二時会
地平線の彼方まで広がる広大な薔薇園のただ中に、オレは忽然と一人佇んでいた。
ウチの屋敷にも薔薇園はあったが、ここまで広くはなかったはずだ。屋敷も見えない。さてどうしたものかと途方に暮れていると、見慣れた後ろ姿を見つけた。
あれは我が妹、明凛ではないか。
やれやれ、ようやく見つけたぞ。おい明凛、おまえどこほっつき歩いてたんだ。母さんも心配しているぞ。と声をかけながらそちらに向かうが、一向にその背中は振り向きもしなければ近づいても来ない。どうしたことだ、と薔薇の中を明凛の背中めがけて真一文字に突き抜ける。
しかし、当然のことながら薔薇には棘がある。棘はオレの腕と言わず頬と言わず、その刃を容赦なく突き立ててくる。痛ェ痛ェと我ながら情けなくも悲鳴を上げていたら、薔薇の蔦に(薔薇に蔦なんてあっただろうか?)足を取られて転んでしまった。
痛ッてェー……、と泣きそうになっているところを、何やってるの?と声をかけられた。明凛か、と思い顔を上げると、瑠璃であった。
おお、我が麗しの君。すみませぬが、ウチの妹を見ませんでしたか? あまり華やかとは言い難い女子ではありますが、なかなかの器量良しで、何より家族思いのとても優しい子なのです。兄としては誇り高くも心配してやまない愛すべき妹なのです。どこに行ったか存じませんか?すぐそこにいたはずなのですが……。
と話していると、話した相手は明凛であった。うおう! おまえいつの間にやら……!
お兄ちゃん、私のこと、そんな風に思ってたんだ? いや、その、なんだ? 気持ち悪い。気持ち悪いことないだろ貴様!それよりなぜにして突然消えた!いい加減にしなさい。うるせーよ。なんだその口の利き方は兄に向かって……あ痛ぁ!
いきなり鞭で打たれてしまった。なにすんだ明凛……と、思いきや、それはオレ、つまりクリスティーヌ嬢であった。見ると、怒りの形相で涙を流している。そして、くるりと背を向け、行ってしまった。
待ってくれ! オレはその背中に向かって叫んだが、その背中はいつの間にやら四人になっていた。クリスティーヌと、明凛と、瑠璃と、あと……セバスティアンだ。なぜおまえが混ざっている?
手を伸ばし、目を開けるとハッキリしない天井があった。夢だったか……。いや、まだ悪夢の中にはいるのだが……。しかし、なんなんだ、今の夢は一体……。
オレはしばし手を額に当てた後、組んだ腕を枕にして天蓋を見上げた。腕枕の下には大きな羽毛枕があるので、言ってみれば枕と枕でダブル枕だ。
今朝、起きた時はもちろん天蓋なぞはなく、中古マンションのやや薄汚れた天井が直接見えた。その日のうちにベッドからの眺めがこうも変わるとは、朝のオレに言ったところで信じはしまい。しかもマンガの中だ。夢でも見ているのだ、と朝のオレなら一笑に付していただろう。
窓を見ると、もうすっかり暗くなっている。今は何時だろうか。皆寝静まったのか、屋敷の中はしんとして、物音一つしない。
それにしても、この世界はおかしい。マンガの中だから当たり前だと言われればそれまでなのだが、それにしてもおかしい。あの狂気の呪術ドリンクが見せた風景然り(ほとんど忘れたが)、三度も食らった雷撃だか電撃だか然り。これから相当難儀しそうである。今更ながら、あの狂気呪術ヘドラドリンクを吐き出してしまったことが悔やまれる。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
「誰だ?」
不躾ではあるが、悪役令嬢のキャラに則った返事をしてみた。すると、ガチャリと音を立ててドアが開かれた。何も言わずにレディ(オレだけど)の部屋のドアを開けるとは。なんて不躾な奴なんだ。
「どうもぉー。クリちゃん、お疲れちゃーん。今、おやすみちゃん?」
いきなり部屋の電気を点けた。不躾である。少しの間、明るさがキツかった。それにしても、蛍光灯の明かりはLEDである。十九世紀的世界観ではなかったのか。やはりこのマンガ、設定的にずさんである。
「誰だ? おまえ」
そしてつい、こう聞いてしまった。これ以上はないであろう軽薄な挨拶をかましてきやがったのは知らぬ人間ではなかった。セバスティアンである。しかし、あまりにもあんまりな昼間との変貌ぶりに、本当に一瞬誰だかわからなかった。なんだこいつ。精神錯乱か?
