叶わない。むしろ、叶わないからこそ余計に苦しく、泣き叫びたくなる。
「あぁ……帰りたい。あの日常の中で、当たり前に息をしたかった……」
無意識に涙がこぼれる。周りからは「まだ泣くんだ。みっともない」「哀れな貴族め」という声が飛び交うが、もう悲しみを抑える力さえ残っていない。泣いても何も変わらないとわかっていても、溢れる涙は止められず、胸に湧き上がる虚無感が次々と想い出を汚していくようだ。
気づけば、処刑台へと続く足場が視界に入り始めた。台の上には黒ずんだ木製の台座が組まれ、その横に兵士が待機している。遠くから見てもわかるほど、鉄の匂いと血の記憶が染みついていそうな雰囲気を醸し出していた。野次馬たちはますます盛り上がり、「早くやれ」「首を落とせ」と口々に煽り立てる。まるでこの残酷な光景そのものを楽しもうとしているようで、私は背筋に寒気が走る。
誰かが私の手首についた鎖を強く引っ張り、私は前につんのめるように進んだ。痛みに耐えながら顔を上げれば、そこに広がるのは衆人環視の極み――数えきれない瞳が、私の最期を見届けるために集まっている。まとわりつく嘲笑と嫌悪感、そして他人の不幸に飢えた笑顔。それらを視界に収めた瞬間、心がついに砕け散る音がした。
やがて、兵士が鋭い声で「犯人を台へ」と告げる。その刹那、周囲が爆発的な歓声で揺れる。私はもう、頭の中が真っ白になって何を考える余裕もない。再び日本へ戻る夢など儚すぎて、手の届かない過去の幻想として崩れ落ちていく。もはやどこにも縋る場所などなく、ただ“終わり”がすぐそこに迫っているとしか感じられない。
瞼を閉じれば、ほんの少しだけ懐かしい風景が浮かぶ。ビル街の夕焼けや、賑やかな駅前。あの日常のぬくもりはこんなにも遠く、二度と触れることなどできない。その思いが胸を締めつけて、声にならない叫びを脳内で響かせた。けれど、開いた目の前にあるのは血生臭い処刑台と狂喜乱舞する人々。そこにあたたかさや情けなど微塵も感じられない。
「終わる……」
そんな簡単な言葉が心の奥からひっそりと漏れ出す。私の命と人生は、まもなく国のための見世物として幕を下ろすのだ。それを喜ぶ群衆と、無関心に従う兵士に取り囲まれながら、わずかに残っていた光は完全に閉ざされようとしている。自分が何者なのか、どうしてこんな結末を迎えるのか。いまさら問い直しても、答えなどどこにも見当たらない。
そうして私は、重い足枷の音とともに処刑台へと連行される。人々の目に映る私は、きっとただの犯罪者でしかなく、狂言回しの道化として見なされているに違いない。それでも何らかの奇跡を祈りたい気持ちがどこかにあったが、奇跡など起こらない現実が揺るぎなくそこに存在する。私は何も言えず、何もできず、せめて最後の瞬間にごく短い安らぎが訪れることを祈るしかない。
刹那、脳裏に鮮明な記憶がよみがえる。日本の青空や、現代の街の騒がしさ。その喧騒の中で生きていた自分。それを手放さなければいけない――否、もうとうの昔に手放したのだと、残酷な事実がのしかかる。兵士に背を押されて歩みを進めながら、そのあたたかな世界へ戻れない喪失感がじわじわと胸を抉る。どうしてこうなったのか、最後まで理解できないまま、私は死への道をただ進むだけ。
群衆の歓声や嘲笑がますます大きくなり、鼓膜を割るほどに響く頃、処刑台まで残り数歩――その瞬間に感じたのは、何一つ報われない哀しみだった。人々は私を憎み、嘲り、興味本位でこの場に群がっている。一方で、どこか遠い存在になり果てた日本は、優しい記憶のまま手を伸ばせば消えてしまう幻となり、私を置き去りにする。
「もう、何もない……」
胸にぽっかり穴が空いたような感覚だけが、息苦しいほどの絶望を運んでくる。鼻を刺す血と汗の匂い、石畳をこすれる鎖の響き、刺すような野次の声が混ざり合い、脳裏に流れる最後の映像をかき乱す。私はただ、壊れた人形のように引かれるがまま、死への道を歩み続ける。逃れようのない結末がすぐそこに待ち受けていることを、理屈も感覚もはっきりと告げていた。握っていたはずの希望は、遠い昔にこぼれ落ち、今はただ覆い尽くす闇に身体も心も溺れていく。
見上げれば雲が垂れ込める灰色の空があるだけ。私の涙でかすんだ景色はどこまでも陰鬱で、この先にどんな痛みが待っているのか想像するだけで膝が笑いそうになる。それでも私は兵士の力に抗えず、どんどん前へ進まされる。この狂乱の道程が終わるとき、私の存在も完全に終わるのだ。そう確信しながら、何もできない自分を呪うように唇を噛みしめるしかなかった。




