第6話 綻ぶ約束②
部屋には重苦しい沈黙が垂れこめる。青年は椅子から立ち上がり、何かを言い捨てようとしたが、私の方を見て再度かすかな溜息を落とした。まるでそこに存在するだけで不快だと言わんばかりの態度。
「では、私の役目は終わりました。後日、家の者から正式な文書を送るでしょう。話はそれで足りるかと」
父はわずかにうなずき、青年は軽く礼もせず踵を返す。その後ろ姿には少しの未練もなく、侍女が気を利かせて扉を開けると、まるで風のように立ち去っていった。部屋に残されたのは父と私。それでも父は私に視線を向けないまま、机の上の書類に目をやる。私はのどがカラカラに乾いたような錯覚を覚え、絞り出すように言葉を吐く。
「……婚約、破棄するんですか」
それは質問というより、半ば呆然とした確認だった。父はまるで相手にする気配もなく、「いずれそうなるだろう」と言葉少なに断じる。まるで自分には関係のない取引の結末を話すかのような態度だ。
「嫌なら自分でどうにかすればいい。だが、あちらも望んでいないのだから、無駄な足掻きだろう」
わずかに嘲笑めいた響きを帯びた父の声を聞くと、無性に惨めな気持ちが湧き上がってくる。私にできることなど何もない。仮に結婚を拒みたくても、破棄を避けたくても、どちらにしろ選択肢を握っているのは私ではなく、周囲の意向なのだ。結婚が続くにせよ破棄されるにせよ、私には一切の権限がない。
ふと、父が立ち上がってこちらを一瞥した。その瞳には、相変わらず情けも憐れみも見られない。淡々と宣告するように口を開く。
「もし何か行動したいというのなら、好きにするがいい。ただし、恥をさらすような真似だけはするな。お前が騒いで得るものは何もない」
まるで突き放しの言葉。そう言い残すと、父は侍女の方を振り返り、手で合図を送る。侍女たちは素早く動き出し、父を見送るように扉を開く。私に何かを語りかける者はいない。応接室には一瞬で静寂が戻り、まるでそこに私しか存在しないかのように冷え切った空気が広がった。
「……もう、どうしようもないんだ」
思わずつぶやく。私がどう振る舞っても、相手の意志は既に固まっている。過去の“私”が婚約者にどんな態度を取っていたかなどわからないが、その結果、彼は私を全く受け入れる気がない。正直言えば、こんな形ばかりの婚約など、私も望んでいない。なのに、破棄を自分の口から言い出せるわけでもなく、決定権を握っているのはあちら側だ。私は何もできない。
そして、当主である父も、私がどうなろうと関心はない。もはや形ばかりの繋がりさえ要らないと考えているのかもしれない。屋敷中の使用人たちも、私の婚約についてどんな風に噂するのだろう。きっと「ああ、また面倒が減って良かった」と胸を撫で下ろすだけだろう。彼らはみな、私がいないほうがいいと思っているのだ。婚約者どころか、実の父親すら同じ結論に至っているのだから、私がどうにか立ち回ったところで誰も得をしない。
救いのない現実が、容赦なく私を追い詰めていく。いつからこれほど不幸な存在になったのだろう。ここでの暮らしが長かったらしい“私”にはきっと何かしらの過去があったのだろうが、記憶を失った今、それを知るすべもない。ともすれば、「結婚などしたくない」と公言されるだけの悪事を、私は積み重ねてきたのかもしれない――そんな最悪の想像が頭をよぎる。
誰も私を守らない。誰も手を差し伸べてはくれない。まるで孤島のように自分だけが世界から切り離され、追放されるのを待つしかないのだろうか。以前は婚約という立場が、かろうじて“私にも居場所がある”証拠になるかもしれないと淡い期待を抱いたこともある。けれど、それすら失いかけている現実を前に、もうどうすることもできず、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
冷えきった部屋には私の呼吸だけが虚しく響く。重たい沈黙が、まるで永遠に続くかのように感じられた。外に出ても、侍女や使用人たちの冷たい目があるだけ。廊下には父と青年が並んで歩いて行く姿が見えるが、その背中には微塵の躊躇いすらない。私は何も言えず、引き留めることもせず、ただ見送る。
まるで、私など最初からいなかったかのように。結局、何をどう足掻いても、この家では誰にも必要とされていない。婚約すら形ばかり。破棄されようがどうしようが、誰も気にも留めない。そんな疎外感と絶望の狭間で、私は再び自室へと足を引きずるように戻っていく。遠く聞こえる足音や扉の開閉音さえ、他人事のように耳を掠めていくだけだった。
もう、何のためにここにいるのか。生きる術すら見いだせない。もしかしたら、再び婚約者に会うことなどないだろう――彼は二度と私を求めない。むしろ、私もそんな冷淡な相手とは関わり合いになりたくない。それでいいはずなのに、胸の奥には重くのしかかる孤独だけが残っていた。これ以上、どう抗えばいいのかさえ見失いながら、私は黙り込む。読めない将来を恐れ、あてもなく暗い道を彷徨うしかないのだと、痛切に思い知らされる。




