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2 近づかないでおこう。



「では、よろしくお願いします」


 宝生は至って冷静に返してきた。

 幸緒がこの選択しかしないと分かり切っているようだ。というよりも、そう追い込んだのは彼だ、と幸緒は思おうとしてやめた。顔に出てしまっちゃ困る。


「もう出てますけどね」

「?!」

「はい、行きますよ」


 宝生が立つ。幸緒は次いで勢いよく立ちあがった。

 その皺一つない黒いスーツの後ろ姿について応接室を出る。



 深いグリーンの絨毯の上を歩きながら、後ろ姿はまあなんと綺麗なことか、と感心した。さすがホテルマン。背筋は隙もなくピンと伸び、無駄な足音すらしていない。とってもいい男に見える。ぼうっとその背中を眺めながら、幸緒ははっとした。いつ振り向いて「それはどうも」と無愛想な顔を見せられるかと構えていたが、宝生はなにも言わずに、颯爽とチョコレートを流し込んだような薄暗い廊下を歩いている。


 そうか、顔が見えていないから、読めないんだ。


 幸緒は一気に顔が明るくなった。

 よし、なにか考えるときは顔が見えないようにしよう。

 改善を図ることを全く考えず、誤魔化し方をいい方法だとほくほくしているが、幸緒は呆れている宝生に気づいていない。



「ではまず」


 くるりと振り返られ、びくっと肩を揺らす。


「施設の案内をしていきます。メモは取らず、その容量の有り余っている頭に叩き込んでください」

「やっぱりナチュラルに高圧的なんですねえ」

「あなたは遠慮というものを知らないんですか?」

「宝生さんにこそその言葉をお返ししたいです」


 幸緒が反論するでもなく自然に会話のキャッチボールを返すと、宝生はにやりと笑った。


「な、なんですか、そのやらしい笑い方は」


 やや引いて聞くと、宝生はその笑顔を引っ込めて「いいえ?」とすっとぼけた。


「あなたは虚勢とは無縁の人間ですね。いろいろと素直と言いますか」

「採用もらえたらこっちのもんです」

「その意気です」


 なぜか褒められ――いや、微妙に褒められた気はしないが、この人間相手に腹のさぐりあいは無駄だと幸緒は判断し、曖昧に笑っておいた。


「で施設の案内ですが」

「はい」

「ここがロビーです」


 幸緒は修学旅行で異人館を思い出した。そういえば、よく似ている。山の中に、帽子をかぶったような二つの棟が繋がった洋館の姿を思い出す。残念ながら、ここは山の緑に覆い被され、ツタは絡まり付くしていて美しさなど皆無だが。


 内装もよくよく見てれば、絵画に、花瓶に、クリーム色の薔薇、と落ち着いており、今にも音を響かせそうな大きな柱時計も風格があった。

 それもこれも、ここで働くと決まったから脳が認識を改めているだけなのだが、幸緒の頭には、ここに住み込みも悪くないなあ、花が咲き始めていた。


 大きな観音扉から入って左に、幸緒がほんの数十分前にベルを鳴らしたカウンターがある。カウンターと言っても、重厚で大きなデスクのような造りだ。モスグリーンのシェードのランプと、ベルが置いてあるだけ。



「ここが受付ですが」

「そのようですね」

「基本使いません。鳴りません」

「断言ですか」

「しばらくは求人を見て誰かが来るかと期待していたのですが、あなたが来たので、三年ぶりにこの音を聞いたくらいです」


 宝生が古めかしいベルをつつく。

 幸緒は屈んでそれを見た。


「どうでしたか、三年ぶりの音は」

「手入れをしたほうがいいですね」

「なるほど」

「一応説明しときますが」

「はい」

「宿泊されるお客様は事前に予約をしていらっしゃいますし、必ず時間通りにいらっしゃいます。ですので、外でお待ちするのが通例です」


 宝生が入り口に向かうので、すぐさまついて行く。

 黒に近いほど色が濃くなった扉を軽々と開ける。


「今日はあいにくの天気ですが、天気が良ければこの庭園も今よりもましですよ」

「ましなだけですか」


 シンメトリーに噴水という、よく西洋の歴史で教科書に載っていたような庭が、黒ずんでいた。左右に薔薇の垣根が迷路のようにぐるぐると入り組んでいる。まるで蛇の腹のようだ。入ったら、食べられそう。よし、近づかないでおこう。


「あなたが入ってきたあの門の前で、到着をお待ちします」

「つかぬことをお聞きしますが、雨の場合は?」

「雨でもです。あなたがあそこで門を開け、車がこちらに入って来るので、私がお迎えします。車が出たら、門を閉めるように」

「え」

「なんです」

「私だけですか?」

「はあ? 二人でお迎えして、門を閉めてる間お客様を立ちっぱなしで待たせるつもりですか、あなたは」

「え、いや、そんなつもりは」

「それで? 門を閉めたら猛ダッシュで駆けつける? そんな客室係をみてどう思いますか?」

「すみませんでした。お迎えいたします」

「わかればいいんです」


 宝生が扉をやれやれと閉める。

 なんだろう。幸緒は少しばかり後悔し始めていた。なぜか、だめ出しをする宝生はとてつもなく生き生きしているように見えたのだ。


「で、そちらで記帳していただき、お部屋へ案内します」


 説明が続いているので、気を引き締める。

 またどんな辛辣な言葉が飛んできてもいいように身構えつつ、脳に初めての業務を刻んでいった。


「お部屋は何部屋あるんですか?」

「四部屋です」

「……あの?」

「聞き間違いではありませんよ。四部屋です」


 宝生が中央にある両階段を手で指し示した。

 今にもドレスアップしたプリンセスが右から、プリンスが左から出てきて踊り場で手を取り、降りてきそうな荘厳な階段だ。


「中々ファンタジーな頭をしているんですね」

「そうですか? 美しい”プリンセス”は少女のならば誰もが通る夢なんです。男子が虫の王を目指すように」

「私はそんなもの目指したことがありませんが」

「世の中に清純な女性が存在してると思っているのと同じくらい、と言ったらどうでしょう?」

「なるほど。本当はそんなものが存在しないと承知した上での夢想ですね」

「ええ、そうです。でもあれっていつまで本気で思ってるんですかね。女はそれが妄想だってわかって楽しみますけど、男性って割と本気で思ってる人多いですよね」

「部屋は後でご挨拶に伺うときに案内します。バックヤードと、従業員に挨拶をしておきましょう」


 華麗にかわされ、幸緒は口をつぐんだ。

 もしかしてこの人も、こんな分厚い辞書のような面構えをしているけど、本気で清らかな女性が存在するものと思っていたのかもしれない。だとしたら、傷を抉って――



「いえ、思ってませんよ。ご心配なく」






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