僕は姉弟なんて思った事ない
しばしの沈黙のあと、ユーナは白くなった唇を開いた。
「学校て…いつまでなの? 学費はどうしたの」
その顔には表情がない。
「私は5年次に編入するから…卒業は、順当にいけば4年後になる。バレエ学校は国立なの。だから試験に受かれば、学費はいらない」
ユーナの顔に、残念な表情が浮かんだ。
「じゃあ僕、4年も待たなきゃいけないの? ひどいよリリー」
リリーは怪訝な顔で聞いた。
「待つって…何を?」
「リリーが帰ってくるのをだよ」
ユーナは当然のような顔でそう言った。リリーは思わず言葉に詰まった。もう二度と村に戻るつもりはないことを、どう伝えればいいだろう…。
「ユーナ…」
「なに?」
リリーはふーっと腹から息を吐いた。ちゃんと、彼に説明しなくてはならない。たぶん簡単にいかないだろう。けど、彼が納得するまで説明するのが、出て行く自分にできる唯一の事だ。
「屋敷に行こう。そこで話すから、聞いてほしいの」
「よかった、やっと戻る気になったんだね」
歩き出したユーナとリリーを、おじいちゃんが心配そうな目でみていた。自分が行ったあともここで暮らさなくてはいけない彼を、これ以上巻き込みたくはない。
リリーは彼に大丈夫だとうなずいてから、二人で小屋を後にした。
「あのねぇ、僕も大事な話があるんだよ。だから僕のお部屋で、聞いてくれる?」
「わかった」
ふふっと、それは嬉しそうに彼は笑った。
「やっとリリーとまた一緒だ。冬なのに、あんなところで寒かったよね。リリー、今までごめんね」
「別にユーナのせいじゃないから」
「ううん、もっと早くこうしてればよかったんだよ。」
リリーはおそるおそる聞いた。
「母様には…なんて言ったの?」
「大丈夫、リリーは何も心配しないで。母様だって、ここにいるよりは、ちゃんとした病院にいる方が幸せだよ。本人は別荘だって思い込んでるけどね」
「サナトリウム?」
「いいや、精神病院だよ」
それを聞いて、リリーは黙りこんだ。玄関に着いたので、ドアを開けながら彼は言った。
「ひどいと思ってる? リリーはいつか、僕が優しいって言ったけど…リリーの方が優しいね。あんなにリリーをいじめた相手なのに」
久々に踏み入れた屋敷は、前と変わらない。ただ、使用人は前よりも減っているようで誰も見かけなかった。
「でもこれからは、誰もリリーを傷つけさせないよ。僕がさせないからね」
まるで兄のような口ぶりの彼に、リリーは違和感を感じた。
「さぁ、リリーどうぞ。僕の部屋にくるのは久々だよね」
彼が招き入れ、ランプに火を入れた。春の宵闇に満ちた部屋に、ぼうっとオレンジの光が揺れた。リリーは一歩、足を踏み出した。
「あのね、ユーナ」
「待ってリリー、僕に先に言わせてよ」
ユーナがくるりと振り向いた。ランプの火を後ろに、その顔は前より大人びて見えた。
彼が自分の前に立った時、初めて彼の背が自分を追い越している事に気が付いた。
(…いつのまに)
ユーナは少し目を伏せてこちらを見て、微笑んだ。
「ふふ、ちょっと…ドキドキするけど」
困惑する私を前に、彼はすっと片膝をついた。そして、顔を上げてリリーを見上げた。いつもは明るい水色の目が、今は炎の色が映えて妖しい紫色に見えた。
「リリー。大人になったら、僕と結婚して」
あまりの事に、リリーは無意識に後ずさった。
「ごめんね、びっくりしちゃった? もっと先に言うつもりだったんだ。でもリリーが学校に行くなら、今言っておいた方が良いと思って」
リリーは何も言えず固まった。頭がこんがらがって、ちっともまともに考えられない。数回首を振ってから、やっと口を開いた。
「だって…私たち、姉弟だよ。そんな事無理だよ」
ユーナは小首をかしげた。
「腹違いだから問題ないよ。いくらでも例はあるよ」
その大人びた言い草に、リリーは混乱した。
「そんな言葉、どこで…」
ユーナは吹き出した。
「もう、リリーったら、今はそんな事どうでもいいでしょ。ね。4年は長いけど……僕、待ってるよ。だから帰ってきたら、結婚して。ずっと一緒にいよう。さくらんぼの実がなるところを、また二人で見よう」
ここまで言われて、やっと頭のなかに理性が戻ってきた。リリーは居住まいを正した。彼にちゃんと、本当の事を言わなければならない。
「ユーナ、あのね。私はもう、ここに戻るつもりはないの」
ユーナの動きが再び止まった。ランプのゆらめきだけが、彼の影を揺らしていた。
「私は、バレリーナになりたいの。卒業したら劇団に入って、ダンサーとして頑張っていくつもり。だから結婚なんて…考えられない」
口にすると、その響きはますます場違いでバカげているように思えた。結婚なんて。この自分が?まだ、14なのに。
「ユーナ、結婚を考えるには早すぎるよ。…この冬一人にしたのはごめんね。けど、どっちにしろ私はいつかは出て行かないといけないんだし」
「戻るつもりはないって…なんで」
彼がかすれた声で言った。
「私はこの村に、居場所がないから。いなくなった方が、母様にとっても…」
「そんな事ないよ。だからお母様を追い払ったんだよ? リリーがここで、ずっと一緒に暮らせるように」
「追い払うって…そんな言い方、やめて。私は行くんだから、母様を呼び戻したっていいじゃない。ずっと病院暮らしは、可哀想」
ついに、彼が声を荒げた。
「なんで…なんで!」
ユーナが怒りにどすんと足を踏み鳴らした。
「なんで、今更そんな事言うのさ! 僕がどんな気持ちで、この冬ずっと…!」
そこでぷつりと彼の言葉が途切れた。リリーが頭を上げると、細められた彼の目と視線がぶつかった。
彼は不気味なほど静かに言った。
「ああそうか…リリーはこの冬、ずっと準備をしてたんだ? バレエの練習をして…僕には内緒で」
「…だって、それは、試験に受かるために必要な事だったから…!」
ユーナはいきなりずいっと私の肩に手をかけた。私は驚いて後さずった。その手をぎゅっとつかまれて、二人は同時にバランスをくずした。
「うわっ」
ユーナの上に倒れそうになるのを、なんとかかわしてリリーは床の上に転がった。ユーナはそんなリリーを見て薄くわらった。
「…さすがの運動神経だね」
立ち上がり、床に尻もちをついたままのユーナに手を差し伸べる。
「今までありがとう。ユーナが姉と認めてくれて、嬉しかった」
心から礼を言った。が、ユーナはその手をふりはらった。
「…僕は姉弟なんて思った事ない」