ポイッ
「もう、しょうがないわねぇ。どいて。私がやってあげます」
ところがサッチャー嬢、そんなことを言った。どういう風の吹き回しだ? 毒を撒き散らしている割には、なかなか良いとこあるじゃあないか、幸薄い女。いやダメだ。そんなことをしたらおまえも電撃を喰らってしまうぞ、幸薄い女ァ!
あ、まさか……! 身を挺してまで瑠璃のことを……。うぅ、すまん……。すまんかった、幸薄い女。おまえのことを毒霧女とか思ったオレを許してくれ……。
瑠璃をどかせ、代わりにオレの足元に跪いたサッチャーだったが、何を思ったか靴紐を靴から外してしまった。と、思う間もなく、
「ポイッ」
と言って、その紐を近くの肥溜めに放り込んだ。
「……」
何してくれてんじゃあ! 幸薄毒霧女あああァァ!
「あ、手が滑ってしまいました。瑠璃さん、そこに落ちたクリスティーヌ様の靴紐、拾ってくださる?」
……なるほど、そう来たか。やはりこの女、なかなかである。
でも君、今「ポイッ」って言ったよね? かけ声かけたよね? 手、滑ってないよね? そしてその前に、その靴紐、ご主人様のものなんだけど、その落とし前はどうつけてくれるつもりなんだイ? 肥溜めに落ちた靴紐をオレの靴にはめるの?
「え! ……は、はい。今すぐに……」
やめろオ! やめてくれ瑠璃! それだけは勘弁だ! しかし、瑠璃は肥溜めに近づき、今にも靴紐を拾おうとしている。ぬう。どうすれば……。ええい、ままよ!
「オーホッホッホッホ! 瑠璃、」
「は、はい……?」
「元は北斗七家のお嬢様に、肥溜めに落ちた靴紐を拾うなんてこと、できるのかしら?」
「……できます」
「そうかしら? とてもそうは思えないけど?」
「できます!」
「そんなこと言ってる間に、私の靴紐はどんどん肥溜めに沈んでいってるんだけど?」
「い、今すぐ、クリスティーヌ様の靴紐を拾いますので、お待ちください」
「待ってなんかいられないわ。そんなこと言って全然拾ってくれないじゃない」
「そ、そんなことは……」
「やり方がわからないの?わからないのねよろしい。ワタクシが教えて差し上げますワ! とう!」
オレは、ダッシュ一発、肥溜めに近づいた。
「南無さん!」
そして掛け声一発、勢いだけで右手を突っ込んだ。
「……!」
「クリスティーヌ様……!」
「あー……」
ぬおお……! ぬるぬるする……。そして少しひんやりする……。匂いの感想は割愛させていただく。
「こうやるのですことよ! おわかり? 次からは、あなたがやるのですよ瑠璃!」
「は、はい……!」
ぬるりとした感触が手にこびりついている。有り体に言って、気持ち悪い。悪すぎる!
「セバス! シャワーの支度を!」
「はっ!」
紐を拾い上げたはいいが、とても靴に結びつける気にはなれず、そのまま紐が外れた状態で屋敷へと急いだ。実に歩きにくい。
そして歩くたび、その一歩一歩ごとにやり場のない怒りがふつふつと湧き上がり、終いには打ち震えた。この怒り……、この怒りをぉ……! オレはどこに向ければいい……?
