21 ザビエルが見てる。
宝生に「行け」と目で言われた、幸緒はこくりと頷くと狭い階段へ向かう。
背中に、びしばしと失敗するなよという視線が突き刺さっていたが、振り向くと怒られそうだったので、頑張ります、とだけ呟いておく。
階段を上り、薄暗い廊下を歩き、部屋の前へ。
緊張している幸緒を落ち着かせるような暗さが、今はとてもありがたかった。
扉を睨む。
さっきも食事を運ぶときにノックをした。だから、大丈夫。自分に言い聞かせる。そうだ。ザビエルだ。ザビエルが見てる。今日のお菓子はチョコレート菓子で、指先を茶色く汚しながら、監督席に座って眺めている。そう思っていると、ぐわりと足下から高校時代の情熱が戻ってきた。台本なんてない、元々の話から脱線に脱線した物語を相手を読み取りながら、呼吸を合わせる。ザビエルが見てる。
幸緒は手を伸ばし、ノックをした。
名乗らず、二秒待ってから扉を開ける。
その瞬間、自分の靴に目が行った。エルゴールの靴。
女は度胸――!
喝が入る。背筋がぴんと伸びていた。
部屋に入ると、やはり紳士はソファに座っていた。目の前のアンティーク棚に収まったテレビを眺めている。白い半袖シャツに、紺色の短パンは、まるで家でくつろぐ休日のおじいさんだ。
幸緒は立った。青の2で宝生が向こうからのアクションを待っていた場所で、足を止めて待つ。宝生は言っていた。絶対に、向こうから名前と役割を与えると。仕掛けるまで、待てと。
幸緒はじっと紳士がテレビを見ているのを眺める。
そういえば、演劇部でもこんな時間がよくあったことを思い出す。ヒロインを必ず務める亜矢子先輩は、ふと突然誰かに振る。見目麗しく透き通った高い声をした彼女にばっと見つめられて話しかけられると、嬉しかったものだ。それに全身全霊で答えると、彼女のお人形のような目が勇ましくきらりと光るので、それを受け取りたくて必死だった。幸緒は、記憶とともに感覚が戻ってくるのを感じる。
そのとき、紳士が口を開く気配がした。集中する。
「どう思う」
思ったよりも低い声だった。
幸緒は反応するか迷い、しかし返事をしなかった。まだだ。なにも与えられていないのにできる反応などない。
「このニュースだよ。まあ、座って」
幸緒の足が勝手に動き、ソファまで歩く。
「記者として、このニュースの真偽をどう思うか私に聞かせてくれないか? そうすれば、私も君の取材を受けよう」
記者と、それを取材される関係者らしい。
そうインプットすると、幸緒は紳士の隣でも向かいでもなく、テーブル席から椅子だけを拝借し、斜め向かいに置き、座った。よく雑誌ではこんな感じで対談している。そして正々堂々とした顔で、むしろこちらが優位のような余裕を持って接するのだ。
紳士は一瞬だけハッとし、しかしすぐにテレビを見た。その横顔は、バトンを受け取った役者のような引き締まった顔だ。
幸緒もニュースに視線を向ける。
『――のように、田中秘書は今回の献金問題については黙秘を続けており』
政治の献金問題のようだ。政治なんぞ全く興味はない。一応面接に必要なので、最近のトピックスとして、就活用の記事を読みあさって暗記しただけで、捻りを加えて答えられる造詣は毛頭ない。
しかし、もう舞台に立っている。
幸緒は頭をフル回転させた。昔懐かしいフィルムが頭の中に戻ってくる。ふと、ある場面がクローズアップされた。黒いトレンチコートに、帽子。モノクロの、青年と美しい女性。これだ。
「真偽など、必要でしょうか」
口から台詞が滑り出る。
紳士がこちらを見た。視線を合わせる。
「真か偽りかなど、誰も気にしていません」
「こんなにニュースになっているというのにかね?」
「ただ単に面白いからです。真実には大して興味はない。騒がれている様子が面白いだけですわ。野次馬根性でしょう」
「だが、誰もが責任を取れという」
「ええ……そうでしょうね。次はその責任についてなにかしらのアクションを起こしたいんですもの。そうすることで、自分も民衆の声の一部になりえる」
「民衆の声」
「そうですわ。この国の人は、他と違うことを忌み嫌う。けれど主張をしたくないわけではない。だから、力ある者の大きな一言に賛同する――重要なのは……その者にどんな一言を言わせるか」
紳士はゆっくりとニュースに視線を戻した。
アナウンサーがフリップで、客観的証拠を出しながら『――ではないか。――だとしたら』と想像を盛り込んで話している。まるで、それが真実のように。
幸緒は続けた。えーと、確か、その続きの台詞は。
「対応を間違えれば批判の的。けれど間違わなければ、美談にも、正義にも、どうとでも化けます。真偽などあってもないようなものです。世の流れをどこに持って行くか、ではないかと」
「犠牲を払わなくてはならなくても?」
「トカゲの尻尾切りになるか、大儀のための尊い犠牲になるかはその方次第では?」
紳士は老獪に笑んだ。
「逆境を好機に、か」
「大儀に犠牲は付きものです」
「記者が言う言葉ではないな」
「いいえ、まだ取材は始まっていませんから、ただの世間話ですわ」
幸緒も笑みを返す。緊張はしていなかった。あくまでも、紳士とは対等だ。
「――よかろう。さ、では取材を受けようとしようか。君の質問は」
「答えていただけるんですか?」
「ああ、もちろん」
つまり、及第点を取れたということだろう。
幸緒はほっとした表情を出さぬまま、記者と対峙するこの人物が何者なのかを知らずして質問などすることはできないことに気づいた。ならば。
「……あなたの幼少時代の話を聞かせてください」
紳士が幸緒を見てやらわかに笑う。
「ああ、いいだろう」
紳士は話し始めた。
別荘をかまえるほどの資産家の家の子供であることや、それを窮屈に思い父親を忌み嫌っていたが、母親のことはとても好きだったことを朗々と話してくれた。
夏は避暑地で過ごすんだそうだ。ランニングに麦わら帽子で田圃を走り回って怒鳴られた、と言うところで、恐ろしいことに幸緒のポケットが震えてしまったのだった。




