4 言い返せない。
頭を下げる幸緒に、紫乃がぽんっと肩を叩いた。
顔を上げた幸緒の前に、女神のような笑みを湛えた紫乃の顔がドアップになる。破壊力がとんでもない。
「ご挨拶ありがとう。私は鈴村紫乃。調理場の担当です。お客様からなにかご要望があれば伝えてね」
「は、はい」
「僕は古町栄治。古町って呼んで。ランドリー担当だから、お客様からクリーニングの要望があれば持ってきてね」
「ひぃ……はい」
奇声を上げた幸緒を全く意に介すことなく、紫乃が微笑む。
「古町、名前コンプレックスなの。私のことは紫乃さんって呼んでね」
「はい」
「ユキちゃんはいくつ?」
古町が親しげに話しかけてきたので、幸緒は動揺したまま、しかし失礼にならないようにと自分に喝を入れる。
「え、と」
「あ、だめ!」
紫乃が遮る。
幸緒が驚いていると、紫乃は緑のジャージを勢いよく叩いた。
「年齢はだめ」
「なんで」
「どっちが年上でどっちが年下だなんて気を使うでしょ。ここにいる限りは上下なく従業員同士なんだから、年齢は聞かないの」
紫乃がぶんぶんと頭を降る。綺麗な見た目に反してとても感情豊かでオーバーらしい。舞台女優に向いてそうだ。
「えー、大げさだなあ。挨拶でしょ」
「あんたマジで言ってんの。挨拶に年齢聞くとかありえないでしょ。なおさらありえない。見境なく口説く癖を改めるんじゃなかったの」
「口説いてないって」
「天然なのよ、天然たらし」
「オーバーだよね、紫乃って。ねえ?」
古町がへらっと笑って幸緒を見る。返答に困った幸緒の隣で、宝生がため息を吐いた。めきゃくちゃあからさまな、大きなため息だ。美女と美男になんて態度を。
「遊んでないで、仕事に戻りなさい」
「はーい」
「はいはい」
二人は適当に返事をすると、さっさと戻って行く。
「二人が向かったのが、調理場です。基本は二人で回してます」
「え、あの二人ですか?」
「そうです。紫乃の補佐と言ったところですかね。古町は時間に余裕があるときは調理場でつまみ食いか手伝いのどちらかをしてます」
「では私も時間がある時はお手伝いに行った方がいいんですね」
四部屋三食を二人では大変だろうと思った幸緒に、宝生はじっと見下ろしてふっと笑った。
「時間があればですけどね」
「なんですか、その不敵な物言いは」
「では業務についての説明をしましょう。こちらへ」
幸緒は再び宝生とともにロビーに戻る。
やはり先ほどの休憩室の方が格段に安らげた。気圧されるような雰囲気がある。不気味であることも否めないが、こうした雰囲気をホテルの気品として守っているのだろう。いわゆるコンセプトという奴だ。ならば自分もそれに合わせなければと幸緒は気を引き締めたが、ふとジャージと割烹着の二人の姿が頭に浮かんだ。
いや、あの二人はバックヤードだから。
きっと動きやすいように、うん、そうだ。二人で調理とランドリーをしているから、機能性を重視してるんだ。
「ただの趣味ですよ」
「えっ。趣味がジャージってどういうことです?」
「二人曰く、自分たちがそれなりの格好をしたら、それこそ面倒くさいことになるんだそうです」
「ああ、わかります……」
自分だって緊張していた。ジャージなのに。割烹着なのに。
美しい人間には美しい人間の悩みがあるのかもしれない。普段着どころかドレスコードを守って登場すれば、そう、この両階段が恐ろしく似合うことだろう。左手から古町が、そして右手からスリットの開いたパープルのドレスの紫乃が出てきて腕を取り――
「ジャージ姿の二人がコサックダンスを踊る」
ステンドクラスの大きな窓を背景にして、二人がぽんっとジャージに着替え、腰を低くして並んでコサックダンスを始めた。それはもう美しく揃って足を前に出す。
幸緒ははっとして、隣の宝生に噛みつく。
「やめて、やめてください!」
「なにをです」
「せっかく、美しい登場だったのに! 紫乃さんの髪を下ろして綺麗に巻いて左に流して美しい肩を露わにして、優雅に微笑むところだったのに」
「ちょっと引きますね」
「引くのはこっちですよ、コサックダンスさせるなんて」
幸緒はふんっと鼻息を荒くして反論した。
宝生は面倒くさくなったのか、ロビーを横切る。
「では案内します」
「はい」
勝った。
なぜか幸緒は自分の中で勝利宣言をし、きびきびとついて行った。
右手側の廊下は、先ほどのバックヤードと同じ作りだった。扉が等間隔に並んでいる。違うのは、その扉に真鍮のナンバーフレーとがついていることくらいだ。
「シャワールームは各自開いているときに使ってくだい。入るときはこのように、立て札を」
アンティークなハンドルについていた、かまぼこの板のようなものに、達筆な”入浴中”という文字が現れる。
「……あの、せめておしゃれなものをつけませんか」
「これのどこがおしゃれではないと?」
「えっ」
「は?」
これはあれだ、感覚の違いだ。
もう触れないようにしよう、と幸緒は心に決めた。
あの休憩室の蜜柑も座布団も、宝生の趣味な気がしてきたからだ。あれがそのまま受け入れられているということは、口を出すことではない。
「なんでもありません」
「そうですか。あなたの部屋はこちらです」
「6号室ですね」
「ルームキーです」
「かわいい」
「鍵に可愛い可愛くないがありますか」
「あります」
幸緒は力強く頷いた。太陽を模した丸い部分に、すっと通った鍵の先。昔からよく物語に出てくる”鍵”そのものだった。
「あなたファンシー思考ですもんね」
「なんとでも」
「ウォード錠はピッキングが簡単なんですけどね」
しらっと言う宝生を、夢を壊さないで下さい、と睨む。幸緒は鍵穴に差し込み、回した。カチャン、と音がする。
「感激」
「はい、では入ってすぐに着替えてきて下さい。クローゼットにあります」
「え?」
「本日から実践業務です」
文句あるかと書かれた顔を返される。
「思ったんですけど、宝生さんも顔に出るタイプですね?」
「顔に出してるんですよ」
「なんでまた」
「あなたはそうじゃないと察せないでしょう」
「う」
言い返せない。圧を感じながら、幸緒は部屋へと逃げ込んだのだった。