5 嫌な予感しかしない。
幸緒に割り当てられた部屋は廊下の奥にあり、ちょうど塔の部分の一階に当たるようだった。
緩やかなカーブの出窓とデスク。壁はクリーム色の小花柄の壁紙で、チェストも猫足で可愛い。
「わ。素敵」
と、一歩入ってベッドを見て幸緒は足を止めた。
一見淡い花柄かと思ったが、よく見れば猫柄だ。どっかで見たことある、猫が目を細めて丸まっている渋い柄のベッドシーツだった。
休憩室の椅子に鎮座する猫の座布団と全く一緒だ。
誰かの趣味がヤバいという一つの可能性が浮かんだが、幸緒はさっきと同じく、触れないで置こうと決めた。触らぬ神になんとやら、だ。
さっとクローゼットを開けると、きちんと女性用の制服が収まっていた。宝生と同じデザインで、襟に金のラインが一本入っている。幸緒はくたびれたリクルートスーツを脱いで、意気揚々と着替えた。早くも彼女の中では恐ろしく素直に切り替えが済んでおり、初めての”業務”とやらに期待だけが無邪気に膨らむ。
「お待たせしました」
「遅い」
幸緒は宝生の罵倒を流し、両腕でぐっと拳を握った。
「これで私もホテルマンデビューですね!!」
「……幸運ですよ。お客様は本日からの滞在です」
「はい?」
「いやー、本当に助かりました」
「え、あの。どうして幸運なんです?」
「行ってみればわかります」
「不安なんですけど!」
「その元気と順応力があればやれます。確信しました。あなたなら務まります」
突然機嫌よく褒められると、嫌な予感しかしない。
さっきよりもずっと早いテンポで急くように歩く宝生に、ぱたぱたと小走りについて行き、横に並んだ。息一つ切れずに颯爽と歩く宝生の横顔が憎らしい。
「ああ、靴ですが」
「へ」
「靴です。そのパンプスは歩きやすいですか?」
「ええ、まあ伊達に履いてないので」
「新調しましょう」
「いや、履きやすいんですけど」
「見窄らしい」
「言い返せない……」
ぐっと詰まる。
確かに美しい靴ではない。リクルート用に買った安物だし、それが馴染んで履き潰したと言ってもいいほどまで使い古していることも否めない。
「安心しなさい、馴染みの靴職人に作ってもらいますから、その見窄らしい靴よりは何十倍も履き心地がよくなりますよ。それはもう走り回れるほどに」
「馴染みがあるんですか」
「このホテルの、です。お客様から靴の修理を頼まれることもあるのでね。早速今夜呼んでおきます」
「はあ」
幸緒はちらりと宝生の足元を見た。黒光りする、いかにもハイブランドの靴を丁寧に履いているのが見て取れる。
毎日その仏頂面をさらに険しくし、せっせと磨いている絵が浮かぶ。自分の靴に比べて、宝生の靴はさぞ幸せなことだろう。幸緒はうんうんと頷いた。靴を新調したら、手入れのことをきちんと聞いておこう。
ロビーに戻り、両階段を上る。
手すりまで細かな流線の装飾が施されていて、幸緒はそろりと触れた。大きなステンドグラスの窓も見事だというのに、蔦が絡まっているせいで美しいであろう花々ですらおどろおどろしく見えるのが残念で仕方なかった。
宝生について左手の階段を上がる。
「まず左側の塔について説明します」
「はい」
「こちら、赤煉瓦で作られているので赤の塔と呼ばれています」
「はあ」
幸緒は曖昧な返事をした。赤煉瓦かどうかは外からは区別つかない。
「蔦を取れば赤なんです」
「取らないんですか」
「取りません」
きっぱりと否定される。
きっと企業理念的なものなのかもしれない。幸緒はとりあえず頷いておいた。
階段を上がった先は、鈴蘭の形を模したランプが吊されていた。ほんのりだけ明るい。が、どこもかしこも茶色いのは変わらない。廊下はずっと先が見えないほどだった。
「あの」
「なんでしょう」
「この、両階段って、普通上で繋がってるものじゃないんですか。というか、これ繋がっていたんじゃないんですか」
幸緒は通行を邪魔するように置かれたオブジェを指さした。四人の天使が手をつないで空に手を伸ばしている微笑ましい石像だ。なんだろう、どこかで見たことが。
「庭で見ませんでしたか」
「ああ!」
幸緒はぽん、と手を叩いた。
門から入ってすぐ、薔薇の生け垣の端にあった。
「庭の石像がなぜここに」
「廊下の幅とちょうどよかったので」
運ぶのに苦労しました、とどこかドヤ顔で語る宝生に、幸緒はふうんとだけ言っておいた。なんだか突っ込まない方が良さそうだ。
「あなたの勘の良さは評価に値します」
「どうも」
天使を背に、宝生について行く。
「で、こちらが赤の塔の二階に続く階段です」
「これはまた」
幸緒は廊下に入ってすぐ右手側にある細い階段を見上げた。暗い。ただ、向こうにほんのり明かりが見える。
「ちなみに調理は配膳エレベーターが三階の廊下の突き当たりにあるのでご安心を」
「三階よ廊下は繋がってます?」
「繋がってます」
「よかった」
「二階の赤の塔を、赤の2、三階を赤の3、と呼んでいます」
「はい。あの、お客様のお名前は」
「おっと、そうでした」
宝生が足を止めて振り返る。
ぴしりと正した幸緒の目の前まで腰を押り、人差し指を立てた。
「お客様にお名前を聞いてはなりません」
「それはどうして」
「どうしても、です。というか、入ってみればわかりますが、間違っても、絶対に、お名前を聞いてはいけません。そして自分も名乗ってはいけません」
「へ」
「私が今から各部屋にご挨拶に伺います。そのときだけ、ご挨拶して下さい。いいですね?」
守れなければ即刻追い出す、と書いた真剣な顔に、幸緒は何度も頷いて見せた。わかりました、余計なことはいたしません。
「わかればよろしい」
くるりと宝生が背を向ける、
「では行きましょう。あなたにこのホテルでの鉄則を教えましょう。現場百回。それにつきます」
「それは、ホテルマンとしてですか」
「まあそうですね」
嘘だ。
幸緒は見抜いた。というよりも、宝生は隠す気が更々ないのだ。どうしてか、客室に近づくにつれてご機嫌に拍車がかかっている。普通、というか幸緒は普通の職場など知らないが、もっと緊張感を持ってお客様への無礼があってはならないとかこんこんと前置きがあってもいいんじゃないだろうか。この「仕事の鬼」のような出で立ちの男が手を抜くようなことはありえないように思えた。
たらたら考えていると、宝生が足を止めた。