第五楽章『趣意【シュイ】』‐2‐
追ってきているかも確認せず、私はひたすらもう一度大通りに出るために走り続けた。
でもさっきの出来事を思い出し、ここまで走っていた疲れも相まって思うように足が動かない。
「こ、怖かったぁ~…」
そしてただそれだけしか言えない私。
それを聞いてルリちゃんは苦笑いを浮かべる。
「すいませんでした。やっぱり体験した事無いと、そうなっても仕方ないかもしれませんね」
※ ※ ※
ポケットから出たルリちゃんが私の前に飛んできて、私に手をかざす。
足音が迫っているのに何をすると言うのだろうか。私がそんな事を思っているのをよそに、何かを唱え始めた。
「な、何する、の?」
心配そうに私が聞くと答える事が出来ないらしく、ずっとぶつぶつと詠唱を続けていた。
そして終わったかと思うと、真剣な顔で私を見るルリちゃん。
「行きますよ?」
「へ? っわ!?」
ルリちゃんがこちらを向いたと思ったら、急に私の周りに風が渦巻くように発生し、次の瞬間には私の体が浮き上がった。
「きゃ! え? 何?」
訳が分からないという感じで声を出す私。でもそんな状況にもかかわらず、私は風で捲れそうなスカートを押さえてしまった。条件反射だろうか? それえともよく分からず慌てているだけだろうか。
そんな私を見かねてか、隣に羽ばたいてルリちゃんが来た。
「凛、落ち着いてください。じっとしてれば私が風で運びますから」
そう言われて訳も分からず、とりあえずルリちゃんの言うとおりにする。
そしてそこでやっと自分の今の状況を必死で整理していた。でもあまりにも現実離れした今の状況。何かに乗る事も無く空を飛ぶと言う状況は私の頭が追いつかない。マンガやアニメの世界のようだ。
浮いている私は恐る恐る下を見た。さっきまでいたアスファルトの地面が見え、ちょうどそこへ真理がやってくる。気付かれるかと思ったけど、さすがに上にいるとは思わない真理はやっぱり上を見ない。その上空を私は風に乗って気付かれる事無く飛んでいった。
そして通り過ぎた後、ゆっくりと地上に降りていく。まるで夢を見ていたような気持ちになっていた私は、ボーっとしてしまった。
「じゃあ行きましょう」
「あ。う、うん」
そんな私はルリちゃんの言葉で急に意識を引き戻され、うながされるまま走ってその場を後にした。
※ ※ ※
結構奥に来てしまっていたようで、まだ大通りに出られない私たち。でも大通りを走る車の音が聞こえてきて、もうすぐこの路地から抜け出せるのが分かった。
それにしてもさっきの事を思い出すと、本当にあんな事をしたなんて信じられない。
自分の体が浮き上がり、下の方に見えるアスファルトの地面や追ってきた真理を上から見るという普段見ないような所にいたと思うと今頃になっていろんな思いが沸いてきていた。
そんな気持ちを察してか、私の隣を一緒に飛んでいたルリちゃんが心配そうな顔で私を見る。
「あの…、すいませんでした…。急にあんな事やってしまったから気分が悪くなったようで……」
「え? ううん。そんな事無いよルリちゃん。ただちょっと怖かったかな」
と言って笑い、気にしなくていいよ、と私が付け加えて言うと、しょんぼりしながらも私の胸ポケットに入る。
最近知ったのだけど、どうもルリちゃんはここが気に入ったようだ。
一度ルリちゃんに見える人が今の所私の周りにいないようなので、肩にでもいれば?、と言った時があった。それならば話しかけるのも楽になるし、姿が見えるのは私としては嬉しい。
でもルリちゃんは、その申し出を首を振って断った。そして胸のポケットを指差す。
『そこなら凛の鼓動も聞こえるし、落ち着くんです』
そう言ったルリちゃんも顔を赤くしてたけど、私自身も聞いて恥ずかしくなった。
……と、それはどうでもいい。
私は落ち込んだルリちゃんを勇気付けるように話し始めた。
「それにしてもルリちゃんってあんな事も出来るんだね。すごかったなぁ」
とっさに言った事だけど、確かにそう思ったのも事実だった。あんな体験したくても私が今までどおり普通の生活をしていたら簡単に出来ないし。
私がそう言うとポケットから顔だけを出すルリちゃん。
「いえ…、うまくいってよかったと思ってます。実は初めてなんですよ、あれ」
「え!? そうなの?」
ルリちゃんは、テヘ♪、とでも言うような顔をした。
一方の私は意外な言葉に驚いていた。でも思い出してみると確かにアレをやるときに、『試したい』と言っていたような……。
ルリちゃんのような妖精はもともと人と関わりを持たない、とルリちゃんから聞いたことがある。
それならばさっきのような事を試す事なんてしなかっただろう。その後にルリちゃんが出会ったウィンさんなんか自分の力で空を飛んだりする事が出来るみたいだから、試す試さない以前の問題か。
それにしても初めてか……。
本当に何も無くてよかった…。
私は誰に向けるでもなく、苦笑いを浮かべていた。
「それにしても…、私もルリちゃんほどじゃなくてもいいから、魔術が使えるようになりたいよ」
ふと私は思った事を言った。前に魔術を行う際には『今やりたい事を唱え、心の中で強くイメージする』と言っていた事があったけど、人が浮き上がるほどの風をイメージなんて私の頭では出来ない。それではいくらやっても無理だろう。
するとそれを聞いたルリちゃんが私を見る。
「大丈夫ですよ。今はまだコツがつかめてないだけですし」