「誰だ?なんて、つれないなー、もー、クリちゃーん」
「クリちゃん、って……」
ぬぅ。執事のくせに生意気な。……そう思ってしまったオレは、中身も悪役令嬢になりつつあるのか? いかん。そんな人間にはなりたくない。自分をしっかりと保たねば。
「え? 今更? いつもこの時間ではそう呼んでるじゃん」
いつもそう呼んでる……? この時間……? よく事情はわからないが、どうやらそれがこの世界での、少なくともこの屋敷でのしきたりらしい。ここは合わせなければならないだろう。
「あ、あぁ……。すまない。そうだったな……、そうだった。ちょっとまだ、記憶の混濁があってな……」
「えぇ! そうなのお……! まぁ、確かに、一日に三回も電撃食らっちゃあなぁ……。じゃ、今日どうする? 二時会、休んじゃう?」
「……二次会?」
「もうー、深夜の二時会も忘れちゃったのォ? このためにオレら生きてるようなもんじゃーん」
このために生きてる……? その二次会とやらはそんなに重要なものなのか。であれば、これは参加しておいた方が良いであろう。
「いや……、いや! 大丈夫。行ける、行けるぞ。問題ない」
「ホントにぃ? 大丈夫? あんまり無理しなくてもいいよ?」
「これのために生きてるほど大事なイベントなのだからな。行かない選択肢はない」
「おおー! クリちゃーん、気合入ってるねぇ! そう来なくっちゃ! Yeah!」
いえい?
「うまい! いやア、この一杯のために生きてる、って感じだな!」
セバスティアンはビールを一気に飲み干すと、ほとんど叫ぶようにそう言った。
このために生きてる、って酒かよ! 全くもってダメオヤジだな。
しかし、何より問題なのはこの男が飲んだくれているこの場所だ。
……小学校の教室である。しかもオレが通っていた。
どういうマンガだここは!
さすがにド肝を抜かれた。セバスティアンに二階の隅にあるこの部屋(というより教室)に案内された時は、ホントどうしようかと思った。それでも表面的には冷静さを完璧に演じきったオレを褒めて欲しい(多分演じきれたと思う)。
そして中には、屋敷の使用人が揃っていた。残念ながら瑠璃を除いて。本当に残念だ。
この屋敷の使用人は全部で五人。セバスティアンとキャサリンとサッチャー。
それから、ヒョロ長い中年男性(三十ちょっと過ぎくらいか)……こんな奴いたっけ? あ、そうだ、思い出した。確かトニーとか言ったか。上背は百九十近くあるくせに、実に存在感が薄い。なぜこれだけデカいのにこうも存在感がないのか。不思議である。
それと、その横のガタイの良い中年男性。こちらはアームストロングだったはずだ。トニーと並ぶと小さく見えるが、こちらも大きい。百八十はありそうだ。しかしそれ以上に、横幅がすごい。デブとは質の違う厚さである。胸板なぞは蹴っぱくってもビクともしなさそうだ。ラグビーとかやってそう。
ついでに男性陣でいうと、セバスは元のオレよりちょっと背が高いくらい。大体百七十八といったところ。
皆、銘々飲み物を飲んだり、お菓子をつまんだり、実にくつろいだ様子だ。オレは空いてる中で一番近くの席に座った。いや、しかし懐かしい。机と椅子の大きさからして、多分六年生のものだろう。となると、この椅子に座っていたのは、もう五年前になるか。




