第10話 揺らぐ真実
王都の空気が、日に日に張り詰めていくのを肌で感じ始めたのは、私が屋敷の中で“自分のせいかもしれない”という不安を抱き続けていた頃だった。
些細な噂から発展していた不正の疑惑が、いつの間にか“王国を揺るがす大事件”と呼ばれるまでに大きく膨れ上がり、その渦中に私の名が挙げられているらしい。もとはといえば、私の意図など関係なく関与させられた書簡の件が原因と聞くが、具体的な経緯は当然ながら何も知らされない。屋敷の使用人たちがひそひそ話す断片を聞き取る限りでは、どうやら王都で反乱未遂や財政面の不祥事が発覚し、そこに私の署名が記された“証拠”が出回っているのだという。
そもそも私には、反乱や政治絡みの動きなど無縁のはずだった。けれど、今の私は世間から「貴族社会の秩序を乱す片棒を担いだ人間」として疑われつつあるらしい。噂の発端は書簡――それも、私が受け取って施設に運んだあの文書である可能性が高い。その書簡に私の名が記されていたのか、あるいは何者かが私の名前を利用したのか。どちらにしろ、私はまるで陰謀の中心人物であるかのように扱われ、さらには王国の一部貴族から「彼女こそが全ての元凶だ」と目をつけられている。
「そんなはずがない」――最初にそれを耳にしたとき、私は必死に否定しようとした。けれど、屋敷で顔を合わせた侍女たちは皆、冷ややかに目を逸らし、あるいはあからさまに怖じ気づいたように後ずさるばかり。真相を問いただそうとしたところで、誰も耳を貸さない。むしろ「お嬢様、これ以上騒ぎを大きくなさらないでください」と迷惑そうに言われるだけだ。やがて、廊下や部屋の隅で、私を忌避する言葉がますます増えていく。
事情を説明するどころか、そもそも私自身が詳細をまったく知らないのだから、弁明すらできない。書簡を運ぶように指示されたことは覚えているものの、その内容も目的も把握していない。なのに、外から見れば、当主の娘という立場でありながら、あやしげな文書をやり取りした“張本人”が私になっているのだろう。名家の中で生きてきた“私”の悪評がいっそう疑惑を強めてしまい、誰も私の言葉を聞こうとしない。
そんな中、いつも無関心を装っていた父が、珍しく私を呼びつけたのはある日の夕刻だった。来客用の部屋に通されると、そこには気まずそうに立つ執事と、難しい顔をした父の姿がある。父は私を睨みつけると、静かだが剣呑な声で問いを投げかけてきた。
「……お前、何か隠していることはないか」
胸が冷たく凍るような感覚。私はただ首を振るしかない。本当に何も知らないのだ。すると、父は書類を手に取って、私の目の前に突きつける。
そこには見覚えのない文書の写しがあり、細かな文字の中に、私の名が記されているらしかった。細部までは読めないが、反乱に関係するやり取りや資金の流れがどうとか――一目で尋常でない内容とわかる。まさか、こんなものに私の名前が使われているだなんて。
「なぜ、こういう物にお前の名がある?」
父の低い声が突き刺さる。執事は目を伏せ、まるで関わり合いになりたくないとでも言うように沈黙を守っている。私は必死に否定したい言葉を探すが、唇がわななくばかりでうまく声が出ない。結局、「知りません」「私には関係ありません」と繰り返すだけになってしまう。
すると、父は深いため息をつき、苛立ちをあらわにして吐き捨てた。
「お前が関わっているのか、と私も疑われている。いいか、これは王国を揺るがす重大問題だ。万が一、お前が動いていた形跡があるとすれば、我が家も危険にさらされる。わかっているのか」
問われても、私にはどうすることもできない。目の前が真っ暗になる。何がどうなって、私の名前がこんな重大事件にまで絡められているのか、まるで理解できないままだ。なのに、父は「本当に知らないのか」と何度も念を押す。私がどれほど否定しても、その声音には疑いが混じっていて、全く信じてもらえない。むしろ「どうせ誤魔化しているのだろう」と言わんばかりの冷えた視線が痛い。
