第七楽章『Aufgeben【ミキリ】』‐6‐
Her name is ---.
She was an ordinary love, marriage was very common.
But only one was different, she was a magician is.
「…その構えは」
呟きながら私は目の前の相手である凛さんを見つめた。長い薙刀を頭上に振り上げた状態で構えている。普通に持っていても長い薙刀を刀のような持ち方になっているので余計に長く見える。ただ構える凛さんは息が荒い。もう立っているのも限界なんでしょう。
今こちらから攻撃を仕掛ければ、凛さんの状態ならきっと勝てるはず。だけど心配な事が一つある。
それは今の凛さんの構えから繰り出されるであろう攻撃。不用意に近づけば、きっと体の限界関係なく振り下ろしてくる。
凛さんが取ったその構えを見て、ただの上段の構えと侮る事は出来ない。あの長さだ。こっちが近づく前にあっちが攻撃を仕掛けてくれば間合いの長さだけでなく、遠心力と重みを生かしてかなりの速さで振り落とされる。例えば一つ例に挙げるなら『雷刀』と呼ばれる技がある。柳生新陰流における一撃必殺の奥義、その振り下ろす威力は、甲冑をも一緒に斬ってしまうほどだと巴様に聞いた事がある。
凛さんがそれ程の力で攻撃してくるわけではないけど間合いを制することの出来る技。この凛さんの構えも偶然なんだろうがそんな雰囲気が感じ取れた。
でもそれさえ掻い潜ればこちらのものと言ってもいいはず。しっかりとその攻撃を避ける事だけを前提に攻撃を仕掛ければ私の勝ちだ。
「…参ります、凛さん」
「はい」
私の言葉に素直に返事をしてくる凛さん。なんだか力が抜けてしまう。私は気を取り直す為、一度深呼吸をした。
勝負はこの一連の流れで決まる。凛さんの攻撃が私に届くか、私がそれを避けて凛さんに攻撃をして決まるかの2択。こんな事で変に気は抜けない。どんな相手に対してもそれは失礼に値する。
私は3回ほど深呼吸をして静かに息を止める。そして姿勢を低くし、その刹那、私大きく床を蹴って凛さんへ向かっていった。
◆ ◆ ◆
私にはたった一度のチャンスしかない。この一撃に全てが懸かっている。
心臓は今まで感じたことが無いほど早い鼓動を打っている。呼吸がし辛くい。それでも何とか大きく息を吸ってゆっくりと吐いていく。集中しているのかどうなのかは分からないけど、気味が悪いぐらいに目の前の美緒さんの動きに集中している。
「…参ります、凛さん」
「はい…」
どうやって動いてくるのだろう。私が返事をすると、美緒さんは大きく一度息を吸い、吐き出していく。
深呼吸を始めた美緒さんを見つめる私は薙刀を持つ手に力が入っている。攻撃を仕掛けてくるのは目に見えて分かり、私は美緒さんの動き一つ一つ集中して見ていた。
美緒さんの標的、それは私だ。攻撃は私にしか向かっては来ない。それだけは確かな事。それ以外のことはまず考えなくて良い。
そして私がすべき事、それは美緒さんに私の攻撃を当てる事。当たらなくちゃ倒す事なんて出来ない。兎に角『一撃』、それだけでも美緒さんに当てるんだ。
私は美緒さんに合わせるように深呼吸をする。その時、
---次の呼吸が終わった時に…、来る……。
そんな直感が頭を過ぎった。
私は攻撃に備えて左足をゆっくりと前に出す。その動作を見ていたのか、美緒さんも同じような動作で右足を出してくる。
持っている武器はまるで違うものなのに、まるで鏡を見ているかのような錯覚をするほど同じタイミングでその動作をする。その事が何よりも直感を裏付けている気がした。
2回目の深呼吸も終わり、そして間もなく大きく息を吸う美緒さん。そして息を吐き終わると小さく息を吸ってすぐに止める。
---来る!
そう思うやいなや、体勢を低くした美緒さんが地を蹴る。私は渾身の力と重力に任せ、大きく薙刀を振り落とした。
振り落とされた薙刀は、今までで1番の速さと正確さに思えた。
だけどその一撃は届かなかった。
それを象徴するように響く床を叩く音。その直後、私の眼は右方向に美緒さんの姿を捉えていた。
◆ ◆ ◆
僕の目の前には竹で出来た箒を持って女性は仁王立ちをしていた。
「モイナさん、お久しぶりです。お元気でしたか?」
僕は何事もなかったように話しかけた。でもそれは逆効果を生んだようで思い切り持つ床を突いて怒りを表した。
「もうそんな名前忘れてたんだけど…。もうその名は捨てたんだから二度と呼ばない事ね」
そう言って僕に箒の掃く部分を向けながら近づいてくるモイナ。その顔は怒りが現れていた。それを見て一緒にいたアンナは怒りを露わにする。
「な、ウィン様に何するのよ!」
「あ、アンナ!」
僕は制しようとしたが時すでに遅かった。叫びながらアンナから繰り出される不意打ちのような前蹴りを、いとも容易く箒で受け流すモイナ。そしてクルリと回しながらアンナの喉元に触れるか触れないかの場所に箒の柄の先が向けられていた。
えっ、といった感じでアンナが動くのを止めた所を見逃さず、モイナはアンナのおでこにもう一方の手でデコピンを当てる。当てると言う言葉が合っているのか分からないほどの音がしましたが…。
「ウィン、躾はちゃんとしておきなさい。これで許してあげるけど、いくらあなたのパートナーでも次は無いからね」
床に転がって痛みを体全体で表現しているアンナを無視するように僕の方を見てそう言い放ったモイナは、一つ溜息をつく。
