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行かないで

 ユーナが低い声でそう言った。

彼の目が恨みに燃えている。彼のそんな表情を見るのは初めてだ。

彼の悲しい気持ちは、リリーにもよくわかった。だって彼にとってリリーは、初めての遊び友達だったのだ。


「ごめんなさい……。ユーナの事は、私も好きよ。一緒にいられて嬉しかった。ここに戻ってはこれない

けれど、ずっと大事な弟だと思っているわ」


「……なんで!」


 ユーナは絶叫した。屋敷中に響くような声だ。


「どうしてそんなひどい事いうの? 僕はリリーの事が…来た時からずっと、ずっと好きだったんだよ!」


 まくしたてるその目は、濡れている。その目の光を見てリリーの胸は痛くなった。けれど、いくら彼が可哀想でも、行かなくてはいけないのだ。リリーは彼の前に膝をついて目線を合わせた。


「それは…きっとユーナが今まで、お母様に邪魔されて、誰も友達がいなかったからよ。今からでも、外へ出て友達を作るといいよ。いろんな人がいて、ユーナに本当にふさわしい人もみつかるはず」


 だけど彼は、そんな事聞いていなかった。


「お願い、戻ってきて。バレリーナになってもいいから、僕と一緒にいて」


 リリーは首を振った。

 国中の娘がつかみたい憧れの学校の籍を、死に物狂いでもぎとったのだ。皆本気で、世界で舞台を踏むのを目指して集まってきている。

 卒業したら家に戻る――なんて、そんな甘ったるい気持ちで来ているものは、そうそうにふりおとされるだろう。それに。


(私は、ここにはもう戻らない。舞台に上がって、喝さいを浴びて――自由になりたい!)


 子猫をとりあげられた絶望も、ずっと日陰者でいた悲しみも、それですべて、チャラになるのだ。

 真面目に生きていても、上手にダンスをしてみても、この田舎村で、生まれは一生ついてまわる。ここにいては、子猫を取り上げられ続ける人生になるだろう。


(私を、生まれではなくてダンスで評価してくれる場所に、行きたいの)


 すべてのしがらみから自由になって、母に教わったダンス一つで、評価されにいく。それは、リリーが母から受け継いだ夢だった。

 だから、彼の願いは聞けない。しかし、幼い弟のお願いを拒絶するのは、辛かった。リリーは歯を食いしばって首を振った。


「無理よ。ここに戻ってくるために、勉強しに行くわけじゃない」


 その言葉に、ユーナは下を向いて、両腕に顔をうずめた。


「僕を捨てるんだ。僕よりダンスを選ぶんだ。僕は君のためなら、母様だって捨てるのに」


 リリーは唇を噛んだ。


「捨てるとかじゃない……! でも……」


 彼からすれば、そうとしか思えないだろう。リリーは頭を下げた。


「ごめんなさい」


 リリーは立ち上がって、一歩下がった。


「さようなら、ユーナ」


 ユーナは顔を上げてリリーを見あげた。涙で顔全体が濡れている。


「本当にいっちゃうの」


リリーはうなずいた。できることなら、彼と綺麗に別れたかった。


「さくらんぼの木を見せてくれて、ありがとう」


 彼はきょとんとした。


「なんで、そんな…こと」


「ここに来なきゃ、見れなかったから」


「…そんなに、さくらんぼが好きだったの?」


 リリーは無言でうなずいた。母はよく、昔話を語るようにここのさくらんぼの木の事を話してくれた。だから見たことのない、満開のさくらんぼ畑の景色がリリーの頭のなかにはあった。

 一生、自分は足を踏み入れることもないと思っていたこの屋敷に来たのだから、どうせなら見てみたかったのだ。


「じゃあ…夏休みのころ、ここのさくらんぼがなったら帰ってきて、ね?」


「いいえ。ペテルブルクからこの村は遠いもの。ユーナは新しい友達をつくって、楽しく過ごして」


 こうなった以上、もう戻らないほうがいい。ユーナは自分を忘れたほうがいいのだ。しかしユーナが立ち上がって私を睨んだ。


「なんで? お休みには戻ってこれるでしょう? お願い。こんなに頼んでるのに…!」


 彼は聞く耳を持たないし、自分は彼の言う通りにはできない。平行線だ。もう、何を言っても無駄だろう。リリーは肩を落としていった。彼はことごとく、この世の辛酸を知らないのだ。