そうこうしているうちに、当主という立場の父すら私の潔白を信じきれない空気ができあがってしまう。使用人たちがわざと聞こえるようにささやく「またやってくれた」「面倒なことになった」といった声が、耳に突き刺さる。屋敷全体が「私を排除すべきではないか」という雰囲気を帯びているようで、行く先々で冷ややかな視線を浴びることがますます増えた。
さらに、決定的な打撃を与えたのは、婚約者として名前だけ残っていた青年の変心だった。元々、彼が私を嫌っていたのは言うまでもない。だが、今回の件で、彼から直接私に向けて問いが飛んでくるようになった。
ある日、屋敷の応接間で顔を合わせた際、彼は開口一番「お前、本当に反乱やら不正やらに関わっているのか?」と冷ややかに問う。
「関わっているはずないでしょう……!」
かろうじて声を絞り出して否定する私に、彼は小さく鼻を鳴らした。
「そうか。だが、お前が“何も知らない”なんて、信じる人間はいるのか? もともと、お前がどんな噂を立てられていたのか、忘れたわけではないぞ」
その言葉に、私は思わず胸が締めつけられる。過去の悪評が、まるで動かぬ証拠のように私を縛る。何を言っても「嘘に決まっている」と疑われ、誰からも助けを得られない状況。彼の眸には露骨な不快感が浮かび、以前にも増して軽蔑的な視線を私に向けていた。
「……お前が何を考えているのか知るつもりもないが、これだけは言っておく。これ以上、騒ぎを起こすな。俺まで巻き込む気か?」
婚約者という立場のはずなのに、まるで他人以上に冷え切った言葉。私は何の弁解も許されないまま、屈辱と絶望に包まれて立ち尽くすしかなかった。
婚約者、家族、屋敷の使用人、社交界の若者たち――皆が揃って私に疑念を向ける中、私が一人で「知らない」と叫んだところで何の意味もない。何より、私自身が経緯をわかっておらず、説明すらできないのだ。こうして追い詰められるたびに、心の支えがどんどん砕かれていく。
屋敷の廊下では、不意に近づいてきた侍女が、おどおどした目で私を見上げて一言告げる。
「……当主様から、“あまり目立った行動はするな”とのお達しです。念のため、客人や外出の予定も控えたほうがよいかと」
つまり、私を軟禁状態にするということだろう。確かに、このまま私がどこかへ出歩けば、さらに怪しまれるのは目に見えている。侍女の言葉に従う以外の選択肢が思いつかない。私はただ「わかりました」とだけ答え、項垂れるように部屋へ戻った。
それからは、ますます重い沈黙のなかで日々を過ごすことになる。使用人たちはどこか慌ただしく立ち回り、陰では私に関する噂をささやいている。私は部屋に閉じこもっていても落ち着けず、廊下に出れば刺すような視線にさらされる。もう心が休まる瞬間など存在しないかのようだった。
時折、扉の外で「王宮の調査官が動き出した」とか「いずれ厳しい取り調べが行われる」という話を耳にする。私はおののきながら耳を塞ぐが、そのざわめきは止まることがない。自分が罰せられるのではないか――何もしていないのに、恐怖が骨の髄まで染み渡っていく。もし無実を証明できなければ、このまま家族ごと破滅の道に追い込まれるかもしれないのだ。
「誰か、助けて……」
思わずそうつぶやいても、返事はない。息苦しくなる部屋の空気に耐えかねて扉を開けるが、そこにはただ冷たい廊下が続き、遠くから雑用の音が響くだけ。屋敷全体が私を監視し、疑いの目で見ているような錯覚さえ覚える。否、実際にその錯覚は現実のものになりつつあるのだ。
どうすればいいのか、どこから手をつければいいのか――何もわからない。せめて自分にかけられた容疑を具体的に知りたいが、それを尋ねようにも誰も口を開かない。大勢が同じように「わからない」「関わりたくない」と黙り込み、ただ事態が深刻化するのを見ている。
そうして私は、恐怖と不安に怯えながら、屋敷の暗い隅で肩を縮こまらせるしかなくなった。反乱や財務不正の中心人物と疑われるなど、想像すらしなかった事態――そして、それに陥った自分を誰一人信じてくれず、孤独の底へ突き落とそうとしている。光の射さない闇が、ますます濃く私を包み込み、出口のない絶望へと誘っているかのようだった。




