貴方が好きです
画面が小刻みに揺れて見にくい。認めたくはないが、どうしても手が震えてしまう。何をバカなことを、オレらしくもない。
しかし、なぜこの乱雑な部屋にあの薄いマンガ本だけキッチリと立てかけてある?
なぜ、その前方にスマホが落ちていた?
そして、よく思い出してみろ。オレが明凜のスマホを開いた時、一番最初に映ったものは? ……オレの顔ではなかったか?
SNSを早く見たかったがためにすぐに閉じてホーム画面にしてしまったが、最初から起動されていたのはインカムになった写真アプリではなかったか? そしてその写真アプリこそ、アニフォトではなかったか?
そんな気がする。しかし、そんな気がするだけかもしれない。人の記憶ほど曖昧なものはないという。そのことはアメリカの警察学校でも実証実験として授業に組み込まれているほどだ。
オレは記憶力には自信がある方だ。しかし、その自信のある自分の記憶力といったところで、それはしょせん人間の記憶力だ。信じるに足るものであるかは微妙なところだ。
しかし、そうやって自分の記憶をも疑うのであるならば、先ずはこのアプリを疑ってみるのも良いのではないだろうか。すなわち……!
そう、すなわち、あの薄いマンガ本をバックに、このアプリで自撮りをするのだ。さすれば、オレのこのバカげた疑念の真偽が明らかになるではないか。
ふん。全くもってバカバカしい。こんなたわいもない都市伝説、何を怖がることがあろう。ちょっと試しに自撮りするだけの話だ。だが、さっきからのこの手の震えはどうしたことか。
そういうものをバカにすることの危険性も、なんとはなしに理解しているオレでもある。
スマホの中の、そのアプリのアイコンを凝視したまま、何分経ったろうか?
ええい! 何をしているオレ! そんなタイニイな肝っ玉で学園最強の生徒、生徒会長に上り詰めるつもりだったのか! 情けない! そんなことでは、何にもなれん!
オレは勢いだけで意を決し、薄いマンガ本に背を向け、アプリを起動し、インカムにした。
後ろには薄いマンガ本が小さく映っている。画面ほぼ中央にはオレの引き攣った顔が大写しになっている。こんな自分の顔は見たくなかった。
画面は小刻みに揺れる。自分でもそれとわかるほど、息遣いが荒い。胸の鼓動は息苦しいくらいだ。耐えられん。早く終わらせてしまおう。
オレは、逃げるようにシャッターを押した。
◆ ◆ ◆
緑の芝に陽光が降りそそぎ、咲き誇る薔薇は赤く輝く。褐色の煉瓦作りの重厚な屋敷は名のある士の館だろうか。
決まりすぎるきらいのあるほどに申し分のないロケーションは見事だが、ここはどこだ?
しかし、その答えならもう察しはついている。この庭にして、この建築。妙に古めかしいこの世界観はあの薄いマンガの表紙のものと一致する。
これは間違いない。どうやら、あのアプリの噂は本当だったようだ。オレは、あの(この?)マンガの世界に入ってしまったらしい。
えー! マジか! どーしよー! 都市伝説恐るべし!
おおおお、落ち着け、オレ。ここは一先ず沈着冷静に、沈着冷静に。深呼吸しよう。スーッ、ハーッ。スーッ、ハーッ。ひ、ひ、ふぅ。ひ、ひ、ふぅ。ん? なんか違う気がする。自分でも混乱しているのがわかる。
そそそ、それに、まだここがマンガの中の世界と決まったわけではない。確認……、そう!何か確認できるものはないか?
