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31  そんなの許さん。


 髭面マーメイド――ではなく、キャシーの声量はとんでもなかった。発声する前の息の吸い込み方も素人ではない。

 幸緒は襲い来るであろう声に備える。

 気持ちだけ。


「けれどぉ! レイモンドォォ、私は、反対を押し切るつもりなどないのですぅ! 私は父上を尊敬し、愛しておりますもの〜、家族を断ち切ることはできませんわぁ!!」


 誰だよ。あまりにもキャシーから離れた人物に、突っ込みを入れたくなった幸緒はぐっと堪える。明るく天真爛漫なキャシーではない。これではまるで、ロミオとジュリエットではないか。幸緒は途端にムキになった。息を吸い込む。


「断ち切らなくていいんだ! あの二人を和解させようじゃないかぁ!!」

「そんなこと、できませんわ!」

「いやできる」

「できない」

「できるさ」

「でぇきぃないわぁぁぁぁ!!!」


 キャシーが再び絶叫する。


 こいつ。


 幸緒は、自分からパッと離れて窓際に立ったキャシーの背中をじろりと睨んだ。こいつ、ハッピーエンドにする気ないな。そんなの許さん。


 幸緒に火がつく。


 憧れのサンセットを題材にしたいのなら、それらしいラストでなければ気が済まない。演劇部時代も、どれだけ逸れようともラストだけは変えることはしなかった。ラストを変えては、物語としての意味がなくなる。


 これは間違いなく、憧れのサンセット。

 ならば、絶対にチャペルで祝福されながら歌って終わらせてやる!



 けど。

 幸緒は気付いていた。

 髭面マーメイドは言い回しやニュアンスは変えてあるが、大筋の台詞は変えていない。だとしたら、こっちも変えるわけにはいかない。本当ならば、できるできないのシーンはポップな調子で和気藹々と――じゃあどうする?――と続く予定だ。


 台詞は決まっている。

 変えられない。幸緒は口を開いた。


「……じゃあ、どうするんだ」


 低く歌う。

 キャシーが肩を小さく揺らした。


「あなたと一緒にいたいわ」

「ならば」


 決まりね!

 と明るくチャーミングなウィンクを決めるところだ。さあ、どうする髭面マーメイド。


「決まりね、ここで()れましょう」


 しまった!

 幸緒は指を握り込んだ。

 本当ならばセリフと演出はこうだ――決まりね、ここで()かれましょう!――そして、エキストラが二人を包み、くるくる回る。パッと手を広げ――作戦決行だ!――と勢いよく二手に分かれるのだ。


 しかし、目の前のキャシーの放った「わかれましょう」は明らかに、別離の「別れ」だった。レイモンドが返す台詞は「今夜また会おう」だ。親の目を盗み、作戦会議をするというのに、別れてたまるか!


 言うしかない。

 決心したところで、ポケットが震えた。



 えっ。今?



 幸緒はキャシーが背中を向けているのを確認し、さっとポケベルの液晶を見る。


 ――シメイ アリ。シキュウ、アカノ3ニムカエ。 


 氏名?

 いや、使命?

 あ、指名!


 なんせカタカナばかりなので一瞬迷うが、指名だとわかると、すぐさま行かなければという使命に駆られた。


 富山幸緒さん、ご指名です!


 なんていい響き。

 幸緒はポケベルをしまった。

 ああ、よかった。こうなっては、こちらもいいターンをもらえていたのだ。幸緒は喜びを覆い隠し、精一杯辛い声を絞り出した。


「今夜、また、会お~う~」


 最後に流れるであろうメロディーっぽいものに乗せて歌う。

 よし。キャシーが悲しみの中頷くのを見て、幸緒は男の歩幅で大きく足音を立てながら部屋を出た。そのままダッシュで狭い階段を駆け上がる。サービス業の鉄則。お客様をお待たせしない!


 幸緒はエルゴールの靴のありがたみをひしひしと感じた。なんとも足に羽が生えたように軽い。赤の3の部屋の前で止まり、乱れた呼吸を整える。最後に大きく吸って、息を止めてノックをする。


 失礼します。


 心の中で呟き、扉を開ける。




 あれっ。


 幸緒は声を上げそうになり、しかしぎろりと睨まれたので口を閉じた。部屋の真ん中、ソファのすぐ近くの一人掛けの机のそばに、宝生が立っていたのだ。


 紳士が背中を丸めて机に向かっている横で、監視をするように見下ろしている。一体なにがあったんだと聞きたくなるほど、紳士は小さくなっていた。まるでガミガミと宝生に叱られているようだ。


 幸緒は来いと呼ばれたはずなのに、こうして入ってしまっていいものなのだろうかと一瞬考えたが、宝生が目で「じっとしていろ」と合図をよこしてきたので、そのまま止まる。



「では今日はここまで」


 宝生は冷徹な声で言い放った。紳士が大きく息をついて机に突っ伏す。


「遊んでいいですか」

「だめです」

「ここまでなんでしょー」

「私の家庭教師としての仕事が時間が来たので終わりだという意味です。自習をするように」

「えええ」


 紳士が駄々をこねている。


 幸緒はピンときた。

 家庭教師、というワードは、最初に紳士とアドリブしたときにでてきたではないか。遊びたいと言う少年に、勉強を押しつけたと。あのときに、その家庭教師が宝生によく似ていると思ったのだが、こうしてみるとなんてぴったりな配役だろう、と幸緒は思った。つまり、紳士は宝生にガミガミ言われて小さくなっているのもあるが、本当に小さく――子供に戻っているのだ。白いティーシャツに半ズボンという格好がまさにそうだ。


 じゃあ、私の役割は?


 幸緒が首を捻ると、ちょうどこちらを宝生が向いた。にやりと歪な笑みを向けられ、思わずぎくりと仰け反りそうになる。


「――ああ、いいところに」


 いきなり愛想良く微笑まれ、幸緒は顔がひきつった。が、机に寝ころんだ紳士がこちらを向いたので、すぐに顔を繕う。なんとかうまくできたらしい。紳士がぱっと顔を輝かせた。


「お母さま!」


 えっ。


 幸緒は自分の立ち位置を理解した。


 は、母親かー!


 ちょっと自信ない。

 既存のフィクションのものならば趣味の映画からなんとかヒントを掘り起こしてそれを真似れば良かったのだが、この紳士の記憶の中にしかいない唯一無二の”母親”となると、少しでも振る舞いが違えば全てが台無しとなる。


 ん?

 待てよ?


 幸緒の頭に花が咲く。


 ラッキー!

 幸か不幸か、紳士の幼少時代の話はそれはそれは丁寧に聞かされていたのだ。どこで話を打ち切ろうか悶々とするほどに聞かされたではないか。


 確か、厳格な父親と違って、母親をとても好きだったはずだ。ということは。幸緒がにっこりと慈愛ある微笑みを向けると、紳士が少年の顔ではにかんだ。



 よし!!

 いける!









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