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7 どんなお客様にも、動じない。


 先に階段を上り終えた宝生から、ちらりと見下ろられる。


「ふん、なにを考えていたのかすぐわかりますね」

「カマ掛けましたね!」

「素直な反応はとてもいいことです」

「もうなに聞いても怖い……」


 幸緒はぐったりと項垂れた。この勾配がのいささか急な階段を上り終えた疲れと、なにを聞いてもかわされる上司との会話に疲れた。


「これぐらいでへばるのはどうでしょうか」

「それはどっちのことですか」


 だらりと力なく抜けた肩のまま、幸緒はついて行く。


「両方です。さ、これが配膳エレベーターです」

「ああ、はい」


 先ほどまでの気力はどこへ行ったのか、幸緒はほんの少し虚ろな眼差しで木製の小さなドアを見た。宝生がぱかりと開けると、思ったよりも最新的な銀色のドアが現れる。なんとなく、ロープを引いて上げるんですよ、なんて言われたらどうしようかと思っていたので安心した。しかもシンプルな使い方で、忘れようもない。なんてありがたい。


「では次、赤の3に行きましょう」


 宝生がドアを閉め、意気揚々と部屋の扉の前に立つ。

 幸緒は恐ろしさで縮みそうな身体に針金を入れるようにしゃきっと伸ばし、宝生がノックする動作を片目を瞑って見守った。


 コンコン。


 ああ、鳴った。

 両目を瞑り、どうにか立て直す。

 私は客室係。どんなお客様にも、動じない……多分。



「宝生でございます」


 よし、緊張を和らげよう。

 幸緒は脳内で、宝生でございまあす、と奥様風の明るい声に変えてみた。ぶっと吹き出しそうになる。すかさず手が飛んできて、頭をはたかれた。


「どうぞ」


 男の人の声だ。それも、壮年の。

 いや、まて。声はあてにならない。さっきこそこの真下の部屋で、声から推測したせいで間違えて大変な目にあったばかりだ。女かもしれない、いや、少女かもしれない、半魚人かも、はたまたものすごい毛深い――と考えたところで、髭面マーメイドを思いだしてしまい、幸緒はぶふっと笑ってしまった。宝生が踵で幸緒のつま先をむぎっと踏む。


 すみません、すみませんでした。やります、ちゃんとご挨拶します。


 宝生はすっと足をどけ、扉を開ける。


「失礼いたします」

「失礼いたします」


 幸緒は気持ちを切り替え、宝生に続いた。 



 驚いた。

 気品ある内装だ。無駄に大きく抽象的な絵画はごてごてした装飾の額縁に飾られていて、すらっとしたスタンドライトのシェードは控えめな光をこぼしている。

 つまり、バランスのとれた普通の部屋だ。


 どこぞの有名ホテルのスイートルームに引けを取らないどころか、それ以上の豪華さであり、真似のできない落ち着きがある。これは、このホテルに流れた時間がなせる雰囲気だろう。


 その中央にある向かい合わせになったキャメル色のソファに、スーツ姿の六十近い風貌の初老の男性が座っていた。


「本日から当ホテルの客室係になりました、富山幸緒の挨拶をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」

「かまわないよ」

「ありがとうがざいます」


 宝生とともに、幸緒は頭を下げる。

 心底ほっとしていた。

 よかった。吹き出したり、動揺することなんてなかった。ああ、よかった。


「富山幸緒と申します。よろしくお願いいたします」

「ああ、よろしく」


 悠然と微笑む男性に、幸緒も柔らかく返す。心からわき上がる自然な笑みだった。


「では、これで失礼いたします」


 宝生の退室の礼に続く幸緒の姿を、初々しい孫娘でも見るような目で見られ、もう一度小さく会釈をする。




 部屋から出た幸緒は、関西のおばちゃんのように宝生の腕を叩いた。


「んもう、緊張したじゃないですか。品のいいおじいちゃんでしたね」

「お前マジか」

「宝生さんでもそんな話し方するんですね。いやあ、親近感湧きますよ」


 ふふふ、と笑う幸緒を、宝生は真面目な顔をさらに真面目にして、穴が開きそうなほど見つめてくるが、イケメンでもなんでもないのでダメージはない。


「驚かされる」

「えー、なにがですか」


 いい挨拶ができた。あれこそが、ホテルマンとしてのデビューにふさわしい。なんて気のよさそうな紳士なのだろう。


 幸緒は先ほどの一回目の挨拶をなかったことにした。

 仰々しい部屋にいた髭面マーメイドは夢だったのだ。夜になれば、オブジェのなにからなにまで動きそうなこの奇妙なホテルが見せた、幻だったのだ。うん。そうに違いない。


「なんておめでたいんだ」

「あははは、ありがとうございます!」


 幸緒は脳天気に返した。


 これでやっと、就職して”業務”に携われたのだと思うと、階段を上ってきて疲れていた足が軽やかに動くほどだ。


 働くって素晴らしい。

 人と関われるって、素晴らしい。

 ああ、先の見えない就職活動にきりきり胃を痛める必要がないなんて、そんな心配をしなくていいなんて、なんて素晴らしいことか。

 仕事ってなんて尊いのだろう。

 お母さんが心を鬼にしてでも自立を促すはずだ。あれこそが本当の母親というものなのかもしれない。悪役をかってでてくれてありがとう! 



「……信じられない前向きさだ」


 宝生が眼鏡をずらし、眉間を揉む。


「ありがとうございます!」

「今日一日が終わってもそのテンションだったら褒めてやるよ」

「お任せ下さい!」


 明るく笑う幸緒に、宝生は疲れたような力ない笑みを向け、歩き出した。


「では次」

「はい、次!」

「落ち着け」


 今なら、薄暗い廊下が気にならないほど明るい気持ちで歩ける。

 ちょっとうざったそうな宝生のことも気にならない。幸緒はその背の高い宝生からちらりとはみ出し、廊下を見た。


「あ、本当ですね。通れる」


 二階のあのにこやかな天使たちのオブジェがない。


「っていうか、なんであんなとこにオブジェ置いるんですか?」

「深い訳があるんだよ」

「お聞きしても?」

「廊下の向こうの塔は青煉瓦でできてる」

「では青の塔と?」

「そうだ。その青の2と赤の2の部屋に、ある因縁のある末裔が同時に泊まることが起きてな」

「因縁?」

「ああ……」


 宝生が出した二つの名字に、幸緒は驚く。


「えっ、あちこちで喧嘩した家系のアレですか?」

「なんか怪しいな」

「知ってます、知ってますって」

「ほお」

「いや、本当です。演劇部でやりましたから」

「まさか主役とか言わないよな?」

「乳母ですよ。冒頭十分」

「納得だ」

「ですよね」

「そこは反論しないのか」

「自分の力量を過小評価もしなければ過大評価もしない主義なんです」

「立派だ」


 それ嫌味ですか、と聞く前に、青の塔の廊下に変わった。

 ちょうどオブジェの上だとわかるのは、そこを仕切るように壁の模様が変わっていたからだ。

 赤の塔がストライプの模様。

 青の塔が唐草模様。

 どちらも茶色なので大して変わりはないが、ここをデザインした人が凝り性なことはわかった。真面目すぎる。







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