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第1話 終末の呼び声①

 朝の冷たい空気が、肌を突き刺すように感じられた。私が最後に見たのは、容赦なく迫り来る車のヘッドライトだった。横断歩道の信号が青になったからといって、慌てて走ったのはほんの数秒のこと。ブレーキ音が耳を裂くように響き、目の前にいたはずの人々が一瞬で散り散りになる。まるでスローモーションの映像を見ているかのように、私は「死」の到来をはっきりと悟った。


 自分の身体が宙を舞ったことは覚えているが、そのあとの記憶がない。時間軸が(ゆが)んだような感覚だけが残り、どこか遠くでサイレンの音がけたたましく鳴り響いていた。道行く人々の悲鳴、地面に打ち付けられるような衝撃。痛みなのか恐怖なのかもわからない感覚が、じわじわと私の意識を侵食する。ああ、私はここで終わるのか――そんな絶望が確かな重みを伴って胸を押しつぶした。


 それでも、「もっと生きたい」という執念のようなものが、かすかに私を奮い立たせる。周囲の喧騒や救急隊らしき人々の声を聞きながら、私は微かに手を動かそうとするが、指先からはまるで力が抜けてしまっている。まぶたを開こうとしても視界がぼやけるばかりで、自分の身体の位置すらわからない。このまま意識が途切れてしまえば、本当に戻れなくなるのだろうか――そんな考えが頭を巡るたび、得体の知れない恐怖が全身を支配していくのを感じた。


 どうにか言葉を発しようにも、喉からはうめき声に似た吐息しか漏れない。人々の足音がすぐそばを行き交うのがわかるが、誰の顔もはっきりとは見えない。私は一瞬だけ、家族や友人たちの笑顔を思い出した。二度と会えないなんて考えたくもないのに、彼らの楽しそうな姿が遠い幻のように脳裏にちらつき、「もう戻れない」という不安がますます募っていく。


 痛みの波がどこかへ消えていくにつれ、逆に強烈な眠気と倦怠感が襲ってきた。いけない、このまま眠ったら目を覚ますことはないかもしれない。焦燥感に駆られるものの、身体はまるで石のように動かない。周囲の騒音も徐々に遠ざかっていき、あれほど慌てふためいていたらしい救急隊の声すら薄れていく。まるで世界が自分から離れていくような疎外感を覚える中、私は最後の力を振り絞って自分の名前を叫ぼうとする。しかし声は出ない。何ひとつ叶わないまま、意識の暗闇が私をゆっくりと覆い尽くした。


 私の死は、想像していたよりもあっけなく訪れたのだろう。「死」というものはもっと劇的で、人生の走馬灯が綺麗に流れるようなものだと思い込んでいたが、それはあまりにも儚く、無慈悲なものだった。やり残したことは山ほどあった。伝えきれなかった言葉も、分かち合えなかった時間も。本当はもっと生きたかった。未来への希望や、ちっぽけな夢でさえ、わずかにだって構わないから掴みたかった。そう考えながらも、私の意識は静かに途切れていった。


 どれほどの時間が経ったのかはわからない。深い闇の底へ沈んでいく感覚が、いつの間にか薄れていた。妙に肌寒い。寝ころんでいるような姿勢のまま、私はぼんやりとした意識でまぶたをゆっくり持ち上げる。視界の端に見えたのは、濃い色のカーテンと暗色の天蓋のようなものだった。まるで歴史資料館に展示されているような骨董じみた家具……呆然とする私の鼻をくすぐるのは、湿った埃と古い布のにおい。それだけで、ここが現代の私の部屋などではないことがはっきりとわかる。


 最初は夢だと思った。交通事故の現場からいきなりこんな場所に移動するなんて現実離れしているから、悪い夢でも見ているのだろう、と自分に言い聞かせた。でも、周囲の静寂と漂う独特の匂いは、あまりに生々しい。恐怖で胸が締めつけられる。大きく深呼吸をしようとしたが、息が妙にかすれるようで、声を出そうにも喉が引っかかる感じがした。


 おそるおそる首を動かしてみると、艶のある木製のベッドフレームが見える。それだけでなく、壁には油絵のような肖像画が飾られ、小さな飾り棚には金属製のろうそく立てが置かれていた。天井付近にはシャンデリアらしき飾りがぶら下がっているが、電灯のスイッチなどは見当たらない。点灯しているわけでもないのに、薄く差し込む光だけが部屋の輪郭を浮かび上がらせているようだ。


 何より、自分が横たわる寝台の感触があまりにもリアルだった。しっとりとしたリネンや、分厚い羽毛布団。日本で使っていた布団とは明らかに違う。シーツの肌触りがざらついたリネンなのか、痛みかけた綿なのか、とにかく身体にしっくりこない。


 私は恐る恐る手を伸ばし、シーツをつまむ。見覚えのない自分の手が視界に入った瞬間、息が止まりそうになる。手のひらがやけに小さい。指先もほっそりしていて、まるで子どもの手のようだ。困惑したまま、もう片方の手を重ねると、それも同じく華奢(きゃしゃ)で繊細な形をしている。これは私の手ではない。どうしてこんなことになっているのか、まったく理解が追いつかない。


 何かがおかしい。この感覚は夢ではない。心臓が恐ろしいほど早鐘を打ち始める。私は混乱を抑えようと必死になりながら、ゆっくりと身体を起こした。そして部屋の中を見回し、再び息を呑む。床には厚手のカーペットが敷かれ、重々しい机と椅子が置かれている。窓の外から差し込む光は、どこか薄暗く鈍い。まるで曇天の下にいるような、冷ややかな光だ。

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