盛るのか?
我が妹は見た目すら変わってしまった。前髪をボサボサに伸ばすようになり、フレームが太くて黒い眼鏡をかけるようになった。ちなみに眼鏡は伊達である。ダンディーな男を伊達男ともてはやすが(俺は将来その候補筆頭である)、全然伊達じゃない。むしろ野暮である。野暮眼鏡だ。
彼女は明らかに自分の顔を隠そうとしている。この兄に対してもだ。俺だけならまだいい。いや、もちろん俺だけだと悲しくはある。幸か不幸か(多分不幸だろう)俺だけにとどまらず、残念ながら彼女は中学の学友の前にも、今のこの惨状で参上するのだ(またやっちまった俺……。今日も素晴らしいライムを作ってしまった)。
いつも学校で笑っていた明凜は、陰鬱に俯き、髪と眼鏡で顔を隠す地味な女の子になってしまった。いや、元から地味ならそれでいい。俺はそれも個性だと思うし、それが自然体なら尚良い。しかし、本来の明凜が中学一年夏までの明凜だったとしたら?
これを「残念」で、「惨状」と言わずして何と言おう? 兄としては、野暮眼鏡なんか放り投げて、前髪を上げ、なんならおデコ全開にして、その顔を空に向かって上げて欲しい。
なぜなら、彼女は可愛いからだ。もちろん、顔面上の目鼻の配置のことである。兄の俺から見た、という贔屓目はあると思う。しかし、そのアドバンテージを差っ引いても、明凜は可愛いと思う。
しかし、このルッキズム全盛の世の中においては、たとえ兄妹であっても、それを口にするのは憚られる。オレは元来中身はアメリカンなので、陽気に「ヒューイ(←口笛)、今日も可愛いね」と、妹に対しても言える自信はある。
しかし、同じ血を分けた血族でありながら、妹はアメリカンではない。ジャパニーズである。そこは昔からそうだった。多分、そんなことを言われたら、さっきのように頬を真っ赤に紅潮させて「恥ずかしいから!」と、この兄をさっきのように怒鳴りつけるだろう。打擲すらするかもしれない。
でも、と思う。変わってしまった今の明凜に、なんというか、自信を持たせてやりたい。だいじょうぶマイ・シスター。君は薔薇より美しい。いや、それは少し、いや、かなり言い過ぎたが、それくらいのもんだ。そう言ってやりたい。そういう動機でも、相手の容姿を褒めるのはダメなのだろうか。
「お兄ちゃん、」
「え? あぁ……、何?」
明凜の一言に顔を上げるが、なんせ前髪ボサボサ、極太黒縁眼鏡なので、いかんせん表情がわからない。ただ、声のトーンからすると不安そうではある。
なんだ?心の中を覗かれたか? おまえはエスパーだったのか? それとも言って欲しいのか? 遂におまえもアメリカンになったか? 言ってやろうか? だいじょうぶマイ・シスター。君は薔薇……。
「疲れてる?」
あ、なんだ。そっちか。
「いや……、全然」
オレは笑ってみせた。
「そう……」
「なんで?」
「今日は、全然、話さないから……」
話したい。正直俺も話したい。なぜ俺が黙りこくっていたか、そのわけを。しかし、我が妹はジャパニーズだ。話すのはなかなかにして難しい。
「あぁ、まぁ……、そうだな、特に最近、ニュースもないから……。それだけだよ。別に疲れてないよ」
「ふーん……」
「あぁ、そうだ!」
「うわっ、びっくりした……」
「あったぞ。ニュース」
「え、何?」
「おまえ、アニフォトって知ってるか?」
「あー……」
あからさまに顔を左斜め四十五度の下に逸らした。
「知ってたか」
「え……!」
ビクッと体を震わせるように俺に向き直った。眼鏡の向こうの目が前髪越しにチラリと見えた。ヤベッ……!という感じだった。どうやら知ってるようだし、なんなら持ってるようだ。
「盛るのか? おまえも」
アニフォトを持ってる、ということは、つまりはそういうことだ。このアプリはいかんせん盛り過ぎなきらいはあるが、盛りは盛りだ。……いや、蕎麦の話じゃないぞ。写真に写る顔面の話だ。ということはつまり、見てくれを何とかしたいという兆候が現れたということだ。隠すのでなく、より可愛くなりたいということだ。そう、明凜が元の明凜に戻る兆しが見えてきた、ってことではないか!
盛れい、盛りまくれい、我が妹よ! 盛って盛って盛りまくり、以前の明凜に戻るのだ!
だがしかし、我が妹は、
「ももも、もー……!」
と、言ったまま、しばらく固まってしまった。
牛か? 盛る前に、我が妹は牛になったのか?
「ももも、盛っても……、私なんか、盛っても……、所詮……、仕方ないよ……」
そう言って、うつむいてしまった。最後は消え入りそうな声だった。
しまったー! 間違えた! 俺は完全に見誤ったのだ。左斜め四十五度下を向いた時点で、おそらくはインストールしたであろうアニフォトのことについて、触れて欲しくなかったことに気づかねばならなかった。しかも「盛るのか?」のオマケ付きだ。しくじった。完全にしくじった。
おそらく明凜は、まだ元の明凜に戻る初期段階。どんなジャンルでも初期段階というものは最もデリケートな段階である。野球なら、どんな名投手でも初回の失点率が一番高いそうである。それくらい初期段階というものは不安定なものなのだ。
そんな時はむしろ、そっとしておいてやるのがやさしさである。それがどうだ。俺はその最もデリケートである段階の明凜を突ついてしまった。これを勇み足と言わずして何と言おう。
しかし、今更謝るのも変だ。むしろ、かえってこじれる。どーしよー……。
うぬぅ、こうなったら、取れる方策は唯一つ。なんでもいい、話題を変えることだ。何かないか? 何か手近なものは……? そんな、俺の目に飛び込んできたのは、明凜の目の前にあるきのこスパだった。
「……しししし、塩加減とか、どどどどど、どうかな? ちょちょ、ちょっと、入れ過ぎちゃったか?」
我ながら何だそれは? 今更か? そんなことは食事を始める時に言うことだ。もう、半分くらいは食い進んでいるぞ。
明凜は何も言葉を発さず、俯き加減に細かくフルフルと首を振るだけだった。
「そそそ、そうか……、なら、なら、なら……、なら、よかった……」
その音声を最後に、沈黙が降りた。そして沈黙は延々と引き伸ばされる。放ったらかしにしたラーメンのようだ。俺たちが食ってるのはスパゲッティだが。
「お兄ちゃん、」
しかし、意外にもラーメンのように伸びきった沈黙を破ったのは明凜だった。
「お、お、お、おウ! 何だ?」
救われた気分だった。よし来い、我が妹よ。どんな話題も拾ってやる。
「……こういう時、もう一人いるといいね」
「え?」
なんか、嫌な予感がした。
「あ、あぁ、でも母さんは出張だから、今日は仕方がないよ」
「うん、母さんも……、そうなんだけど……」
その前置きでほぼわかった。俺は、来て欲しくない次の言葉が、来なければいいのにな、と思いつつ固まった。その話題は、拾えない。そして明凜は、その「次の言葉」を放った。
「父さんが、いてくれたら……」
「俺たちに父親はいない」
俺はなるべく、平静を装って言った。装えたかどうかはわからないが。