「…一歩外に出れば、ただで頼みを聞いてくれる人なんて一人もいないんだよ。何か叶えたい事があるなら、努力なしには何一つ、どうにもならない」


「じゃあ、僕はどうすればいいの…!」


「自分で頑張るしかないの。もう母様もいないのなら、あなたは自分でこの家を守って、続かせていかないと」


 リリーは彼に背を向けた。


「じゃあね。ユーナの幸せを祈ってる」



◆◆◆



 今日は最悪の日だった。ユーナはベッドに乱暴に身を横たえた。何もかもめちゃくちゃにして、ナイフで切りつけたい気分だった。


(なんで…リリー…)


 ユーナは初めて、自分の母の気持ちがわかった。父を求めて、でも彼は出ていって、どんどん壊れてい

ったタチアナ。愛する人に顧みられないという事は、そういう事なのだ。


(じゃあ僕も、あんな風になるの…?)


 ついた先のサナトリウムで、睡眠薬入りの紅茶を飲んで眠りに着いた母の寝顔が頭によぎった。長い年月による狂気で荒れたその顔。壊れた心。ユーナはぞっとした。


(嫌だ! あんな風になりたくない…!)


 恐怖と苛立ちのうちに、一睡もできないまま朝が来た。


 疲れてぼんやりするユーナの耳が、誰かが外を歩いていくかすかな足音を捉えた。とうとう行ってしまうんだ。ああ、見たくない。リリーが出ていく所なんて。だけど思わず窓辺に駆け寄った。


(リリー…)


 リリーは見た事のない、黒いドレスを着ていた。しらない女の人みたいだった。隣にはレフが、旅行鞄をもって歩いている。二人が門を開けて出ていく。ユーナの心臓はちぎれんばかりに脈打って、でも足は墓石のように重い。


(行っちゃう、行っちゃう、リリーが行っちゃう)


 いますぐ走っていって、行かないでと引き留めたい。だけどそんなことをしても意味はないと、わかっていた。逡巡しているうちに、二人の姿は外へと消えた。ユーナはずるずるとその場に座り込んだ。


(行っちゃった…!) 


 リリーも自分の事を、好きでいてくれると思っていた。ずっと一緒に居ようといえば、うんと言ってくれると思っていた。

 けれど違ったのだ。リリーにとってユーナは、二度と会えなくてもかまわない、置いて行くだけの存在だったのだ。その事に気が付いて、ユーナは打ちのめされた。


(…僕を見捨てていったんだ)


 彼女とまた一緒に暮らすという希望を奪われて、一体今日からどうやって生きていけばいいんだろう。このままひとりぼっちで年老いて、嘆きながら母のように狂っていくのか。


(嫌だ…僕は、狂ったりなんてしたくない)

 

 彼女と再び一緒になるには、どうすればいいだろう。ふとそう考えて、昨日リリーにかけられた言葉が頭の中によみがえる。


『一歩外に出れば、ただで頼みを聞いてくれる人なんて一人もいないんだよ。何か叶えたい事があるなら、努力なしには何一つ、どうにもならない――』


ユーナははっとした。一筋の希望が見えた気がしたのだ。


(そうだ、母さんのように、待つだけの人間には僕はならない)


 行動だ。自分で動けばいいのだ。また彼女と会うためならば、どんな事だって頑張れる。ユーナは血が出るほど強く唇をかみしめた。

 その決心は、炎のように燃え上がり、ユーナの胸を熱く満たした。恨みと恋しさが混ざり合った暗い情念。


 この時、ユーナ・イラリオンは、子どもだった自分に別れを告げた。


(君にまた会う。どんな手を使っても)


 そのために努力をする。リリーが言ったとおりに。



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