11 それだけは絶対にない。
さて、と宝生が眼鏡を押し上げる。
「業務説明ですが」
「待ってました」
「お客様の相手です」
宝生は表情の変わらない顔で告げた。
さっきはあんなにも表情豊かにマリアを口説いていたのが嘘のようだ。幸緒は思いだし、ほんの少し赤面した。
「あの、それは」
「いかがわしいことではなく」
「キャバ嬢ではなく?」
「はあ?」
「いや、紫乃さんはキャバ嬢っていうか、銀座の高級ホステスって感じですけど。さすがに私にはそれは務まりませんし……」
「キャバ嬢が務まると?」
はん、と鼻で笑われる。
「いえ。サービス業ですら連戦連敗の人間には無理です」
「身の程をよくご存じで」
「褒められてませんよね」
幸緒は恨みがましく呟いた。宝生はしらっとした顔で続ける。
「先ほど見たのが業務です」
「わかりません」
「考えてみなさい。ここが本当にいかがわしいホストホテルだったら、部屋に入ってすぐにお客様の隣に座るでしょう」
「あ、確かに」
言われてみれば、宝生はマリアが話しかけるまで動かなかった。
「ご挨拶に伺った他の部屋と、どう違ったかわかりますか?」
まるで面接のような問いかけに自然と姿勢を正す。
焦って的外れなことを答えたら、容赦なくハリセンが飛んでくるような気がしたからだ。
最初は、赤の2に行った。
ノックをし、宝生は名乗っていた。赤の3も、青の3もだ。先ほどの部屋だけ、そういえばノックだけしかしていなかった。これだ。
「ノックをしただけで客室に入りました」
「そうです」
ぴんぽーんと軽快な正解の音が頭に響く。やった。幸緒は力の入っていた手をぐっとより強く握った。
「基本的には名乗らないと言ったのも覚えていますね?」
「はい」
「つまり?」
「へ」
幸緒は間抜けな顔をすぐさま引き締め、頭をできる限りフル回転させた。
基本的には名乗らない。
つまり、マリアの部屋に入ったときのアレが通常の業務ということだと気付く。
「部屋に入るときには名乗らないと言うことですか?」
「そうです――考えてみて下さい。教室で先生をお母さんと呼ぶ人がたまにいるでしょう。どうなりますか」
「恥ずかしさで死ねます」
「あなた、したことがありますね」
「はっ」
「そんなあなたでも、舞台の上でシンデレラ役の子を本名で呼んだことはないでしょう」
「ありません!」
幸緒は思いっきり首を横に振った。ない。それだけは絶対にない。いくら即興劇をやらされても、本名で呼ぶことなど問題外だ。ザビエルに「マジか……」と絶望的に呟かれるのだけはごめんだった。おやつを食べる手が止まりかけると、やばい! もっとデンジャラスにしなくては、と部員全員に緊張が走ったというのに、その手をぴたりと止める情けない失敗など、できるわけがない。
「ところで、あなた、ここのホテルの名前は、知ってますよね?」
「ああ、はい、もちろん」
幸緒はザビエルのしょぼんとした顔を頭から追い出し、胸を張った。
「アド・リヴ・ホテルですよね」
「なるほど」
宝生は頷いた。
「そこで切るとぐっと高級感が増しますね」
「え? 違うんですか?」
「アドリブ・ホテルです」
「――もう一度」
「アドリブ・ホテル」
「もう一度」
「いい加減頭に刻め」
「上司モード終了!」
幸緒は頭を抱えた。
そのままダイニングテーブルに肘を突く。行儀が悪いと容赦なしに飛んできた母の鉄拳が飛んでこないことだけが幸いだった。今頭に衝撃が来てはすべてぽーんと飛んでいきそうだ。いや、飛んでしまった方が楽かもしれない。
「理解できたみたいだな」
「アドリブホテル……。つまり、お客さんにアドリブで答えると。そういうことですね?」
「そうだ。その名の通りだ」
「だから宝生さん、動かなかったんですね」
「そういうこと。基本はあっちが仕掛けてくるまで待て。向こうはなにをしようか決めていることもある。だから絶対に、こちらに名前と役割を与える。それを逃さずに受け取って、即興劇をすればいい」
「すればいいって」
そんな簡単に。ん?
「簡単じゃないですか!」
「だろうな」
「私演劇部だったんです」
「履歴書に書いてたな」
「三年間みっちり、ザビエルに即興劇を叩き込まれてきたんです」
「ザビエル?」
「顧問です」
「大層なあだ名を付けてるな」
「禿げてるんです」
「だろうな」
「つまり、お客さんのお題に乗せて即興で相手役をやればいいですね?」
「そう」
「いける!」
幸緒は頭を抱えていた手を胸の前で組んだ。
宝生がホストではないことと、ここがいかがわしいホテルではなかったことに神に感謝した。しかもなんて天職につけるのだろう。部活は一度も休んだことはなかった。連続皆勤賞だったし、年に一度文化祭の時だけ、部長が用意した教科書のような台本で舞台にも立った。
「五分だけどな」
「十分です」
そうだ。やれる。舞台の五分より、稽古の三年!
「五分になってるぞ」
「あ」
幸緒はさっきまで死にそうな土気色の顔をしていたというのに、今では頬は上気し目は爛々とやる気に満ちあふれていた。
「できそうな気がします、宝生さん」
「だから安心しろと言っただろう」
「え?」
「その名前も立派な採用基準を満たしていたが、それ以上に高校三年間演劇部だったという経歴が決め手だった。そこに即興劇が得意と書いてあっただろう」
幸緒は優しい声に、じわ、と涙が滲みそうだった。
この鬼は、私の名前だけではなく、きちんと経歴や特技にまで目を通してくれていたのだ。
そして、ここが唯一その自分自身が培ってきたものを評価してくれたということが、単純に嬉しかった。
上司ががらりとホストになろうが、美男美女がジャージを着ていようが、髭面マーメイドがいようが、市松ギャルがいようがどんとこいという気持ちになる。
根拠のない自信で喜びを溢れさせる幸緒を、宝生は感情のない目で見る。
「よかったな」
「はい!」
「ちなみにさっきのお客様は、今朝は未亡人だった」
「未亡人?」
「小説家の夫を殺した未亡人。その情夫だった」
「凝ってますね」
「大金払ってるからな」
「おいくらほど」
「一般サラリーマン五年目の年収ほどだ」
「ね、年? 月収ではなくて?」
「月収で泊まれるわけあるか」
「いや、月収でもスイートルーム泊まれますよね?」
「そこらへんのホテルと一緒にするな。どれだけ労力使うと思ってる」
「はあ」
至極当然と言わんばかりの宝生のふんぞり返った姿に、幸緒は情けなく返すことしかできなかった。




