第7話 揺れる舞台①
夜の帳が下りる頃、私は屋敷の玄関先で車を待つよう促されていた。もともとこのような場に呼ばれるとは思っていなかったが、父が「顔を出しておけ」と言い放ち、半ば強制的に社交界の小さな夜会へ出席することになったのだ。実際のところ、“今さら”私を外へ出す意味がどこにあるのだろう。婚約も破棄されそうになっているのに、こうして社交界の場へ送り込まれる意図がまったくわからない。だが、反論したところで父が耳を貸すはずもなく、行かなくてはならないなら仕方がないと、ぎりぎりまで憂鬱さを噛み締めていた。
やがて迎えの馬車が到着し、使用人の無機質な手配によって私は一人で乗り込む。車内では居心地の悪さに、胸が締めつけられるような感覚ばかりが募る。窓の外に映る街路灯の明かりが、夜の闇を切り取るように並んでいるが、それを見ても心は少しも安らがない。まるでこれから暗い深淵へと連れていかれるような不安が拭えず、薄暗い車内で私は硬い座席に身を沈めた。
到着した先は、格式ある貴族の屋敷だった。門の前では幾台もの馬車が行き来し、着飾った若い人々が玄関へと吸い込まれていく。夜会という名の集まりには、貴族の子弟たちがぞろぞろと集まるらしい。私は言われるままに下車し、玄関で招待状を示してから中へ入る。そこには華やかな装飾が施された広間が広がっていて、色とりどりのドレスを纏った令嬢や、端正な燕尾服に身を包んだ青年が交錯していた。
豪奢なシャンデリアが天井に吊るされ、柔らかな光が床の大理石を照らしている。流れる音楽は優雅で、笑い声や挨拶が絶えない。これが“社交界”というものか――私はそのきらびやかさにほんの一瞬だけ目を奪われる。しかし、その眩い空間の中で、自分が居場所のない存在だという事実をまざまざと思い知らされるのに、そう時間はかからなかった。
周囲の若者たちが、私を目にすると、さりげなく視線を逸らし、さっと道を開ける。表向きは礼儀をわきまえた挨拶をする者もいるが、その目元にはどこか冷笑めいた色が宿っている。ある者は小さく会釈しつつも、すぐに仲間同士でひそひそと何かささやき合い、吹き出すように笑う。きっと私の噂が既に広がっているのだろう。屋敷の使用人たちだけでなく、ここにいる多くの貴族の子弟が私を“問題のある者”として知っている――その現実を肌で感じると、息苦しさが増すばかりだ。
音楽が響く中、私は壁際の目立たない場所へそっと身を寄せる。積極的に話しかけたい相手などいないし、誰も私と親しくなろうなどと思ってはいないだろう。実際、私を遠巻きに見つめる視線には、冷淡な好奇心と嘲りが混じっていて、息が詰まるほどだった。ドレスの裾を指先でつまみ上げながら、なんとか場の空気に溶け込みたいと願うが、どうあがいても馴染めるはずがない。
周囲を見回すと、華やかな笑い声と、さりげないマナーのやり取りが繰り広げられている。ワインを手にした者同士が軽妙に会話を交わし、舞台裏では弦楽器の奏でるメロディが空気を彩る。けれど、その中心にいるのは私以外の人々だ。まるで一つの社会を形成していて、そこに私の席は残されていないかのように感じる。
「どうしてあの方が来ているの?」
聞こえてくる低いささやきに耳が痛む。その話し声の主は私をちらりと見て、同伴の女性と目配せを交わしているようだ。遠巻きでもわかるほど、私に対する嫌悪を隠そうともしていない。あるいは、聞こえるようにわざと話しているのかもしれない。私は恥ずかしさと惨めさで胸が締め付けられ、うつむき加減に視線を落とす。
「前に聞いたのだけど、相当わがままだとか……?」
「らしいわね。屋敷の使用人を泣かせたり、奇行が多かったとか……」
そのような噂話が小声で交わされ、それを耳にした周囲の人たちが口元を歪めて笑う。どこまでが事実なのか私にはわからない。けれど、噂というものはこうやって際限なく広まり、真実かどうかなど関係なく人々の興味を惹きつけるものなのだろう。ここにいる誰もが私を厄介者だと思い込んでいて、形だけの礼儀を繕ったとしても、本心では侮蔑していることが手に取るようにわかる。
それでも、せめて大人しくしていれば不快に思われずに済むかもしれない。そう考えた私は、できるだけ壁際に留まっていた。時折、仲間同士で楽しそうに談笑している人々の輪に目を向けるが、彼らの輪の中心にはきらびやかな笑顔があふれている。その光景は、どこか別世界のように見えた。私がそこに加わることは永遠にないのだ――そう直感するだけで、心が張り裂けそうになる。




