第1話 終末の呼び声②
すると、視界の端で誰かの気配が動いた。小柄な人影がすっと傍に寄り、淡々とした声で「お目覚めになりましたか」とささやく。私は思わず身をすくめる。そこにいたのは、白いエプロンを身に着けた若い女性だった。どこか時代錯誤なメイド服のような出で立ちが、私の混乱をさらに煽る。見知らぬ場所、見知らぬ服装の人物、そして見覚えのない自分の手――現実離れした状況に頭が混乱して、言葉が出ない。
「ここは……どこ……ですか……?」
かろうじて声にできたのは、弱々しい問いかけだけ。メイド服の女性はうっすらと眉を寄せ、無表情に私を見つめている。まるで私の存在自体を奇異なものだと思っているような雰囲気に、胸がざわつく。彼女は慎重に言葉を選ぶように口を開くが、その説明は曖昧で、私をさらに混迷の渦へと誘う。
「お身体が回復されるまで、しばらくは安静になさってください。これ以上を問われましても……まだ医師からの説明を待つようにとのことですので」
そう言うと、彼女はお辞儀とも会釈ともつかない動作をして、そそくさと部屋を出ていった。言葉からにじむのは同情でもなければ優しさでもなく、ただ事務的で距離を置いた態度。ここでは私は、どんな存在なのか。どうしてこんな場所に寝かされているのか。尋ねたいことは山ほどあるというのに、何もわからないまま取り残された。
落ち着かなければならない。それはわかっているのに、思考は空回りするばかりだ。もう一度、何か手がかりになるものはないかと目を凝らしてみる。枕元には小さな瓶と水差しが置かれている。それはまるで古いヨーロッパ映画で見るような形状で、とても現代の日本にある代物とは思えない。スマートフォンはおろか、時計すら見当たらない。どこをどう探しても、現代の日常を思い起こさせるものはまったくないのだ。
ふと、手鏡らしきものが机の上に置かれているのが目に入った。こんなときこそ、鏡を見れば何かわかるかもしれない。私はベッドの縁に足を下ろし、ふらつく足取りで机へと近づいた。足元がおぼつかないのは事故の後遺症のせいか、それともこの身体そのものの特性なのか。恐怖が膨れ上がりながらも、何とか手鏡を手に取る。
そして、そこに映し出された「顔」を見た瞬間、心臓が鋭く締め付けられた。私の知っている顔ではない。日本人の顔とも言い難い、鼻筋の通った少女がこちらを見返している。唇の色はどこか青白く、頬はわずかに痩けているようにも見える。長く伸びた髪は薄い色合いで、まったく馴染みのない質感だ。まばたきをすると、鏡の中の少女も同じように瞬きを返す――まぎれもなく、今の「私」だということを突きつけてくる。
信じられない光景に、思わず鏡を机に置き、後ずさる。私のものではない少女の顔が、私の表情のまま動いた。恐怖と戸惑いで頭が真っ白になる。これは悪い夢なのか、それとも死の淵で見る幻なのか。けれど、この空気の冷たさや物に触れた感触はあまりにもリアルで、夢だと片付けるには生々しすぎる。
必死に心の中で自問する。私は交通事故に遭ったはずだ。信号を渡ろうとした瞬間、あの車に撥ねられて……それなのになぜ、こんな場所で、見知らぬ少女の姿をしているのか。まったく理屈が通らない。死にたくなかった、もっと生きたかったという思いが、憎悪めいて胸の奥を熱くする。しかし今の私の姿は、それまでの人生を一瞬で否定するかのように思えてならない。
まだ混乱はおさまらない。救急車で運ばれた先の病院はどこなのか、医師はどんな処置をしてくれたのか。それとも、あれはすべて幻覚で、私はこんな異質な世界に投げ込まれてしまったのか。何をどう考えても答えにはたどり着かない。唯一はっきりしているのは、「私が望んだ形で生き延びたわけではない」ということだけだった。
部屋の中は、時間が止まったように静まり返っている。遠くからかすかな足音や扉の開閉音が聞こえるので、この建物には私以外にも人がいるのは間違いない。けれど、その気配すらどこか冷たく、よそよそしい。助けを求める声を出すべきか迷いながら、私は言いようのない孤独を感じていた。
やがて扉が控えめにノックされ、先ほどのメイド服の女性とは別の侍女らしき人物が顔を覗かせた。「失礼いたします」と淡々とした声で告げ、彼女は薬草のような匂いのする茶を淹れたトレーを運んできた。控えめだが無機質な動作で、私の手元に器を置くと、再び軽い会釈だけで立ち去ろうとする。言葉をかけても、まるでそれを聞いていないかのように通り過ぎて行ってしまう。その無関心さと人形めいた振る舞いに、私はさらに強い不安を覚えた。
(ここにいる人たちは、私をどう扱っているのだろう?)
そんな疑問が頭から離れない。このまま話をする機会もなく、理由もわからないまま放置されるのだろうか。温かい茶から立ち上る湯気が、心細さを象徴するかのようにゆらゆらと揺らめいている。寒々しい部屋の中で、それだけがわずかに人の温度を感じさせる存在だった。
私は床を見つめながら、なんとか冷静になろうと必死だった。しかし、かえって思考は暗い方向へ突き進むばかりだ。もし本当に、私はあの事故で死んでしまったのなら、ここは死後の世界なのだろうか。あるいは何かの拍子で別の次元に迷い込んでしまったのだろうか。状況が理解できないまま、ただ不安と絶望が広がっていく。その絶望は、現代の日本で死にゆく瞬間に感じたものよりも、もっと重く、どこまでも深い闇のように思えた。
死の淵から逃れたいと必死にもがいたはずなのに、ここで待ち受けているのはさらなる苦悩なのか――私はそう考えた瞬間、張り詰めていた気持ちが一気に揺らぎ、静かに涙がこぼれ落ちた。誰かに助けを求めたい。でも、頼るべき人がいない。ここがどこなのか、私は誰なのか。もはや自分自身でさえ、混乱の只中に取り残されている。
薄暗い部屋の隅を見つめても、そこには何の希望も光も見つからない。ただ冷えた石壁と古びた家具があるだけだ。先ほどまで感じていた事故の痛みは消え、代わりに心の痛みだけが増していく。どこに行けばいいのだろう。どうやって元の世界に戻ればいいのか。そもそも帰る場所などもう存在しないのかもしれない。そんな絶望が、私の胸をじわりと占領していく。
そうして私は、新たな「自分」の姿をした身体で、ただ途方に暮れるしかなかった。事故の瞬間に抱いた「生きたい」という執念が、今は宙ぶらりんのまま行き場を失い、重苦しく私を縛り付ける。目を覚ませば世界が変わっている、そんな事態はまるで悪夢のような不条理だ。けれど、どんなにまぶたを強く閉じようが、もう一度目を開ければ、ここは変わらず暗く冷たい部屋の中。救いもなければ、優しい声も届かない。その事実がひたすらに重くのしかかってくるのを、私はどうすることもできなかった。