「セバス!」
「はっ!」
「鉄の爪」
「ギャー!」
オレはセバスにアイアンクロ―を決めてやった。もちろん右手で。
シャワーで若干気が晴れたということもあり(手の気持ち悪い感触はこびりついたままだったが)、気分転換に部屋の掃除をした。基本的には毎日メイドや執事が掃除をしてくれているので綺麗ではあるのだが、部屋の汚れというものはなかなかにして尽きない。毎日、寝たり起きたりするので、どうしたって埃はたまる。
というわけで、手始めに窓拭きからはじめた。あぁ、やはり掃除はいいなぁ。なんか落ち着く。やればやるだけ綺麗になっていくから、やる気も出る。掃除って裏切らないなぁ。心ならずも瑠璃をいじめてしまい、ささくれだった心が洗われていくようだ。
しばらく部屋をきれいにしていると、そのうちに「掃除の効力」その二が始まる。一心不乱に手や体を適度に動かしていると、逆に考えがまとまったり、良いアイデアが浮かんだりするのだ。俺が手を動かしていると、これまでのことや今後のことが頭に浮かんできた。
残念ながらオレはヘドラドリンクを吐いてしまったが、幸いにしていくつかのことは覚えている。その中で一番有益な情報は「明凜はこの世界に来ている」ということだ。そう、明凜はここにいる。しかも、確実に。つまり、オレはこの世界に来た甲斐があるってことだし、オレはやはりこの世界に来なくてはならなかったのだ。
そしてもう一つ。明凜がここにいる、と同率一位で有意義な情報がある。それは、元の世界に戻れるということだ。
ひゃっほーう! 帰れる! 帰れるんだ、オレは! どうやって帰るかわからないけど! あっはっはー。そこ一番重要じゃん。でも、帰る術がない、だと全くもって絶望しかないが、帰ることができるということがわかっていれば、希望が持てるではないか。ゼロとイチでは全然違う。だからオレは、明凜を連れて帰ることができるのだ。
というわけで、さてどうやって明凜を探そうか、というのが当面の問題なのだが、昨日夢の中でクリスティーヌ嬢に会ったことによって、一つ大きなヒントを得ることができた。
それは、明凜は「明凜として」この世界にいる可能性は極めて低いということだ。
オレは元の世界から、アニフォトで写真を撮ることによってマンガの中の世界に来た。そしてオレは今、クリスティーヌの体を借りて、この世界に存在している。
明凜がこの世界に存在するということは、オレと同じようにあのアニフォトを使ったことはほぼ間違いない。だとしたら、やはり明凜もオレと同じように誰かの体の中に入っていると考えるのが自然だ。
だから、「明凜」を探すのではなく、「明凜が入った誰か」を探すのだ。
つまり、オレが入ったクリスティーヌと同じように、普段と何か変わったところのある人物を探す、ということを当面は捜索の主眼に据えてみるのはどうだろう。
……難易度、上がってないか?
自分自身、こうしてクリスティーヌ嬢の体を借りているが、今のところそのことは誰にもバレていない。ということは、逆に明凜を探すのも難しいのではないだろうか。
しかも、オレはこの世界の住人のことについて詳しくはない。その上、彼らは何らかの役を演じて普段暮らしている。この二点を乗り越え、この人物は普段と変わりがあるかどうか、ということを探らねばならない。
ぬぅ、先が思いやられる……、と頭を抱えたのとほぼ同時だった。
「ふなななぁぁぁ……ん!」
またしてもオレを電撃が襲った。
何か? 悪役令嬢ってのは、自分じゃ掃除もできないのか? なんて不便なんだ……悪役令……嬢……。
「……あ! クリスティーヌ様!」
オレの悲鳴を聞きつけ、巨大な蜘蛛を彷彿とさせる誰かが来てくれた。……つーか、誰だったっけこいつ?
電撃から目覚めたオレは、新しくドレスを作るために仕立て屋へ行くことにした。
急に決めたことなので、反対する者が出た場合は百叩きの後、市中引き回しの上、打ち首獄門の刑に処してやろうと思っていたが、何せこのオレ、悪役令嬢様のたっての希望であるからして、逆らう者は誰一人いなかった。
元々は仕立て屋が我が屋敷に赴く手はずとなっていた。しかし、そこはそれ、オレ様がワガママを発動してやった。どうだ。悪役令嬢っぽいだろう。
しかし、単に気まぐれのワガママ発動ではない。そこがそんじょそこらの悪役令嬢とオレ様令嬢の違いである。ワガママを発動するにはちゃんとした理由があるのだ。
このマンガの世界を知るための現地調査。それこそがワガママの理由である。