「そういえばウィン、なんで彼方がこんな所にいるの?」
「旅の途中で暇でしたからここの者に留守番を申し出ましてね。ここの主は明日には帰ってくると思いますよ」
すると僕の返事を聞くと、わかってるわ、と言いながら事務所のソファーに腰を下ろした。
こっちに来てから知り合いに会うなんて思っていなかった。しかもこれほどの有名人とは…。
「どうですか、今の生活は? あの有名な『黄金の夜明け』から辞めた方でしたからね。あなたのその後を気にかけている者が僕の所にも何人もいましたよ」
「そんな事憶えていないわ。私はもう関係ないの。どう辞めてようがあなたには関係ないでしょ」
それもそうですね、と言いながら、僕は倒れているアンナを抱き起こした。アンナは、すみません、と言いながらおでこを押さえている。余程痛かったようだ。
でもこのモイナの辞め方は、そんな言葉で終わらせられるほど軽いものじゃない。
それまで対立した魔術師たちを薙ぎ倒してきた最強の魔術師だった。ある者は大量の黒猫が家に侵入されてボロボロになるまで爪で裂かれ、モイナの拠点を急襲した者はトラより大きなネコに襲われ、大勢の部下の前で丸飲みにされたのだとか。
どちらも殺すには至らないが、魔術師としてはその2人の魔術師は死んだも同然だ。魔術師としての力量を圧倒的なまでに見せ付けられ、その者たちのプライドさえも噛み砕いてしまったのだから。
当の本人は「うるさかった」とか「睡眠を妨害された」と言って片手間程度にやっているのだから余計だろう。
そんなモイナが『黄金の夜明け』を脱退すると宣言した時は、そのモイナが所属する『黄金の夜明け』内部だけでなく、ヨーロッパ方々(ほうぼう)にいる魔術師たちに衝撃を与えた。内部の者達は必死にモイナを説得したのだが聞き入れてもらえず最終手段として実力行使に出たらしい。だけどその思いも虚しく、モイナを止めようとした者たちは皆倒されていったと聞く。
『Non riesco a smettere di amare!!』
モイナは最後にそう高々と叫び、極東の地へと旅立ってしまったのだ。
その後は魔術師としての活動を行っておらず、脱退した目的どおりに幸せに暮らしているらしいというのを風の噂では聞いていた。
今実際に目の前にいるモイナはあちらにいた頃とは違い、ボサボサだった髪は絹のようにサラサラと伸びていて、洒落っ気の無かったモイナがしっかりと化粧をし、しかもエプロンまで着ている。僕の記憶にあるあの頃の魔術師としてのモイナの面影はまるで無い。
「しっかりと主婦をしているようですね。あなたに憧れていた人たちにその姿を見せたらどう思いますかね」
「そんな人たちにどう思われようと構わないわ。私にとって今の幸せに変えられるものなんて、過去にはありはしないのだから。ううん、この先だって現れるとは思えない。だからこそ私は今の幸せを壊したくないから話をしに来たのよ。『全能なる魔術師』と言われてるあなたとこんな所で会う事になるなんて思ってなかったわ。まあ今日はあなたに話を聞きに来たんだけどね」
これを見るまではね、と付け加え、エプロンのポケットから何かを取り出す。
それは夏美が凛さんと言う子に渡した僕の石、『ラピスラズリ』だった。
「こんな純度の高い守り石なんて、あんたの造ってた物以外見た事が無いもの」
「僕の尊敬する魔術師であるモイナさんからそんな言葉を頂けるなんて光栄ですよ」
「心にも無い事を。あの頃からあなたは『神童』だのと呼ばれた逸材じゃない。気分屋の私なんかよりずっと将来を有望視されてたあなたが言うと、嫌味にしか聞こえないわ」
モイナは言い終わると石を置いて僕を睨みつけた。
「そないな事はどうでもええ。うちはあの子の母親として、凛が今何をしてはるんかちゃんと知りたいから今日ここに来たんや。お世話になっとる人からちゃんと凛について話を聞こう思って。今更この子を凛に身に付けられなくなってしもうたし」
日本の京都の方で聞いた事があるような口調に変わっている。『方言』というやつだろうか。
そんな事を思っていると、モイナはもう一度ポケットに手を入れて何かを取り出す。それは黒一色と言っていいほどの猫のキーホルダーだった。するとそれをテーブルに置き、
「Amy」
するとモイナの声に反応するように座った格好をした猫の人形が突然立ち上がる。そしてその猫の人形が飛び上がると体が大きくなり普通の黒猫になった。そしてテーブルから座っているモイナの膝上に飛び移り、そこで体を丸くして寝転がる。
「この子をつけたら凛が気付かなくても他の人たちに気付かれてまう。うちは過去をほかす為に経歴まで全部修整したんや。そやしうちはこれからも凛だけじゃなく誰から見ても普通の主婦であり続けよ思とる」
「何でですか?」
「そりゃあうちはただの主婦で2人の娘の母親。それ以上でもそれ以外でもないんや。あの子が厄介な事なっとる言うても、影から助けるいうだけや」
そう言いながらモイナは猫を撫でる。猫は満足げにしながら撫でられ続けていた。
「そうそう。言うておくけど今のうちの名前は『モイナ』じゃなくて『美奈』、『桜井美奈』や」
「そうですか。良い名前ですね」
そやろ、と言って笑う顔は、今の生活がどれだけ幸せなものか聞かなくてもわかるものだった。
彼女の名前は美奈。
彼女はごく普通の恋をし、ごく普通の結婚をしました。
でも唯一つ違っていたのは、彼女は『魔術師』だったのです。
※読み上げ方は『奥さまは魔女』風でよろしくです。