すすれない
「でもさ、あんたたち、偉いよ。伊織川くんも、県立以外受けてないんでしょ?」
またしても唐突に摩沙江さんが切り出した。
「はぁ、まぁ……」
「受けるだけでもお金かかるもんね。ヒカルコちゃんも、お母さん、感謝してるよ。言わないだけで。伊織川くんのお母さんも、同じように思ってるはず」
「で、あれば嬉しいですが……」
はっきり言おう。こういう話は苦手である。
「役にも立たない偽善より、役立つ偽悪ってね」
「どう解釈していいか、迷うところですが……」
「ま、私は二人とも仕事できるから使ってるだけだけどねー」
「どっちが偽悪なんだか」
ヒカルコさんは隣にいるオレにだけ聞こえる音量で呟いた。
「というわけで、伊織川くん。早速仕事お願いね。音声ファイルはいつものフォルダに入れてあるから、今日はそれの書き起こしお願い」
「わかりました」
「それじゃ、よろしくねー」
そして摩沙江さんは自分の仕事に戻っていった。
「じゃ、私はちょっと休憩するか」
会長は摩沙江さんにもらった鳩サブレーを写メに撮った後、早速封を開け、鳩を頭から齧った。
「エックスに上げるんですか?」
「インスタ」
「そういえば、つかぬことをお聞きしますが、」
「ん?」
「自撮りをまんまアニメのキャラクターっぽくするアプリ、知ってます?」
「ああー、あれか。アニフォトだろ?」
ヒカルコさんは口をもぐもぐさせつつ答えた。可愛い。
「やはりご存知でしたか」
「そりゃな」
「アニフォトって言うんですか。あれ、すごいですね。色んな作品のタッチで自画像作れるんですね」
ヒカルコさんは頷いた後、ティーカップから紅茶を一口飲んだ。可憐だ。
「でも、版権とか大丈夫なんですかね?」
「違法アプリだからね」
「え! ヤバいじゃないですか」
「それだけじゃないぞ」
「何があるんです?」
「写す時、後ろにマンガとかテレビとかがあると、撮影された人はその中に入っちゃうらしいよ。何か映るものもダメで、パソコンの画面とか鏡とかもダメ」
「え? そうなんですか?」
「うん。みんなそう言ってる」
オレは驚愕した。そんなヤバいカメラがあるのか!ではない。そんな都市伝説を信じるヤバい輩がいるのか!と驚愕した。この場合の「みんな」とは、正体のない「みんな」であろう。存在しない「誰か」が言い出したことを、「みんな」が口伝し、いつの間にやらそれが真実とすり替わるのだ。
「なんでそんなヤバいアプリ使うんですかね?」
「まぁ、盛れるからじゃないか?」
「盛れるっていうか……」
自身のアニメ化である。しかし、仮に噂が本当だとすると(そんなわけねーけど)、危険と引き換えに「盛れる」を優先させるとは……。盛る、つまり現実から目を逸らすことはそれほどまでに優先度が高いのだ。
「伊織川の妹君も使ってるんじゃないのか?」
「いやあ、どうでしょう。……それって、出回ってるの最近ですよね?」
「あぁ」
「であれば、そもそも知らないかもしれません」
「何でだ?」
「ウチの親、二週間の出張中なんです」
「あぁ、そうだったか……」
「はい……」
「……私にできることがあれば、力になりたいが。ほら、兄貴といっても異性だろ? 異性相手には話せないことも、同性の私になら話せることもあるかもしれない」
「いやぁ……。お気持ちは嬉しいんですけど、多分、逆効果だと思います」
「逆効果?」
「ヒカルコさんは、眩しすぎるんですよ」
「私はまだフサフサだが?」
「真顔で言うの、やめてもらえます?」
マンションの鍵を開け、中に入り、ドアを閉めると同時に鍵をかける。自分でも癖になってるのがわかる。靴を脱いで廊下を進み、部屋の前で立ち止まる。ドアをノックする。
「ただいま」
返事はない。いつもなら、「あ、おかえりー」という、鼻にかかったような抑揚のない間の抜けた声が返ってくるのだが。
「ただいまー。……明凛?」
尚も声をかけるが返事はない。まだ帰ってないのか?
