8 そろそろ突っ込みが入る頃かな。
「で、その末裔の二人は仲が悪かったんですか?」
ご機嫌な幸緒は話を戻す。
「……それ以前の話だ。同時に泊まるだなんてある種の運命だと言えるが、向こうにして見ればいつまで経っても断てない血の呪いに感じるらしい。とにかくかち合わせないように、時間も細心の注意を払って、偶然に顔を見ることもないように、あのオブジェを運び込んだんだ。突貫工事の壁を作るよりは有りだろう」
「なるほど、有りですね」
このホテルなら、ベニヤ板が張られていた方がおかしい。
「しかしまあ大変だったんじゃないですか? 重そうですし」
「台に乗せて滑車を入れて運び込んだ」
「ひえ。そこまでするんですね」
「当たり前だ。第一このホテルの売りである”運”が、その二人の客で潰されてたまるか」
吐き捨てた。
お客様を、客如きと、切り捨てたぞ、この支配人。
「そこまで言ってない」
「似たようなものでは」
「似てない」
「まあいいです。運とは?」
「お前従業員の名前を覚えてるか」
「もちろん。美しい鈴村紫乃さん、古町栄治くん、宝生さん。あれ、宝生さんの下のお名前は」
「それはいい。とにかく思い浮かべて見ろ。全部縁起が良さそうだろ」
「縁起、ですか」
幸緒は言われたとおり漢字を思い起こしてみた。
紫乃の美しい顔が戻ってくる。
鈴なり、紫。紫は高貴な色だったはず。
名前コンプレックスだと言っていた古町は、名前が栄えて治めるなんて、たしかに縁起の言い名前だ。エイジ、だと若者っぽいかも、なんて考えたところで、幸緒はふと思い当たる。
「あの。もしかしなくても」
「名前は採用の第一基準だ。お前が受かったのは、その大層縁起のいい名前のおかげだ」
「まさかの名前採用!」
「親に感謝しろ」
「はい、そうします」
幸緒はがっくりと肩を落とした。
連戦連敗をくい止めたこのホテルでの採用は、ただの”名前の字面”採用だった。
生まれてからずっと背負ってきたものだ。
男みたいだとからかわれて来たこの名前が、こんなところで自分の人生の建て直しを担ってくれるとは。
というか、それがなければ採用がもらえなかったと思うと、つくづく自分という人間が社会不適合者の烙印を押されているような気がして物悲しくなった。
どうしてだろう。
学生生活は円満どころか、友達も多くいたし先輩後輩にも恵まれたし、先生もよくしてくれた。普通の学生ライフだったのに。
「安心しろ」
「……なにをですかぁ」
今はこれでもかと言うくらいダメージを受けている。
この負傷を鬼に癒せるものか。
幸緒は恨みがましく見上げたが、宝生は気にすることも無く足を止めた。
おっと、部屋の前か。
幸緒は姿勢を正した。表情もしゃきっと変えると、隣の宝生がらかすかに笑って頷く。
なんだろう、褒められたような気がして、胸がときめ――違う違う、安心する。
「宝生でございます」
宝生が声を張り上げる。凛とした声だ。
幸緒は背を伸ばし、扉の向こうから返事が来るのを待つ。
しかし、しばらく待っても返事は来なかった。
「……あの」
なんとなく声を潜めて宝生を仰ぐ。
宝生は全く表情を変えないまま、じっと待っていた。幸緒も前を向く。
二人で薄暗い廊下でどれだけそうやって待っただろう。
二分かもしれないし、三分かもしれないし、三十分かも、いや、それはないか。
とにかく幸緒は上司である宝生が動くまで待った。こうなっては、返事を待っているのか宝生を待っているのかわからなくなる。
幸緒が混乱し始めた頃、宝生はやっと息を吐き出した。
「もういい。ほら、次に行くぞ」
「いいんですか」
「挨拶は無用と言うことだろう。この部屋は呼び出しがあった場合、私が行きます」
「おお、意外と頼もしい」
宝生はふん、と幸緒を一瞥し、廊下を歩いた。
青の塔の三階から二階への階段はやはり見落としそうなほど細く、そしてやっぱり急だ。上るときよりも下りるときの方が恐ろしい。足を踏み外しそうだ。今落ちたとしても、宝生がクッションになってくれるだろうと思うと安心半分、怒られるのが嫌だなという脳天気な気持ちが半分だった。そろそろ突っ込みが入る頃かな。
「面倒なんでしません」
「あ、そうですか」
幸緒はそろりそろりと足を一歩ずつ前へ足を下ろして行く。
やっとのことで二階へついたときは、宝生をクッションにしなくて済んだことに安堵した。
青の塔の二階の作りは、オブジェがある以外は三階と変わらない。むしろ、オブジェがあってくれてありがたい気がしてきた。どっちがどっちかわからなくなりそうだ。天使たちはいい目印になる。
「仕方ない、ここから業務を本格的に説明しますか」
「おお。やっとですか」
「習うより慣れろ」
「すごい。仕事っぽい!」
「いいか。なにがあっても、取り乱すな」
「は?」
宝生がまじめ腐った顔で幸緒を見る。
「その顔だ」
「あの……?」
「そのきょとんとした顔をするな、と言っているんだ。真顔も、笑顔もだめだ」
「では、どんな顔で……」
「気配を消せ」
「は?」
「極力気配を消せ。なにがあっても一言も発するな、息すらも気をつけろ」
「ごめんなさい、なにを言っているのかわかりません」
「わかれ」
「ええ……横暴」
「いいか、それが業務だ、仕事だ。これから上司である私が、その手本を見せると言っているんだ。いわば新人教育実習。これをクリアして立派なホテルマンと言える」
幸緒から遠かったそれらしい単語をずらりと並べられ、幸緒は力強く頷いた。
「わかりました、お任せ下さい!」
支配人がお客様に対する対応を、黒子のように近からず遠からずの位置でホテルマンの手腕を見て盗めと言うことだろう。幸緒は俄然やる気になった。先ほどの忠告、もとい指導を心の中で反復する。
習うより慣れろ、なにがあっても取り乱さない、きょとんとした顔も、真顔な顔もだめ、笑顔もだめ、気配を消す――ん?
なんじゃこりゃ、と思う前に、宝生は素早くノックしたのだった。