どうにもならない
汽車の中で、リリーは弟の事を考えていた。
「ずっと好きだったんだよ」
その言葉が耳から離れない。さんざんな旅立ちになってしまった。彼の叫びを思い出すと、リリーの胸はぎゅっと痛んだ。自分のために、母を家から追い出したユーナ。
知らぬうちに、彼に残酷な選択をさせてしまっていたのだ。まだ子どもの彼だ。よく考えもせず、行動してしまったのだろう。リリーがそうさせてしまった。
(多分、私たちは…出会わないほうがよかったんだ)
半分血のつながった弟。でも、結局喧嘩別れだ。
だがそれも当然だろう。一方は正嫡の男子。もう一方は庶子の女子。最初から対等に仲良くできる可能性などなかったのだ。
そして彼が私に抱いた感情は…
(恋愛…? まさか。でも…)
ずっと彼の事を、子どもだと思っていた。実際リリーを責めながらしゃくりあげる彼の姿は、小さい子そのものだった。だが、普通の兄弟が姉に求婚などするだろうか。思い返してみれば、彼が目を覗き込んでくるとき、その顔はいつも真剣だった。その目は潤んでさえいなかったか。
リリーはそんな彼の一面から、ずっと目をそらしていたのだ。
(そう…気が付かないふりを、してた)
あの屋敷の庭は、閉じた秘密の楽園のようだった。彼の願いに気がついてしまえば取り返しがつかない事になる。だからリリーは気が付かないふりをしていた。
なぜなら、リリーもまた、彼に惹かれていたからだ。一番最初、あの屋敷で対面した時、ユーナの目はリリーを親し気にまっすぐ見た。その直後母様はリリーを床にたたきつけたが、そんな彼女の目の方が、リリーにとってはなじみ深かった。
村ではよく、嫌悪の視線を感じたものだった。人の中を歩くと、いつもたくさんのナイフを投げかけられているように感じた。その刃は、体ではなく心に刺さるのだ。
だけど、長年そんな状況にいれば慣れもする。時には笑い、無視し、こんなこと、大したことじゃないと自分に言い聞かせて。そうやって、リリーは自分の心を防御していた。
なのにユーナは、自分になんのためらいもなく駆け寄ってきた。毎日飽きもせず話しかけて、後ろをついてきた。そんな人間はユーナが初めてだった。彼の前では、自分を防御する必要などなかった。
そしてリリーは気づきたくなかった自分の本心に気が付いた。長い事母子二人きりだったのは、寂しかったのは、自分も同じだったと。
つまり、自分と彼の寂しさが惹かれあったのだ。だけどリリーは、彼にそれ以上惹かれるのが怖かった。
飢えにも似た、その孤独の本能に従って何になるのだろう? 姉弟同士で? 狂った女主人の支配下にある、この閉じた屋敷で?
だから、さくらんぼの木の下で、彼からのキスを避けた。屋敷を出ていく事を告げるのを、ギリギリまで伸ばした。
(私も悪かった。自分の事で精いっぱいで、無責任な事をした……でも)
そこまで考えて、リリーはため息をついた。
自分たちがこんな事になってしまったのも、元凶は恋愛だ。リリーとユーナを孤独にしたのも、彼の母が狂ったのも、もとはと言えば……。
――自分を育ててくれた母だったが、どうしてと思わずにはいられない。
(子どもを傷つけても、他の人と争っても、村八分になってもいい、って思える、そこまで人を好きになる気持ちなんて…私は絶対わからない)
母がいつも嬉しそうに話していた。父が見せてくれたさくらんぼ畑がどんなに美しかったか。どんなに父を愛していたか。しかしリリーには、それが良いものには思えなかったのだった。その結果母が得たものを考えると。
なにしろリリーとユーナにまで、その禍は及んでいるのだ。
しかしやりきれない思いに、リリーは無理やり蓋をした。
(…忘れよう。私は出発したんだから。もうやり直しはきかない。…離れてしまえば、ユーナも私を忘れるだろう)
リリーはカバンを持ち上げ、この国の中心地、サンクトペテルブルクへ到着した汽車を下りた。田舎者だとは思いながらも、リリーはつい周りを見渡していた。
故郷とは打って変わって厳めしい石畳の馬車道。それが整然と都市中を走っている。その脇の運河はとうとうと水をたたえ、立派な橋がいくつも掛かっている。通りに立ち並ぶきらびやかな建物の向こうには教会の塔や宮殿の丸屋根が見えた。
(あそこが、皇帝様のいる場所…)
が、リリーの目的地はやや郊外にある美しい林の中にある。リリーは郊外へと歩き出した。歩みにしたがって、大きなカバンが揺れる。
カバンは、おじいちゃんが餞別にと持たせてくれたものだった。彼とリズのおかげで、旅費にも困らなかった。彼らがいなかったら、リリーは今、ここに来れてはいないのだ。
そう思うと、弟の事で頭を悩ます時間などない。国立バレエアカデミーの授業は厳しい。毎年半数の生徒が進級できずにやめていく。
ダンスの上達だけではない。厳しい体重制限や年ごとの進級試験に勝ち抜いていかなければならない。生き残りたければ必死で食らいつかねば。リリーは歩き出した。
たどり着いた林は、本物のそれとは違う、都市の憩いの場として造られた安全な林だ。
しばらく歩くと、前方に草模様の装飾が施された大きな黒い門が見えた。そして、その向こうにそびえたつ白亜の学び舎も。リリーはしげしげと校舎を見上げた。昔教会として使われていた建物を改築して作られたという校舎は、美しく荘厳だった。
(なんて綺麗な建物なんだろう。お城みたい…)
一つ一つの窓ガラスは透き通ってピカピカ光り、壁からは石の天使たちがこちらを見下ろす。
西翼には塔がそびえたっていて、それは妙に細長く、水鳥の首を連想させた。再び全体を見ると、やっぱりその建物は麗しくて、リリーの胸は高鳴った。その景色は、きっと今までの生活とは違う、素晴らしいものを自分に約束してくれるような気がした。
その時、なんだか視線を感じたような気がして、リリーはふと周りを見渡した。けれど、誰もいない。リリーは気を取り直して門をくぐった。
――あとから知った事だったが、リリーはその時、窓から見られていた。後にライバルとなり、衝突し、やがて生涯をかけて愛する事になる人物に。