10 ちょっと待て、説明しろ!
「……――だからねえ」
「うん」
あ。幸緒は記憶の海から戻ってきた。あまりの現実離れした空間に、逃避していたのを思い出す。
「あたし、言ってやったの。婚活必死でするくらいなら仕事して下さいよって」
「あはは、厳しいけど正論だ」
「でっしょー?」
「マリアちゃんは仕事人だもんね。誰よりも真面目だ」
「あー、リュウセイ好き」
「俺もだよ」
おっと、いちゃいちゃが加速している。
「ねえ、アフターしないの? しようよ」
「うーん」
リュウセイが曖昧に微笑んでいる。マリアがむくれそうになったところを、その頬を優しく撫でた。上から下に、手の甲で。慣れすぎた仕草だ。それを顎先で止め、指先でついと上げる。
「……じゃあ、ほかのお客さんと、アフター、してもいい?」
ぼそりと悲しそうに呟くと、マリアが袖を揺らして大きく抱きついた。
「だめ、絶対いや」
「じゃあしない」
「本当?」
「うん。アフターもしない。だからマリアちゃんとも、しない。これだったら、信じられるだろ?」
「うん。絶対よ。誰ともアフターしないでよ」
「もりろん、約束するよ」
おお、乗り切った。それも素晴らしく円満に。いやー、格好いいっすリュウセイさん、などと幸緒は内心拍手を送りたくなった。
「ああ、時間だ」
リュウセイが腕時計を見る。なかなかいいものしてる。さすがホストだ。
「ええ、マリアといるのに時計見るんだ? なんの時間?」
やっと戻した機嫌がまた傾いている。ああ、どうしよう。どうするの?
リュウセイはこれ以上ない笑顔をマリアに向けた。
「君が明日も美しくいられるための時間だよ」
「え?」
「もう休んで。また素敵な君が元気に仕事に向かう為に、休息はなにより大切だ。その貴重な時間を、奪いたくない」
おおおおい、キスでもするのか、とでも言いたくなるほど顔を近づけている。マリアの目はハートになっていた。瞑らないで、目を瞑らないで!
幸緒の心配をよそに、リュウセイは目を閉じたマリアの頭を抱え、優しく抱きしめた。
「ねえ――また来てくれる?」
「当たり前でしょ。仕事なんか早く終わらせて来るんだから」
「それでも手を抜かないんだから、本当に君は素敵だね」
「もう」
もじもじと照れながらしっかり抱きつくマリアの背をとんとんと叩き、リュウセイはゆっくりと身体を離した。満足、と書いた顔のマリアは引き留めず、ひらひらと手を振った。
「ありがとー、また明日ね」
「また明日。待ってる」
リュウセイはその手を掴み、愛おしむように撫でると最後に微笑んだ。
こちらに戻ってくる。幸緒の方に。
え、どうしよう。
いや、顔に出すな。俯け。
幸緒は視線だけを下に向けた。通りすがりに、腕をさっと叩かれ、合図だとわかると身体を動かすネジを巻き、なんとかその場から退出する。
扉を閉めるリュウセイが、幸緒を見下ろした。
そしてさっと手で七三分けを作り、胸ポケットから眼鏡を取り出してかけた。
「ということです」
「どういうことですかあ!」
やっと、やっとツッコミが入れられる。
幸緒は、たまり尽くした鬱憤のような向けどころのない感情が振り切れ、開放感さえ感じた。肩で息をする。
「だから習うより慣れろと」
「聞きました、現場百回とも」
「それがこれだ」
「私は業務の説明を聞きに来たんであって、あなた方のいちゃこらを見せられる謂われはありません」
「お前の目は節穴か」
「はああああ?」
幸緒は盛大に顔を歪めた。もう自分が不細工だろうがなんだろうが気にならない。それ以上の問題が今目前に、並べられすぎてどこから突っ込めばいいのかわからないくらいだった。
リュウセイ――じゃなかった、宝生が呆れた者を見るような目で見る。それが余計気に入らない。
「いいですか、宝生さん。人には口というものがあってですね。社会には、そう、ホウレンソウというものが存在してるのはご存じですか」
「釈迦に説法」
「知っているなら事前に教えて下さいよ! ここがホストクラブだったなんて……」
「ホテルだ」
「ホストクラブホテルだっただなんて」
いや、納得かもしれない。
幸緒はうなだれたままどうにかこの状況の収集を自分の中でしようとしていた。
道理で古町や紫乃など綺麗どころが揃っているはずだ。彼らがジャージだったのは、まだ夜じゃないからだ。夜になれば紫乃はドレスに着替えて紳士のところへ。古町くんは――古町くんは髭面マーメイドのところ?
「そんないかがわしいホテルではない」
「いや、十分いかがわしかったですよ、さっきの!」
「騒ぐな」
宝生は疲れた言いたげな顔で、そそくさと歩き始めた。
ちょっと待て、説明しろ!
幸緒はすぐさま追いかける。
「わかりました、わかりましたよ」
幸緒は隣に並んだ。私は冷静よ、と顔に書いてみる。
「ほう、なにがわかりましたか」
敬語に変わったな。よし。幸緒はぎこちなく親しげな部下の笑みを浮かべた。
「宝生支配人、わたくし、働くのも初めてな者で、ご指導ご鞭撻のほどを――」
「面倒くさい」
「説明して下さい」
「最初からそう言え」
「言ってました、言ってましたよ!」
「いいや、言ってない。どういうことかと喚いていただけだ」
二分前に戻って見ろと付け加えられる。幸緒は言われた通り、二分前の自分に戻った。
あ。
「本当だ!」
「ほら行くぞ」
宝生はそう言うと、そそくさと両階段を降りていった。幸緒もついて行く。
休憩室へ行くと、調理場からカチャカチャという音がかすかに響いた。
「夕食の準備だ」
「ああ、なるほど」
時刻は十五時。そう言えば十三時に面接をしてから、もう二時間も経っている。面接が落ちて家路に着くときには二十分のバスでさえとてつもなく長く感じるというのに、働いているとこんなにも時間が早く感じるものだったのか、と幸緒は驚いた。
宝生が休憩室という名前に似つかわしくない立派なダイニングテーブルの椅子を引き、座る。ちらりと見えた猫柄の座布団に、幸緒は自分のベッドカバーを思い出した。やっぱり同じだ。宝生の向かいに座る。なるべく、クッションは目に入らないようにした。
意外と座り心地がいい。




