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6 落ち着いて。


 宝生が扉に向き直るのを見て、幸緒も居住まいを正した。


「行きますよ」


 宝生が綺麗な爪をした手で扉をノックするのを見守る。ここへきて、心臓がばっくばっくと初めて聞くほどの音を鳴らしていた。


 おおおおお、落ち着いて。


 幸緒はぐっと拳を握る。いや、笑顔の方がいいのだろうか。ホテルマンとして、やわらかで悠然とした笑みでいるべきでは。いや。けど、宝生はそんな顔するんだろうか。ちらりと見上げると、一切変わらない表情のまま、宝生が口を開くところだった。ぴっと前を向く。


「宝生でございます」


 なるほど、ノックの後に名乗るのか。いや、さっき名乗るなと言ったばかりでは。あそっか、挨拶周りだから名乗るんだ。

 幸緒は自分がパニックになりつつあることを自覚して、息を吐いた。横で鼻で笑う気配がする。


「はあい、どうぞ」


 部屋の中から、驚くほど透明で澄んだ声が響いてきた。

 まるで、オペラ歌手のようだ。


「行くぞ」


 宝生が睨む。


「はははははは、い」

「落ち着け」


 睨みをさらにきかされ、幸緒はもう前を向いた。敬語はどうしたんですか、なんて突っ込みを入れる余裕はなかった。




 扉が開く。




 部屋にはレースのカーテンがびっしりあった。

 ピンクや赤、オレンジに、緑。

 色とりどりの半透明のカーテンが、天井から吊されている。

 それは床で少したゆみ、足元は虹色の薄い布でごった返していた。


 足を取られたら大変そうだ。あちこち巻き込みながら転んで、布でぐるぐる巻きにされそう、なんて考えながら、そろりと部屋に足を踏み入れた。宝生は足下など全く見ずにささっと足で裁き、カーテンの奥へ進む。


 おぼつかない足で、宝生の示してくれた道なき道を恐る恐る歩くと、薄いカーテンの向こうに人影が見えた。


 すらりとしたシルエットは、なんとなくだがロングの髪にマーメイドドレスを着た女性に見える。


 宝生が、失礼します、と声をかけ、最後のカーテンを手で恭しく上げた。幸緒は一歩後ろで止まり、頭を下げる。



「本日から当ホテルの客室係になった者の挨拶にまいりました」

「まあご丁寧に」

「富山幸緒と申します。よろしくお願いいたします」

「どんな字を書くの?」


 涼やかな声で聞かれ、幸緒は顔を上げた。 



 ヒゲ。



 最初に、その人の顎に目が行った。髭。髭だ。顎にびっしり、真っ黒な髭があった。もみあげまで繋がっている。


 しっかり、しっかりしろ、と、自分に喝を入れる。不思議なもので、顔はやわらかに笑んでいた。いや、これには自信があった。わたしは客室係、客室係、天下無敵の客室係――いや、ホテルマン? どっちでもいいや。



「富に山で富山でございます。ゆきおは、幸せに鼻緒の緒と書きます」

「とても縁起の言い名前ね」

「恐れ入ります」


 幸緒は頭を下げた。

 どばっと顔に汗が噴き出しそうだった。まだ、まだ我慢。

 宝生が隣で頭を下げる。


「ではこれで失礼いたします」

「はい、どうも」


 二人揃って頭を上げる。

 短髪髭面の、四十過ぎの中年男性が、レモン色のマーメイドドレスを着こなし、優雅に指先だけでひら、と手を振った。


「また、あとでね」


 たっぷり余韻を持たせるように言い、目を細める。

 幸緒はもう一度頭を下げ、宝生に続いて部屋から出た。足を引っかけないかなどもう気にしてなかった。とにかく部屋から出て、宝生に色々と問いただしたかった。


 ぱたん、と扉が閉まった瞬間、幸緒は宝生のスーツの襟に掴み掛かる。


「ちょっと、宝生さん、なんですかあれは」

「上司にこんなことする君こそ、どうなんだと聞きたい」


 とかいいつつ、笑っている。

 幸緒はぶんぶんと力の限り襟を揺らした。抵抗する気がなところを見て、さらに揺さぶる。


「動揺したじゃないですか?!」

「いやー、立派だったよ、ゼロコンマ一秒で立て直すとは。思ったよりも根性がある」

「あたりまえじゃないですか、お客様なんですよ、相手は」

「なかなかできることじゃないぞ」

「敬語は、敬語はどこ行ったんです。敬語キャラじゃないんですか」

「君と被るだろう。それに、もうここまで来ておいて、やっぱりやめますなんて言わないだろう」

「確信犯!」

「騒がない騒がない」

「聞こえない程度の声でやってます。わかってますよね?」

「いや、本当に立派だったよ。挨拶もきちんとできたし、君なら大丈夫だ。務まるよ」

「褒められてません」

「ちっ」

「舌打ち、舌打ちした!」

「次に行くぞ」


 ぺいっと手をはがされ、幸緒は前のめりにバランスを崩した。この、鬼、悪魔、仏像。


「仏は褒め言葉では」

「いいえ、愛嬌が微塵もないと言う堅物という皮肉です」

「へえ」


 宝生にはどんな攻撃をしても無駄とはわかっていても、反抗したいこの気持ちは何だろう、と幸緒はやきもきした。ぎゃふんと言わせたいとかではなく、とにかく言い返したい。できることならやりこめたい。


「はい、では次は赤の3に行きましょう」


 宝生が仕切り直す。わかった、これ、仮面だ。敬語のときはホテルマンバージョンなんだ。幸緒は上司となった宝生に、部下としてついて行くことにした。ので、部下として聞く。


「どんな方がいらっしゃるのかだけでも教えていただけませんか」

「なぜ」

「失礼があったらどうするんです」

「誰に」

「お客様にですよ」


 階段を軽々と上っていく背中に愚痴る。


「さっきはどうにか堪えましたけど、あんなインパクトの方ばかりいるんですよね?」

「どうして」

「いや、そうでしょうよ。ここまで来て、なんか不気味な洋館で、変な念押しされて、最初に挨拶したのがあのお客様ってことは、ここはこんなホテルだと示したようなものじゃないですか」

「やはりいい勘してますね」

「褒めてませんよね」

「いいや、即戦力だと大変感心しているところです」


 やめて、その敬語、やめて。

 いやな予感しかしない、と幸緒はぶるりと震えた。


「お客様の情報を教えることはありません」

「どうしてですか」

「その情報は邪魔になるからです」

「邪魔?」

「業務の邪魔です」


 幸緒は間抜けな顔でしらっと言い放つ上司の背中を見た。

 ホテルマンはお客様の情報こそ命ではないのか。不手際があったらどうするのだ。こっちは新人以上の新人だというのに。憎らしいほど美しく伸びた背中は、このホテルの支配人として、長く務めてきたのは伺えるが、新人教育者としては失格な気がした。へたくそー、教育係失格ぅー。


「その言葉遣いはいかがなものかと」

「げっ!」




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