そう考えを巡らせていると、幸いにも人を見つけた。屋敷の壁に沿って並べられた花壇に水をやっている。メイド服を着ているので、どうやら使用人のようだ。
ただ、そのメイド服が白一色なのが気になった。メイド服といえばモノトーンだ。黒と白の配色がメイド服の王道である。それがどうだ。白一色のメイド服とは、なかなかにして清新にすぎるではないか。まあ、よい。
「失礼。すまないが、ここがどこだか、教えてはくれないだろうか?」
怪しまれないよう、オレは努めて平静を装い、その純白の背中に話しかけた。見知らぬ女子に声をかける無粋など本来したくはないのだが、仕方あるまい。他に人はいないのだから。とにかく情報を得なければならない。
オレの言葉に、そのメイドは振り向いた。なるほど、彼女の纏うメイド服が純白なのには理由がある、と瞬時に理解した。
年の頃はオレとそう変わるまい。栗色の巻き毛、大きく潤んだ瞳、長い睫毛、通った鼻筋、牡丹のような唇、そして透き通るような白い肌、それでいて頬にはほんのりと赤味が差している。極めつけは見知らぬはずのこのオレに向けられた無防備なまでの無垢な微笑み。
彼女はまぎれもなく『主役』であった。
主役が纏うに相応しい色、それは純白に他ならない。黒の要素なぞあろうはずがない。だから彼女の着るメイド服は純白でなくてはならないのだ。そしてそんな主役である彼女との出会いから導き出されるものは一つしかない。
「貴方が好きです」
質問をしておきながらそれに答える間も与えず、オレは愛の告白をしていた。このスピード感。
その『主役』少女は笑顔はそのままに、戸惑いの色を見せた。それはそうだろう。
オレとしても、初対面の女性に対して自らの恋情をぶつけるなどという無粋は、本来ならばしたくはない。したくはないのだ。が、仕方あるまい。仕方がないのだ。なぜなら彼女は『主役』なのだから。
彼女は戸惑う瞳でオレを見つめるばかり。柄にもなく胸の鼓動が高まってきた。こういう感覚は実に久しぶりだ。悪くない。
たっぷり間を取って、彼女は言った。
「あの……お嬢様? なにか、……御用でございましょうか?」
お嬢……? ちゃんと目は合っている。間違いなくオレを見ての発言だ。
何を言う。オレの名前は伊織川乱太。若くて甘い十七歳の高校生。そして男子だ。そのオレに向かってお嬢様……。
この女、見かけによらずなかなかのすっとぼけ天然ナチュラルガールなのか? しかし、そんなことでオレの想いが揺らぐと思うのであれば、片腹痛い。好きだ。
その時、純白の少女の背後にある窓ガラスが日の光に反射した。ふと見ると、その窓の、オレがいるべきその位置に、一人の女が映し出されていた。
年の頃はオレとそう変わるまい。吊り上がった眉、そして目。高く上に向かった鼻、形は良いが酷薄そうな薄い唇。綺麗に整えられた髪は漆のように真っ黒だ。その髪と合わせたかのような黒を基調としたドレスは、腰の細さを強調するかのようにウエストが細く、締まっている。美人な上にスタイルも良い。しかし、この好感度の低さはどうだ。
それはまぎれもなく『悪役』であった。
悪役が纏うに相応しい色、それは漆黒に他ならない。白の要素なぞあろうはずがない。だから、それの着るドレスは漆黒でなくてはならないのだ。そしてそんな「それ」とはこのオレだ。だが、しかし、まだわからない。オレじゃないという最後の可能性を試してみた。
右手を上げる。ガラスの中の令嬢は左手、すなわちオレが上げたのと同じ手を上げた。
左手を上げる。すかさず令嬢は右手を上げた。すなわちオレと同じ動きをした。
そんな仕草をして両手を掲げた令嬢の姿はどことなくサルを想起させる。いいとこオランウータンだ。チンパンにすら届いていない。なんと間抜けな令嬢だろう。
間違いない。ガラスの中の令嬢はこのオレだ。すなわち、今、オレは令嬢となっているのだ。漆黒のドレスに身を包んだ、美しくも好感度の低い令嬢。
そう、それはつまり『悪役令嬢』である。
なるほど、そう来たか……。