第8話 裂かれた交わり②
ところが、悪いことは重なるもので、その後すぐに会場の一隅で思いがけない光景を目にしてしまった。人混みを縫うように歩いていると、カーテンの影になったスペースで、さきほどの彼女と友人たちがひそひそと話をしているのが見えた。しかも、その輪に加わろうとしたわけでもないのに、ちょうど私の耳に彼女たちの声が届いてくる。
「……だって、あの人と話すの、正直しんどいわ。評判が悪いとかいう問題だけじゃなくて、関わると疲れるのよね」
「そうよね。さっきも、どうでもいい話振ってきて……こっちの身にもなってほしいわ」
「あなた、よく耐えたわね。優しいふりするのも大変でしょう?」
嘲笑混じりの声が、ぼそぼそと聞こえる。その中心には、先ほどまで私にかすかな優しさを見せてくれた令嬢がいる。彼女は苦笑いしながら、肩をすくめるようにして言った。
「仕方ないじゃない。いきなり話しかけられたんだから。まあ、あの人も必死なんでしょうけど、私には関係ないし……さっさと逃げてきたわ」
一瞬、呼吸が止まった気がした。冷水を浴びせられるよりも衝撃が大きい。私が“唯一、もしかしたら……”と心の底で淡い期待を抱いていた人物が、まさかこんなふうに裏で嘲弄しているなんて。しかも彼女一人ではなく、取り巻きたちも同様に私を見下し、揶揄して笑っている。
普段ならこの場からすぐに逃げ出しただろうが、あまりのショックに動けない。声も出せない。思考が停止していくような感覚の中で、彼女たちの笑い声が不気味にこだまする。
「ほんと、関わりたくないわ。周囲がどう思うか怖いし」
「それに、あの方って、確か婚約もうまくいってないって話よね。こんなところに来ても、空回りするだけじゃない?」
「そうそう。もうちょっと賢い行動をすればいいのに。見ていて痛々しいわ」
人の心をひっかき回す、冷たく尖った言葉が次々と投げられる。そのすべてが私を無力にさせる内容だと、彼女たちは知ってか知らずか嘲笑している。私はもう限界だった。思わずその場を離れようと身体を引こうとしたが、足が震えてうまく動かない。どうにか物音を立てないように息を詰め、後ずさってカーテンの向こうから逃げ出した。
どうしようもなく惨めで、辛くて、悲しくて――涙がにじみそうになるのを必死でこらえながら、人目に触れない廊下の隅へ駆ける。こんなにも期待して、こんなにも苦しい思いをして、それでも私を受け入れる人などいないのかと痛感する。裏切りというほどの関係でもなかったかもしれないが、せめて表面上だけでも敵意を見せなかった彼女にすがろうとした自分が情けない。
廊下の壁に背を預け、ふと視線を上げると、少し先の広間では先日「婚約者」とされたはずの青年が、一群の貴族仲間と談笑している姿が見えた。こちらにはまったく目を向けず、楽しげに微笑んでいる。その余裕に満ちた態度からは、私の存在など眼中にないことがはっきりとうかがえる。先ほどまでの私の苦悩など、まるで別の世界の出来事なのだろう――当たり前だ。この社交の輪の中で、私はいらない存在なのだから。
青年のそばには気の利いたジョークを交わし合う者たちが集まり、彼は時折大きく笑ってうなずく。まるで私はそこに存在しないかのように、視界の片隅にも入れていない。以前、婚約を破棄したいと堂々と言い放ったのは彼なのだから、当然の振る舞いかもしれない。しかし、その光景を見せつけられるたび、自分の心がさらに磨り減っていくのを感じずにはいられない。
誰一人、私を必要とはしていない。話しかけても嫌な顔をされるか、裏で嘲笑される。かつては頼みの綱になるかもしれないと少しでも思った婚約者でさえ、ここでは私以外の相手と快活に談笑し、潤いのある社交を楽しんでいる。この場所にいる必要など、どこにも見当たらないのではないか。いるだけで人に不快感を与え、私自身も憔悴するばかり。息苦しさから逃れられず、どうしようもない閉塞感が押し寄せてきた。
「……私、なんのためにここにいるの……?」
つぶやいても虚空に溶けるだけ。答えなど返ってくるはずもない。後ろめたい思いで廊下を引き返し、来たときのように壁際に寄り添った。再び会場へ足を踏み入れる気力もなく、誰かに声をかける勇気もない。耳に入るのは絶え間なく続く音楽と、浮かれた会話のざわめき。そして、その裏で低くささやかれる陰口がもたらす息詰まる空気だけ。
やっと親しくなれそうだと感じた令嬢の本音を知ってしまった今、私にはもはやこの場のすべてが敵意に満ちているように思える。希望という言葉すら馬鹿らしく感じるほど、陰湿な雰囲気がじわじわと胸に食い込んでくる。かといって帰るわけにもいかず、耐えるしかないという事実が、いっそう私の心を追い詰める。
周囲を見渡すと、誰も私を気にかけていない。あるいは目の端で私を捉えているかもしれないが、声をかけてくれる者などいない。自分から動いても、もう裏切られるばかりだ。これ以上傷つくくらいなら、何もせずに縮こまっていたほうがましだと思うほど、孤立感が胸に重くのしかかる。
遠目には、にぎやかに盛り上がる夜会の姿がある。音楽に合わせて踊る人々が美しく舞い、会話と笑い声が満ちあふれている。しかし、それはまるで透明な壁の向こうの世界のようだ。私はその壁を壊せずに立ち尽くすだけ。かつて自分がここで生きていた時代があったのかどうかさえ、本当に疑わしくなる。
“親しくなれるかもしれない”という淡い期待が打ち砕かれたことで、私はひどく疲弊していた。偽りの笑顔の裏で嘲笑を浮かべる人々に囲まれ、唯一味方と思えそうな人物すら信じられなくなってしまったのだから、救いようがない。婚約者として名目上つながりのある青年も、私を完全に無視したままだ。きっとどこかで私の存在を笑いものにしているのだろう――そんな疑念まで湧き上がる。
胸の内に広がるのは、深く冷たい絶望と、言葉にならない孤独。まるで底のない井戸に落ちていくような感覚に、呼吸が浅くなる。人の輪がうらやましくないといえば嘘になるが、そこに入る勇気はもはやない。もし差し出した手が再び裏切られるなら、そんな痛みはもう経験したくない。
私は小さく息をつき、視界の片隅でかすかに揺れる装飾灯を見つめる。きらびやかな装飾と、華やぎの中で飛び交う嘲弄の言葉は、否応なく私を追い詰め、さらに心を閉ざす要因となるだけだ。ここでの時間が一刻も早く過ぎ去ってほしいと願いながら、夜会の終わりをただ待つ。それが私にできる唯一の行動だった。
膝が震え、目元が熱くなる。ここで涙を流しては、また“滑稽だ”と笑われるだけだろう。踏みとどまるしかない。唇を噛みしめ、感情を押し殺しながら、ひっそりと物陰に身を寄せた。自分の存在を隠すようにうつむいて、どうにか今日という日をやり過ごす。今の私には、それが精一杯の抵抗だった。
夜会の眩い明かりに照らされながら、私はさらに深い孤独の底へ沈んでいく。もう誰も信じられない、誰にも頼れない――そう確信するたび、心の中に残されているはずの光が、かき消されるように色を失っていくのを感じずにはいられなかった。




