カモン大統領!
「ぬがー! クリスティーヌ様……! やはり御記憶をなくされたのですか……!」
これだ。記憶喪失のフリをすれば、ごく自然にこの世界、そしてこのオレというお嬢様の人柄を聞き出すことができる。プライオリティが高いのはもちろん明凜だが、そのためには第二の問題が優先される。とにかく今は情報が欲しい。
「しかし、ご安心くださいお嬢様。こんなこともあろうかと、これをちゃんと用意してございます」
と言って、セバスティアンは脇机の上に置かれていたカップを恭しくオレの前に差し出した。見ると、多分緑色と言ってよい液体が湯気のみならず、泡を立てて淀んでいる。ヘドラを液体化した、と言えばわかりやすいか。
「コレハナンデス?」
「記憶を回復させるための呪術を施したドリンクでございます」
ドリンクだと? とても人間が飲んでよい物質には見えないが? それに、湯気が立っているものを普通ドリンクとは呼ばない。その前に聞き捨てならないワードがあった。
呪術。
確かにこいつはそう言った。
「これを飲めばたちどころに御記憶が回復すること請け合い。ささ、グイッと御一口」
むしろ、今までの記憶を根こそぎ持って行かれそうだが。オレはなくしてもいない記憶を回復させるためにこれを飲まねばならないのか? しかし、ここでこれを拒否したら、なんかめんどくさいことになりそうだ。
そして一つだけ確かなことがある。どうやらこの世界の文化レベルは高くはないのではないか、ということだ。こんなもん人間に飲ませる世界の文化レベルが高いわけないだろう!
「ささ、クリスティーヌ様」
この翁、人の記憶が喪失されていることをいいことに(実際してないが)、たばかっているのではあるまいな。それでこのヘドラドリンクを飲むオレを見て腹の中で笑おうという心積もりではあるまいな。
「記憶をなくした人は……、これを飲」
「飲みます」
食い気味に答えやがった。「むのか?」くらい言わせろ。なんだこの圧は。やはり試しているのだろうか? オレは疑われているのか? その可能性、なくはない。なぜなら、実際オレはここの住人ではないのだから。であれば、逆にこれを飲めばこの翁の疑いから逃れられるやもしれん。ようし。ならば飲んでやる。
オレは差し出されたカップを受け取った。
「ささ。グイッと」
中を見る。やはりヘドラだ。公害怪獣がそこにいる。ような気がする。しかし、これはこの男からの挑戦状だ。その挑戦、受けてやろうではないか!
「カモン大統領!」
オレはかけ声一発、鼻の息を止め、カップを口元に運び、一気に飲み干した。
「熱ッつい!」
もちろん不味かった。しかし、それ以上に熱かった。よく考えれば、湯気の出ているドリンクを一気にあおる奴などこの世にいない。熱さが喉を通り、食道、胃の腑へと溜まっていくのがわかる。その熱さ故、不味さは若干ごまかされたような気がする。
次の瞬間であった。
頭の中に様々なイメージが一気に駆け巡った。それは、次から次へと、というような連続的なものではない。一気に、この世界そのものとでもいうべきものの中に、取り込まれたような感覚だ。
そうか……! そういうことだったのか!
「……クリスティーヌ様、どう……なされましたか……?」
翁がそう戸惑ったのも無理はない。なぜならオレは、とめどなく涙を流していたのだから。
「お不味うござ」
「不味い」
今度は逆にオレが食い気味に答えてやった。「ございましたか?」なんて疑問形、言わせてなどやらん。しかし食い気味に答えたオレの一言は、実は些か正確さに欠ける。正しくは、不味いなんてもんじゃない、だ!
不味いなどという、そんな生ぬるい言葉でなど到底追いつかん。熱さで若干ごまかされたとはいえ、それほどまでに想像を絶する味だ。いや、これを称して「味」と呼んで良いかもわからん。
そしてまた、不味くて泣いていたわけでもない。いやごめん、嘘ついた。不味いのもオレが泣いた要素の一つではある。それにしてもそうか……、そういうことだったのか……明凜……。
「翁……、セバスティアンと言ったか」
俺は涙を拭い、なんとか平静を取り戻した。こんなところで泣いてる場合ではない。
「はい! お嬢様、御記憶が戻られたのですね!」
「うむ。すっかりな。礼を言うぞ」
「ありがたき幸せにございます」
これで一旦、明凜の居場所はわかった。元の世界へ帰ることも。
「それにしても驚くべきは呪術だ。バカにできぬものだな。いや、さすがと言うべきか……」
「ありがとうございます」
「気に入ったぞ。このドリンクの作り方を知りたいものだな。どのように作った?」
「おい、トニー」
セバスティアンとやらは、いつの間にか横にいたやせぎすの男に声をかけた。こんな奴いたっけ?
「はい。ヤモリとイモリを乾燥させ、トカゲとカエルを煮込みます。それらに四十八のキノコ類を混ぜた上、百八種類の薬草で包んで燻し……」
やせぎす男の説明は途中ではあったが、もう既に胃の底から急激に胸へと暖かいものが遡って来た。なんとか抑えようとしたが叶わなかった。
「ゲロゲロゲロゲロゲロゲロオエーピチャピチャッ」
見ると、オレの前に跪いていたセバスティアンはヘドラになっていた。
「クリスティーヌ様……。ご無体でございます……」
規則正しい呼吸音、そして足音が、我ながら耳に心地良い。地面を蹴るスニーカーの感触も気持ち良く、夕日が空を朱に染める中、オレはジョギングを楽しんでいる。
あの後、口をすすぐためということもあり、水とソーダ水を渡された。もちろん、速攻で一気飲みした。水とソーダ水がこんなにも美味いものだとは思わなんだ。
口と喉がスッキリしたら腹が減っていることに気がついた。そういえば、朝から何も食べていない。それどころではなかった。
恥ずかしながらその旨を告げると、すぐに食事の支度が整えられた。食事はルームサービスよろしく部屋に持ち込まれた。結構な量の、しかも豪勢な食事だったが、オレは瞬く間に平らげてしまった。令嬢にあるまじき食事風景だったかもしれない。セバスティアンをはじめ、家人は一様にドン引きしていたように思うが、まぁよい。
腹が満たされたので、ちょっと体を動かしたくなった。見ると日も傾いていた。随分気を失っていたようだ。マンガの中に入ったとはいえ、日課は欠かせない。昨日はサボッてしまったので尚更だ。しかし普段ならそのコースは近所の住宅街から公園にかけて、その往復だが、今は我が屋敷の庭を走っている。
庭と言っても、日本の小市民宅の猫の額のごときものでは断じてない。庭園と言ってもまだ控えめだ。この屋敷の敷地は広いなんてもんじゃない。「広大」という表現がぴったりである。さすが令嬢のお屋敷だ。どこからどこまでが自分の領地なのかわからない。こうして走っていても、国立公園なのではないかとすら錯覚する。
もちろん、ジョギングには最高だ。道は森にまで通じている。森林浴も楽しみながら駆け抜けると、開けた芝の向こうには湖が見える。橙色の陽光を反射し、凪いだ湖面が黄金色に輝いている。畔には四阿が設えられている。今度、あそこでお茶を飲んでみよう。
決まりすぎるきらいのあるくらい申し分のないロケーションだが、オレの着ている服はどうだ。中学のジャージである。しかもオレが通っていた学校の。そぐわない。あまりにもそぐわなすぎる。