第五楽章『趣意【シュイ】』‐8‐
今私は地面に突っ伏している。
じりじりと伝わってくる地熱が熱い。それでも私の体は動かなかった。
「じゃあここら辺で終わりにするか」
「は、はひ~…」
やっと終わった。成瀬君の言葉が心の底から嬉しかった。
それもそのはず。あの後素振りを何十分も繰り返しやらされて、へとへとになっている私に気付かないのか、終わったと思っていた私に、今度は防御する成瀬君への打ち込みをやらされ、今度は逆に打ち込んでくる成瀬君の攻撃を私が防ぐというのをやらされていた。
普段から運動していない私には、テレビで見たどこかの軍隊の訓練に思えてしまう。
「ちゃんと運動後のストレッチしといたほうがいいぞ。次の日筋肉痛に苦しむから」
「う、それは嫌だ…。明日から学校なのに……」
まさか連休最終日にこんな事があるなんて思いもしなかった。
私の中で休みとは、何もしないかどこか買い物に出かけるという事しかなかった。だからこんなに疲れる事をしたのは初めてだ。
私はゆっくりとうまく動かない体を起き上がらせる。体が重力を何倍にもかけられたように重い。
それでも筋肉痛になるのは嫌だという思いから、必死に体を動かしていく。
「う~ん…、痛いよ~……」
ゆっくりと柔軟と同じような動作を繰り返し、痛めない程度に筋や筋肉をほぐしていく。
運動した時に感じる筋肉痛で普段どれだけ動いていないのかがわかると聞いた事があるけれど、確かに言ったとおり。今まさにその状況に陥っている。
でも感じるのは痛みなのだけど、心地よさを感じるような痛みでしかない。それがなんだか私に充実感を与えてくれているようだった。
「大変だよね。もっとすごいんだろうけど、成瀬君は昔からこんな事してきたんでしょ?」
「まあ、それが当たり前だと思ってたから。家族がみんなそうしてたし」
当たり前って…。退魔士になるためとはいえ、辛い事を続けていたなんて…。
自分と同じくらいの人が、この世の中でそんな事をしていたなんて考えた事もなかった。
学校に行って勉強をしたり、友達とお喋りしたりして平穏な毎日を送っていた私の知らない所で、成瀬君や夏美さんたちのような「退魔士」という人たちが命がけで頑張っていたなんて思うと、自分がどれだけ恵まれた環境で育っていたのかが分かる。
一通り体を動かし終え、立ち上がる。
「でもなんか悲しいね。そんな大変な事をしてるのに、普通の人たちには知られる事がないんだよね」
ふとそんな事を思ってしまう。命がけで危険な思いをしても、それがどれだけの人の為だとしても称えられる事がない。そしてそんな事を知らずに好き勝手に生きてる人たちだっている。それを考えると成瀬君はやりきれないんじゃないか、そう思ってしまった。
でもその成瀬君は意外な事を言った。
「確かに変な事件とか起こす奴なんかにはムカついたりするけど、みんながみんな何かを思ってくれなくていいんだよ」
「え? どうして…?」
何でそんな風にいられるのか分からない。成瀬君たちにとっては当たり前なのかもしれないけど、周りから見れば本当にすごい事をしているのに。
疑問に思っている私を見て、そうだなぁ、と言って頭を掻く成瀬君。
「う~んとね、俺個人の意見だけど『退魔士』って言うのは『町工場とか中小企業で働く人』と一緒なんだよ。中には違う人もいるけど」
「???」
成瀬君の言葉に余計に分からなくなってしまう。
すると成瀬君は何かを指差す。目で追ってみると、その方向には建設中のビルが見える。建設ラッシュに沸く街で、一際目立つほど大きい。
「ああいう建物って大きな建設会社が造ってるんだよね」
「まああれだけ大きければね。それがどうしたの?」
「でもさ、あれを造るのにはいろんな物が必要だろ? 窓にしたって柱にしたって、ネジとか部品だってそうだ。それを下についている中小企業なんかに頼んで、出来たものを使って建てていく。
これを聞けば中小企業も頑張ってるんだなって思うけどそんな事はまずない。だから中小企業がどんだけ良い物を作ろうと、結局でかいビルを建てた会社だけが世に知れわたる。それって結構かわいそうじゃないか?」
そう言われてみればそうかもしれない。それに他の事でもそれは言える。
例えば科学者が何かすごい発見をしてノーベル賞を取ったとする。確かにそこまでやった科学者がすごい事は誰もがわかる。
でもそれを発見するために、どれだけの器具や薬品を使ったのだろう。それら一つ一つに誰かの手が掛かって造られていて、知らず知らずにその科学者を支えている事になる。
なのに称えられるのは科学者一人。だれもその科学者が使ったものを作った人なんて知られることはない。
「でもだれも文句なんて言わない。それが当たり前だって思っているから。誰かの支えになってるって思うだけで幸せなんだよ」
それが当たり前、か…。そう言った成瀬君を見る。
命がけが当たり前。そんな世界で生きてきたようには到底思えないような姿に見える成瀬君。今までどんな危険な目に会ったかなんて私には想像できない。
いつも意地悪な成瀬君が、今はすごい格好よく見える。
だけど…。
「やっぱり喩えが下手だよね、成瀬君って。しかもオヤジっぽい---」
「う、うるさい…」
私の言葉に顔を赤くする成瀬君。
そんな成瀬君を見て、なんだかんだ言ったって成瀬君だって歳相応の男の子なんだと気付き、私は思わず微笑んでしまった。
◆ ◆ ◆
