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四つ目の使命

 軽く汗を流したいので運動用の服はないかと、あの執事・セバスティアン(この名称がオレに苛立ちを催してやまないのは何故だ)に尋ねたところ、渡されたのがこれである。十九世紀欧州風のお屋敷の庭園を走るのに日本の公立中学のジャージとは、一体どういう世界観だ。全くもってわからん。この世界は謎だらけだ。


 そう、オレはこの世界の理を忘れた。


 あの狂気の呪術式ドリンクを飲んだ瞬間、宇宙の地平を一気に見晴るかしたようだった。だがしかし、その構成要素を知り、不覚にも体外へと射出してしまった後、九分九厘忘れてしまった。せっかく明凜の居場所、この世界からの脱出方法など、全てが明るみになったというのに……。


 痛恨の極みだが、あのようなものを体内に留めておくというのも気色の良い話ではない。もう一度飲めと言われても、飲めるかどうか自信がない。聞けば、幸か不幸か、あのドリンクはそうそう簡単に作れるものではない上、手持ちのものはあれが最後だったらしい。


 しかしながら、幸いにもこの世界の社会常識や倫理観の類は覚えている。人の名前も然りである。大体において、やはり十九世紀西洋風の世界観といったところか。当面、この世界でやっていくには支障はないだろう。


 そして、やはり今のこのオレは悪役令嬢だった。


 今のオレの名前は佐反(さそり)玖梨子(くりこ)。日本人であった。十九世紀西洋風世界観はどこへ行った? かなりいい加減な設定のマンガのようだ。


 それはともかく、なぜ屋敷の皆がオレのことをクリスティーヌと呼ぶのか。玖梨子のクリから取ったからだ。しかも自分から呼ばせたらしい。全くアホである。なんとも恥ずかしい奴だ。


 しかも、と言うか、やはり、と言うか、自分で言うのも悔しいが(正確に言うと自分じゃないが)、詳細は省くが実に嫌な奴である。人はやはり見た目なのだ。それがマンガの中ならなおさらだ。むしろ容赦ない。従って、不本意だが、それ相応の行動を取らなくてはならない。ここは気をつけねばならないポイントだ。


 三十分ほど走ったろうか。今日はこのくらいにしておこう。見れる範囲で我が領地は回った。全部は到底一日では回り切れないであろう。残りはおいおい見ればよい。まぁ、どれほどかかるかはわからないが。また、近いうちに屋敷を出て、街並みの方も見てみるつもりだ。




 屋敷が見える薔薇園まで帰ってくると、見えたのはあの麗しの君、そう主役少女である。赤、白、オレンジと、色とりどりの薔薇に水をやっている。彼女自身が一輪の薔薇ででもあるかのようだ。


 オレは思わず立ち止まり、しばし彼女の仕事ぶりを見つめていた。


 夕日を受けたその横顔に頬の産毛がきらめき、その美しい顔の稜線が金色に縁取られ、輝いている。


 やはり彼女は主役であった。名前は北斗七(ほくとしち)瑠璃(るり)。オレ、そしてこの『悪役令嬢』ことクリスティーヌと同じ十七歳。この屋敷の使用人だ。


「あ、おかえりなさいませ、お嬢様」


 オレの視線に気づいたか、振り向いて挨拶した。オレは瑠璃の元に足を向けた。


「美しい」

「本当にお綺麗でございます。私は、バラにも時間があると思うのです。赤いバラには朝露が、橙色のバラにはお日様が、そして今のこの時間には白いバラが似合うと思うのです。白い花びらのキャンバスが夕日の赤を受けて、本当にお美しゅうございます」

「違うな。そうではないぞ」

「え?」

「私は薔薇を称して美しいと言ったのではない」

「も、申し訳ございませんでした! 出すぎたマネを……」


 瑠璃は如雨露(じょうろ)を脇へ置き、深々と頭を下げた。その時だった。


 瑠璃が突然、ずぶ濡れになった。


 雨は降っていない。穏やかな夕日は雲を朱鷺色(ときいろ)に染めている。瑠璃の髪から垂れる水は残光を受けて煌めいている。美しくはあるが、理不尽なこの光景。それを演出したのは瑠璃の背後にいる女だった。