勇気付けてくれるルリちゃん。それがとても嬉しい。
すると、後ろの方から足音が近づいてくる。
「ありゃ、真理が来たみたい」
「大通りに出れば人ごみに紛れられるはずです。行きましょう」
ルリちゃんの言葉に促されるように私は頷いて走り始める。
私たちは大通りの中に入って行き、人ごみに紛れていった。
◆ ◆ ◆
私は凛に連絡を入れ、事務所で来るのを待っていた。
成瀬は外出してしまっている。なんでも近くのスーパーが特売日のようで、昨日巴さんが使い切ってしまった物の少しでも買い直したいよう。
というか特売日に買い物に行く高校生って…。
ふとおばさんとかに混じって買い物をする成瀬を思い浮かべる。品定めをする成瀬を思い浮かべた時、笑いがこみ上げてきた。
でもきっと成瀬のことだから、笑われていたってそんな事気にしないだろうけど…。
「あら。どうかしたんですか?」
ちょうど事務所に来ていた巴さんが尋ねてくる。
昨日は成瀬の部屋を使ってもらい、この事務所に泊まった。成瀬には悪いのだが、また事務所のソファーで眠ってもらったのだ。
「いえ。ちょっと思い出し笑いを…。すいません」
私の言葉を聞いて、そうですか、と言って微笑む巴さん。
そして立ち上がり、荷物を持つ。
「じゃあそろそろ失礼しますね」
「もう行かれるんですか? 湧樹君ももうすぐ帰って来ると思いますよ」
「そうしたいのは山々なんですが、座席の予約をしていた帰りの電車があるので」
それでは仕方ないと思って巴さんを引き止めるのをやめた。
割った市の様子を見て、それじゃあ、と言って出て行こうとする巴さん。私はそれを見て立ち上がって見送ろうとした。
すると巴さんはドアの前で立ち止まってこちらに振り返る。
「あ、そうそう夏美さん」
「はい?」
私に近づいてきて、少し前で立ち止まると、
「湧樹の事、よろしくお願いしますね」
そういってお辞儀をする巴さん。私が、はい、と言うと巴さんは、顔を上げて微笑んでいた。
退魔士だったと言う巴さんの母親らしい行動に、私も思わず微笑んでしまった。
すると突然ドアが勢いよく開き、入ってきたのは凛だった。
凛を見るととても疲れた様子で息が上がっていた。
◆ ◆ ◆
やっとの思いで辿りついた事務所に勢いよく飛び込んでいった私。
夏美さんはビックリした様子でそんな私の事を見ていた。
「すいません! 遅くなっちゃって」
そんな事を気にする余裕は無く、膝に手をついて大きく息をしていた。
するとその様子を見てか、夏美さんはどっかに行ってしまった。
「どうしたの? 何かあったの?」
また出てきた夏美さんの手には、コップが握られている。
手渡されると私はすぐに中身を飲み込んだ。
茶色い色をしていたので麦茶なのかと思ったのだけど、麦茶は麦茶でも、砂糖入りのものだった。噂では聞いていたけど、甘い麦茶って存在するんだ。
でもそんな事に反応している余裕は無く、美味しいと感想を言う事無くコップの中身を飲みこんでいく。
一杯飲み干すとようやく落ち着いてきた私は、ありがとうございました、と夏美さんに言った。
「それで、なんで凛ちゃんはそんなに疲れてるの?」
「あ、その…。妹に追いかけられて……。妹の真理までこういう事に巻き込みたくないですから」
「ああ、そういう理由で」
夏美さんも納得したように頷く。私からコップを受け取ってまたキッチンの方へと消えていった。
そして私も落ち着いてきたとき、今頃になって巴さんの存在に気付いた。
私の様子を微笑んで見ている巴さんの顔は、やっぱり親子だから成瀬君に似ている。
「すいません、挨拶も無しにこんな変な所見せてしまって…」
「いえ。妹さんを巻き込みたくないなんて、優しいお姉さんじゃない」
そう言われて私はちょっと恥ずかしくなった。嫌なわけじゃなく、嬉しいと言う意味で。
恥ずかしそうに顔を下にむけると、巴さんの足下に荷物があるのに気付いた。
「あれ? もうお帰りなんですか?」
「ええ。あまり長居してもお邪魔しちゃうでしょうし。それに…」
耳の辺り、と言うより頭を押さえている巴さん。
「ちょっとキツイから…」
キツイ? 風邪でも引いていたのだろうか。
でも昨日から見ている限りだと、別にそんな感じは無かった。今も鼻声でもないし。
ただ少しそう言っているだけあって顔色が良くないように見える。
「駅まで送りますよ? お一人だと危ないかもしれませんし」
私がそう言うと巴さんは首を横に振った。
「大丈夫よ。病気とかではないから」
「でも…」
「気持ちは受け取っておくわ。それよりあなたも大変よ? 今度こっちに来る時を楽しみにしてるわね」
巴さんが意地悪そうな笑みを浮かべて言った言葉に、一気に気持ちが沈んでいく
そういえばそう言う事を言っていた様な…。夢ではなかったんだ……。
「美央は強いわよ。年下だけど甘く見ないでね。これからまた私が稽古をつけておくから尚の事♪」
そんな巴さんの言葉にさらに私が落ち込んでいると、胸にいたルリちゃんが肩に座り、苦笑いを浮かべて頭を撫でる。
私はそのまま撫でられ続けていた。
すると事務所のドアが開き、そこには成瀬君の姿が。
両手に袋を抱え、少し息が上がっていた。
「疲れた~。途中でちょっと教育指導したから疲れちったよ。て、それより…」
そう言って成瀬君は袋を持って私の前に来る。
袋を足下に置いて、私の両の二の腕を掴んだ。
「絶対勝つぞ。凛」
え?、と言ってしまう私。
何故成瀬君がそう言うのか私はよく分からなかった。