闇営業
「申し訳ございません、遅れました」
「遅いぞ、乱太」
オフィスに半ば駆け込むように、謝辞を述べつつ入ってきたオレに(ノックはしたぞ。ぬかりない)、間髪入れずにそんな言葉が浴びせられた。
小ぶりながらも小綺麗、そして清潔なオフィス。その入り口に近い席に鎮座し、イヤホンに耳を傾けつつ超高速でキーを叩く女性が一人。
不敬にもオレを罵倒したのはこの女だ。オフィスの中でも一際若すぎるくらいに若い。それもそのはず、この女、ウチの高校の一つ上の先輩である。高校生ながら社会人に混じり働き、それでいて場違いな感じはない。
流れるような緑の黒髪、形の良い鼻の上にちょこんと乗っかる理知的な眼鏡。レンズの奥には涼しげな瞳。そこから下へ行けば小ぶりではあるが、引き締まった口元。芯の強さを感じさせるに十分である。
しかし、遅れたといってもオレはいつも十分前に来る。それを今日は五分前に来ただけだ。つまり、定刻には間に合っている。念のため、オレの名誉のために断っておく。じゃあ謝る必要ないじゃん、と思うかもしれないが、それはそれ、これはこれ、オレは伊織川。
「すみません……、って、会長。下の名前で呼ばないでください、っていつも言ってるじゃないですか。伊織川でお願いします」
会長の隣、つまり一番ドア側の席に座り、PCの電源を入れつつ抗議した。
「それを言うならおまえも同じだ」
会長は一旦キーを叩く手を止め、イヤホンを外しながら物申す。
「え? 同じって、何がですか?」
「会長と呼ぶな。ここは学校じゃないぞ」
「会長ぉー。お疲れ様です。これ、お土産ですのでよろしければ」
含みのある笑顔を慇懃無礼気味に見せながら登場したこの女性、名を森山田摩沙江という。
会長と同じく、女性としては割と背が高い方で、スラリとした体型を維持している。「維持している」と言いつつ、正確な年齢はわからないのだが。こうして笑うと極端に人懐っこくなってしまうが、黙っているとなかなかのクールビューティーであるところも会長に似ている。
何かと似ているこの二人だが、それもそのはず、摩沙江さんは会長の母方の叔母にあたる。摩沙江さんの頼みで会長はこのオフィスで働いている。そしてその会長の口利きで、オレはここのバイトを紹介してもらった。
その摩沙江さんが蓋の開いた鳩サブレーの箱を差し出している。
「もう、摩沙江叔母さんまで……! あ、いただきます」
抗議をしつつも、会長は鳩サブレーを手に取る。しかも二つ。ぬかりない。
「ほら見ろ! 摩沙江叔母さんまで会長と呼ぶのはおまえのせいだからな」
「知りませんよ。学校じゃいつも会長って呼んでるじゃないですか。いちいち場所が違うからって急には変えられませんよ」
「そうよぉ。会長は会長よ。ねぇ、伊織川くん。はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
オレは奥ゆかしく、ひとつだけいただいた。これはこれでぬかりなし。
「もー、勘弁してよ」
「いいじゃない。会長さんなんでしょお?」
摩沙江さんは面白そうに笑っている。
「そうですよ。それに、そんなに嫌がらなくてもいいじゃないですか。こっちはその会長になりたいっていうのに。贅沢ですよ」
「なんだ、伊織川。遅れたのは闇営業が理由か?」
なんだかんだ言いつつ、オレのリクエスト通り苗字で呼んでくれる。会長はやさしいのである。好きだ。しかし、聞き捨てならない。
「や、ややや、闇営業ってなんですか! 人聞きの悪い」
「動揺しているようだが?」
「してません。ノット動揺アットオールです」
「フフン。生徒会長になるためにエサを撒くのは大変だな。ま、私はそんなことしなくてもなれたけどね」
「うるさいですよ」
「ねぇ、摩沙江叔母さん。こいつ、トップの県立行けたのに、なんでランク三つも下げてウチの高校来たか、聞きました?」
「えー? 知らなーい」
「ちょ、ヒカルコさん!」
会長の本名は荒鷲沢光子という。ここでは「ヒカルコと呼べ」と言われている。摩沙江さんが下の名前で呼んでいるかららしい。それに合わせろということだ。
「それだけ下げれば簡単に成績トップになれるし、生徒会長にもなりやすいからなんだって」
言っちまった。
「え、何それ? ウケるー!」
「なんでこいつ、生徒会長になりたがってるかわかる?」
「え? なんで?」
「生徒会長になれば、学校を手中に収めたも同然なんだって」
「あははははは……! ヒー。ゴホッ」
摩沙江さんの爆笑がオフィスに響き渡る。そんなに笑わなくても……。
「生徒会長になっても、学校手に入れたとか、そんなことないから。あんた書記なんだから、見ててわかるでしょ」
「いや、ヒカルコさん、ウチの学校のトップじゃないですか」
「それは成績でしょう? 別にクラスでもそんなに目立つ方じゃないよ、私。そもそも、生徒会長だって、頼まれたからやってるだけだし。私、帰宅部で他にやることもないから」
「こうしてバイトしてるじゃないですか」
「まぁ、それはそうだけど……」
ヒカルコさんはこんなこと言ってるが、そんなことはない。ヒカルコさんは紛うことなき我が校のトップに君臨している。
その美貌、その頭脳、そのカリスマ性。そしてその地位を確固たるものにしているのは生徒会会長という肩書きなのだ。
スクールカーストとかいう曖昧なものをオレは信じない。生徒会長という肩書き、明文化された階級をこそ、オレは信じる。生徒会長こそが唯一絶対的に学校から与えられた爵位なのである。つまり、そこのポジションさえ抑えれば、その学校を制したも同然ではないか。
「それじゃあヒカルコちゃんと同じじゃん」
突如、摩沙江さんがグングニルの如き横槍を入れてきた。
「え……! そうなんですか?」
「ちょ、摩沙江叔母さん!」
不意打ちのカミングアウトに、今度はヒカルコさんが絶句する番だった。
「この子もねー、ちょうど伊織川くんと同じで、三つランク下げたんだよ」
どうりで。合点がいった。会長ほどの頭脳の持ち主が、なぜウチのような凡庸ボンクラ高校にいるのか、正直違和感は感じていた。
「そうですか会長。やはりあなたも確実に生徒会長というトップの座を……」
「おまえと一緒にするな」
オレは口をつぐんだ。怖かったからだ。
「ヒカルコちゃんはね、好きな男を追って今の高校に入ったんだよ」
へえー、と思った。思わずヒカルコさんの顔を見てしまった。心なしか頬を赤らめているような気がする。可愛い。
それはともかく、なんとなく、普段クールな会長からは、そういうことが連想できなかったし、考えてもみなかった。もちろんモテるとは思う。モテまくってはいるのだろう。しかし、そういえば浮いた噂を聞いたことがない。
「もう、叔母さん、ホントに怒るよ」
「はいはい。怖い怖い」
「伊織川の知らない人だよ。私のニコ上だから」
会長はオレに言った。ちゃんと事実を認め、最低限ながらも説明してくれる。会長は誠実なのである。好きだ。
しかしなるほどそうだったか。オレが入学した時にはすれ違いで卒業していたということになる。そして今その人とどうなっているか、そこはさすがに秘匿事項であるらしい。