 年の頃は四十前後といったところか。オーソドックスなメイド服を身に着け、すっかり大胆になった腹周りでエプロンははちきれそうだ。この女性、確か名前は……キャサリンだったはずだ。そのキャサリンの右手にはバケツが下げられている。


「あらぁ、ごめんなさいね。手元が滑っちゃった」

「いえ……」


 瑠璃はうつむいたまま応えた。


「こっちにも水やらないと」


 キャサリンは瑠璃の横を通る際、明らかに意図的にタックルをかました。キャサリンの方が背は低いものの、ウエイトでは勝っている(はずだ)。スレンダーな瑠璃は手もなく倒れてしまった。そして運悪く、水を撒いた泥の中に突っ伏してしまった。純白のメイド服が汚れていく。


「大丈夫ですかー。汚れちゃってますよー」


 抑揚のない声でそう声をかけたのは、やはりオーソドックスなメイド服を着た小柄な女性だった。年の頃はオレよりもやや年下か。こちらの名は、サッチャーといったはずだ。鉄の女のようなその名と裏腹に、幸の薄そうな面立ちをしている。そしてその面立ちには表情らしきものはない。


 サッチャーはかけた言葉とは裏腹に、手持ちのジョウロの水を瑠璃の頭からブッかけた。


「アハハハハ! 良かったね。これで薄汚れた顔がきれいになるってもんさ」


 キャサリンの高らかな笑い声が夕暮れの薔薇園に響き渡る。


「あ、クリスティーヌ様! ご機嫌麗しゅうございます」

「麗しゅうございます」


 オレに気づいたキャサリンが頭を下げると、それに倣うようにサッチャーも頭を下げた。はちきれんばかりの笑顔のキャサリンに比べ、サッチャーの方は表情に乏しかったが。キャサリンの方は、やってやりました、と言わんばかりである。


 オレにはこの世界でやらねばならない使命が四つある。


「全く、美しい薔薇園にはふさわしくないな」

「仰る通りでございます。ホラ、いつまでそこで突っ伏してるんだい。その汚いなりをクリスティーヌ様に見せるんじゃないよ。さっさと消えな」

「は、はい……。申し訳ございません……」


 おばさんの罵倒に瑠璃は消え入りそうな声で謝る。そのまま存在も消えてしまいそうだ。


「勘違いするな。消えるのは貴様らの方だ」

「え?」


 キャサリンが思考停止したような顔をこちらに向けた。サッチャーの方ははじめから何を考えてるのかわからないが、やはりこちらに顔を向けた。瑠璃も這いつくばりながらも顔を上げた。


「そのような狼藉、許した覚えはない。懸命に働く者の邪魔をし、あまつさえ罵倒するなど言語道断! 貴様らにこの美しい薔薇園に足を踏み入れる資格はない! 今すぐここから立ち去れ!」

「え……? あ……」


 キャサリンは二の句も告げないほど驚いている。サッチャーは相変わらず、何を考えているのかよくはわからない、そもそも感情があるのかどうかすら分からないが、こちらも何も言えないでいる。


 オレの使命、その四つ目。それは、この主役少女、北斗七瑠璃と結ばれ、共に外の世界へと旅立つことだ!


「お怪我はありませんか?」


 オレは瑠璃に手を差し伸べた。


 悪役だろうが、同性だろうが関係ない。オレは、手に入れたいものは必ず手に入れる。


「私が美しいと称したのはあなたのことです。あなたが好きです」


 が、瑠璃はその手を取ろうとはせず、「あ……」という形にした口元へと、両手を持っていった。見ると、キャサリンもサッチャーも、同じような口の形で、同じようなしぐさをしていた。


 次の瞬間であった。


「あひひひぃぃぃぃ……!」


 オレはこの日三度目の雷撃だか電撃だかを食らった。


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