微笑む凛を見ながら、自分が言った言葉を思い出した。
『誰かの支えになってるって思うだけで幸せなんだよ』
自分で言って笑ってしまう。本当に心の底からそう思った事がある奴がいるのかは分からないから。自分だって断定できないから。
退魔士の世界では、『お金が結構貰えるから』と考えてたり、『殺された親や兄弟の仇を討ちたい』と心に決めて退魔士をやっている人だっている。理由なんて人さまざまだ。
そう考えるとそんな気はないのだが、結局さっき言った事も自分を格好よく見せるためだけの言葉に過ぎないかもしれない、と思ってしまう。
「あれ? どうしたの、成瀬君?」
「いいや。別になんでもないよ」
ホントに?、と言って怪しいと言いたげな視線を向けてくる凛。別に難しい事を考えてたわけじゃないんだが…。
気付けば空は夕暮れに染まり始めていて、俺は急いで帰り支度をしていく。
「変な事してると、先帰るぞ」
と言いながら、俺はすでに歩き始めていた。
俺の後ろの方から、待ってよ~、と凛の声がする。それでも俺は先を行った。
※ ※ ※
しばらく歩き、事務所に着いてドアに手をかける。鍵はかかっておらず、そのままドアを開いた。
「戻りました~…、って、あれ?」
「どうも。勝手にお邪魔しています」
「ヤッホー! お久しぶりね」
何故か中には笑顔をこちらに向けている『魔術師』と『魔女』が出迎えてくれた。二人の様子としては、金髪の魔女アンナ=シュプレンゲルが、小さな魔術師ウィン=ウェストコットに寄り掛かっているという図。
「すいません。近くまで来たので様子を見に来たんです」
すると後ろからウィンさんを見つけたルリが飛んでいく。
「あ、ウィン様! お久しぶりです!」
すごい嬉しそうな声を上げながら飛んでいき、ウィンさんの目の前で羽ばたいている。
犬が喜んで尻尾を振っているのと同じで、喜ぶと羽ばたき方が違うんだな。少しルリの事を知った気がした。
「ああ、シャルル。お久しぶり。元気そうで何よりです」
そう言いながら手を差し出してルリをその上に座らせ指でルリの頭を撫でている。ルリは気持ちよさそうに目を瞑ってされるがままだ。そしてそれを隣で羨ましそうに見ているアンナさん。
なんかこの光景…、異様だ。
眼鏡の似合う子供が金髪美女を隣に座らせ、人形を撫でている。普通の人が見ればみんな引いてしまいそうな気がする。って、普通の人には一人にしか見えないか。
「今、変な事考えてましたね?」
突然ウィンさんが俺に話しかけてくる。見るとこちらに笑顔を向けているのだが、どうしても笑っているように見えない。
「い、いえ。どうして…?」
「なんだか僕の事を子供と言ったような気がして…」
口調は優しいのに怒気が非常に含まれてる。そのプレッシャーにただならぬものを感じ慌てて違う話題を振ろうとする。
どうしようと考えてる間も、ウィンさんのプレッシャーが俺を襲ってくる。
堪らず俺は夏美さんに助けを求めようとした。
でも今更だがよく見ると本来いるはずの夏美さんの姿が見えない。出てくるときにはいたはずなのに…。
どこかにいるのかと思ったけど、やっぱり中にいる様子はない。
今日は夏美さんから出かけるって聞いてなかったけど。
「あ、あの、夏美さんは…」
俺が声をかけるとウィンさんは、僕達が来た時にはいませんでしたよ、と言う。なんとか危機は回避したようだ。
それにしても急に出かけるなんて…。どこに行ったんだろう?
「あ、もしかしたら…」
疑問に思っていた俺に聞こえた声。それはルリの声だった。
◆ ◆ ◆
夕闇に覆われ始めている街の中を、私は一人車を降りて歩いていた。
連休最後の日とあって、賑わいも少し落ち着いている。
私はいつものスーツ姿で、両手にはアタッシュケース。さっきから道行く人が不思議そうな顔で私をチラッと見てくる。
でも今はそんな事気にならなかった。別に普段から気にしていないけど…。
そして歩き始めて数分。私は少し道をはずれ、小さい路地へと入って行く。途中小さな喫茶店があった。やっているようだけど客が入っている様子はほとんどない。
少し横目で見てその様子に心配しながらも、私は歩いて通り過ぎていく。
またその後も歩いていくと、事前に調べておいた全階の窓にテナント募集と書かれているビルをみつける。
私は中に入ろうと後ろに回り、そこにあった扉に手をかけた。
まさか開いてるはずが無いと思っていたのだが、無用心にも程がある。その扉には鍵が掛かっておらず、入っていいと言わんばかりで拍子抜けだ。
「無駄に壊したりしないで済むから、いいんだけどね…」
中に入り、目指すのは階段。進んでいく通路には何もない。そして静か過ぎる通路には、私の足音が響く。
少し歩くと目的の階段を見つけ、上を目指し登っていく。
その時、私はなんとなく感じていた。この先に姉さんがいる事を。
本当にいるなんて思いはない。でもなんとなく私が選んだこの場所に、姉さんもいるような気がしてならない。
そんな変な事を考えてしまい、私は思わず苦笑してしまった。
それでも歩みを止めずに屋上目指して登っていく。一歩一歩と確実に…。しばらく登っていくと、屋上へと出れる扉に辿り着く。
私は一息ついてその扉に手を伸ばし、ゆっくりと開いていった。
すると目の前に建設途中のビルが建っていて、夜の闇に包まれる街を一望できるようだった。
でも私の目はそんな物よりも先に捉えたものがあった。
それを見下ろしている白い服を着た、姉さんの姿を……。