「いるのかー? 開けるぞー……?」
ソロソロとドアを開ける。相変わらずすごい部屋だ。イケメンだらけ、しかも二次元。ポスター、カレンダー、フィギュア、マンガ、月刊誌などなど。なかなかにして絶景である。
見ると、机に向かう姿が見えた。中学指定のジャージ姿で、何やらタブレットに向かってペンを走らせている。多分、イラストか漫画を描いているのだろう。
小学校の頃、よくコンクールで賞を取っていた。小学校の頃は我々家族にも自慢の絵を披露してくれたものだが、中学に上がってからは残念ながらパタッとなくなってしまった。そのことも二年前からか……。
ボサボサに伸びた前髪と太っといフレームの黒縁眼鏡のせいで、その横顔からは表情はわからないが、例によって上唇をベロベロと舐めまくっている姿から察するに相当集中しているようである。自分の部屋の闖入者には微塵も気付いていないようだ。
そこまで夢中になっているのなら放っておくか、と思ってソッと扉を閉めようと後ずさったら、かかとを妙に勢いよくドアの柱にぶつけてしまった。その音と俺の「イテッ!」の声が意外と大きく響いてしまった。クルッと我が妹は振り向いた。
「……! お兄ちゃん!」
みるみる明凛の頰が紅潮していく。
「私の部屋には入らないで、って言ってるでショオ!」
期せずして、普段なかなか聞くことのできない我が妹の絶叫を聞くというレアな体験ができた。いや、そうじゃない。その意外な音圧に気圧され、後ろにスッ転んでケツを強か打ってしまった。
「痛ってェー……」
ケツは痛ェ、かかと痛ェで、悲痛な叫びを上げる兄の目の前で、妹は無慈悲にも扉を閉めた。それでも俺は、妹に聞かねばならぬことがある。
「夜何食べたい?」
尻餅をついたままドアに問う。
「スパゲティ」
そこはちゃんと答えてくれる。スパゲティか……。確か、まだシメジとエノキが残っていたはず。
「きのこスパでいいか?」
「いいヨー」
声のトーンがいささか明るくなった。兄は強い。なんせ、妹の胃袋を握ってるからな。
よっこらせ、というかけ声と共に立ち上がり、そのままオレの部屋に行って鞄を投げ捨てるように下ろす。そこから洗面室に移動して手洗いとうがい。コンタクトレンズも外す。再び自室に戻り、制服から部屋着に着替えてベッドに腰を下ろす。眼鏡はまだいいや。全身から力が抜ける。おまけに視界もボヤけてる。
「なんか疲れた……」
思わず声が出てしまい、慌てて噤む。別に誰も聞いちゃいないが。
机の上の時計を見る。もうすぐ七時だ。遅くなってしまった。今日はジョギングはなしでいいや。たまにサボるくらい、いいだろう。
それより、メシ、作んなきゃな。明凜が待ってる。眼鏡が遠い。
明凜はモソモソとスパゲティを音もなくすする。
確かに、音を立てずに麺を食べるのは洋食のマナーという観点からは正しい。間違いない。なんせ、奴らはすすれないのだから。しかし。しかしである。明凜のこの食べ方は、どこか間違っている気がするのは俺だけだろうか? こいつもそれなりに身長は伸びたが、こういう癖みたいなものは、身長一メートル未満の小さい頃から全然変わっていない。
しかし二年前、明凜は変わってしまった。明凜が中一、俺が中三の時だった。
それまでの明凜は、どちらかというと活発な女の子だったと思う。学校で遠めに見ていて、取り立てて目立つということはなかったものの、普通にみんなと楽しそうに学校生活を送っているように見えた。いつも大体笑っていた。
ところが中学一年の秋、時をほぼ同じくして職場復帰した母さんが出張に出る時は、必ずと言っていい程、学校をサボるようになった。母さんはそのことを知らない。出張はそれほど長いものにはならないので、体調が優れないから、という欠席理由は別に学校にも疑われるようなものではない。俺も黙っている。