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15 すみません。ハードル高いんです。


 十分。

 女子の支度には容赦ない時間だ。

 幸緒は急いで部屋の鍵を開けて入り、左手にある小さな洗面所のコップと歯ブラシを見つけて手に取る。


 幸緒は手を動かしながら、洗面所を隅々まで観察した。紫と青のタイルに、上がドーム情に丸くくり抜かれた漆喰の壁にはまった鏡。その両脇にある小さな燭台を模した照明も、白い陶器のまん丸の洗面台も、なにもかも幸緒の少女趣味を刺激した。それになにより部屋に洗面所とトイレがついているだなんて、まるでホテルのシングルルームだ。


 口を濯ぎ、自分の鞄から控えめな色のリップを取り出して塗り直し、軽く髪を整えた。リクルート用の化粧は控えめで、そのおかげで崩れてもいない。

 宝生が向こうからのお題を聞いて即座に見た目を少し変えたように、応用が利く格好が好ましいだろう。幸緒は気合いを入れるように自分を睨み、部屋を出た。鍵をかけていると、隣のドアが開く。


「早いな」

「気合いばっちりですので。思ったんですけど、化粧も控えめな方がいいですよね?」

「わかってるな」


 褒められたようで、幸緒は嬉しくなる。これから初めての”仕事”に携わるのだ。緊張もするが、やっと手に入れた仕事をできる喜びの方が勝っていた。鍵をポケットにしまう。


「さて、あなたの初めての仕事ですが」

「はい、支配人」


 仕事モード突入だ。


「まずは夕食の配膳から」

「お任せください」

「根拠のない自信ですが、やる気がないよりずっといいですね」

「やる気は漲ってます」

「奇特な人ですね」

「ありがとうございます」


 早足で両階段を横切り、バックヤード通路に入ると、ランドリー室のドアが開いた。即座に足を止めた宝生のせいで、幸緒がぶつかる。


「ぶっ」

「あ、ごめん!」


 古町の声だ。しかし、幸緒は宝生に怒りを向けた。


「宝生さん、なにか声かけて下さいよ!」


 幸緒は鼻をさすりながら宝生をどつく。べし、と腕を叩いた。宝生がやや引いて幸緒を見下ろす。イケメンに罪はないと心で唱えた幸緒を見透かしているのだ。


「仕事モードはどうしたんだ。上司になにをする」

「上司なら部下をかばって下さいよ」

「細心の注意を払って動けばかばう必要などない。それが仕事というものだ」

「正論なんていりませんよ」


 ふん、と幸緒はこぼした。せっかく平凡な顔で済んでいるのに鼻でも曲がったらどうしようもない。客室係の鼻が曲がっていて、即興劇などできるものか。


「それも正論だな。だからこそ自分の身は自分で守れ」

「いやいや、僕が悪いから」


 古町が焦ったように言い、腰を折って幸緒の顔をのぞき込んだ。


 あまりにも眩しすぎて目眩がする。


 古町はあのダサいジャージを脱ぎ、客室係の制服へと着替えていたのだ。襟の金のラインが古町のまぶしさをより際だたせている。宝生の白いカッターシャツとは違い、薄いグリーンのシャツと言うところもなんだかセンスがあるように見えた。濃紺のネクタイを締めている姿は色気まで出ている。イケメンの制服姿の破壊力は半端じゃない。

 宝生くらいでちょうどいいのだと幸緒はしみじみ実感する。こんなのと一緒じゃ仕事にならない。


「ユキちゃん……本当に、鼻は大丈夫?」

「頭のことを心配してやれ」

「ちょっと、女の子にひどいよ、央ちゃん」

「それの頭の中はおめでたいんだ」

「あ、大丈夫です。宝生さんの毒舌で目が覚めました」


 幸緒は古町に向き直った。宝生を無視する。


「制服着てるんですね。素敵です!」

「ありがとう。配膳は四人で一気にするからね。四部屋しかないってありがたいよねえ」

「なるほど、一気にですか」

「ユキちゃんが来てくれたから本当に助かるよ」

「へへ」


 にこやかに微笑まれ、幸緒はだらしなく笑う。


「行きますよ」


 宝生がどうでもよさそうに、幸緒のむず痒い照れをスルーして歩き始めた。古町と幸緒もついて行く。


「央ちゃん担当は?」

「私が青の3に行きます。あなたは赤の3に」

「やった」


 幸緒は小声で呟いた。

 髭面マーメイドのおわす赤の2に行くのはちょっとばかし緊張した。見透かした宝生が目だけで窘める。すみません。ハードル高いんです。


「で、古町が赤の2。青の2は紫乃に頼みます。いいですか」

「そうだね。最初にお膳を持って両階段を上るのは細いユキちゃんには大変かも。しばらく配膳の担当はそのままにする?」

「そうしましょう。お客様も、赤の3の方なら少々の失敗が初々しく思えていいでしょうから」

「ああ、なるほど」


 古町が宝生の隣に並んで、顎をさわっていた。イケメンのスーツの後ろ姿はなんとも麗しい。


 休憩室から右手の調理場に初めて入る。

 煉瓦の壁に、タイルが張ってある調理場はなんとも愛らしかった。まるでどっかのおしゃれなオープンキッチンのようだ。竈があって、陽気なおじさんが、ピッツア! なんて言いながらくるくる生地を回していそうだ。


「なんというか、すごい想像力ですね」


 宝生がぼそりと言うのを、幸緒は全く気にしない。ここはどこもかしこも意外とおしゃれなのだと気付くと、入ってきて五時間ほどで職場に愛着が湧いてきた。


 コンロにガスオーブン、銀色の大きな冷蔵庫に、煉瓦壁に打たれた釘からぶら下がる黒い鉄のフライパンが大きいものから小さいものまで順に並び、さらにシルバーの小鍋まで光っている。コンロの前の出窓には木製のスパイスラック。そこに収まる小瓶には、なにやら葉っぱや色とりどりのスパイスが見えた。女子が憧れるなんとも素敵なキッチンだ。


 その中央にある大きなステンレスの台には、大きな膳に色とりどりの和食が用意されていた。


 湯気がふわりと立ち上り、揚げだし豆腐のいい香りもしている。

 甘辛いにおいのする魚の煮付けの横に添えられた牛蒡。

 黒い皿に盛りつけられた山菜のおひたし。


 どれも一見普通の料理に見えるが、一度紫乃の料理を食べた幸緒には、その一つ一つが絶品であることは一目瞭然だった。きっと、どの皿の味も喧嘩せず、すべて食べて満足できるような仕上がりになっているに違いない。先ほど満たされたはずの食欲を刺激されながら、幸緒は料理から目が離せなくなっていた。物欲しそうな顔を隣の宝生が呆れたように見るもの気にならない。というか、宝生の反応にはもう慣れてきた。はいはい、どうぞ。私は気にしませんよ。


「いい度胸ですね」

「ひっ!」





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